78.生ぬるい奴ら
社交界デビューしたばかりの年若い令嬢たちが、ダンスもそっちのけで会場の一角に集まっている。
類いまれなる美しさで同世代の少女たちの羨望の的となっているリリー・ウィレットと、リリーが社交の場を離れている間に頭角を現した新進気鋭のご令嬢、ジャクリーン・ベリーマン。そしてその二人の取り巻きたちによる、全面戦争が勃発しているのだ。
ジェイミーとウィルは出来るだけ遠くの方でリリーを見守っていた。巻き込まれたくないが、放っておくことも出来ないのである。
せめて殴り合いにならないことを二人で祈っていると、複数の女性たちを侍らせたニックが目の前を横切っていった。何かの間違いだろうと見なかったフリをする二人だったが、しばらくしてニックだけが戻ってきたので、現実であることを認めざるをえなかった。
「男二人で突っ立ってるだけなんて正気か? お前らここに何しに来たんだよ」
「それはこっちのセリフだ。ここで何やってるんだよお前」
ジェイミーの問いをニックは適当にはぐらかし、火花を散らしているリリーとジャクリーンに目を向けた。
「なんだあれ。リリーちゃんは俺たちより部下の数が多いんじゃないか? すごいな」
「あれでも減った方だよ。ベリーマン嬢がリリーの取り巻きにスパイを送り込んで十何人か引き抜いたんだ」
ウィルの言葉にニックは乾いた笑いを返す。
リリーとジャクリーンが可能な限り上品な言葉でお互いを罵倒している様子を、三人は静かに眺める。しばらくして、ニックがそういえばと声を上げた。
「シェリルちゃんに会った? 一瞬誰か分からなかったけど、ずいぶんと綺麗にめかし込んでたぞ」
「へぇ」
ジェイミーは視線を泳がせて、何か別の話題はないだろうかと急ぎ考えを巡らせた。しかし目ざといニックはジェイミーの不自然な態度を指摘することを怠らなかった。
「なんだよ。まずい話題だったか?」
「別にまずくはないけど……」
「けどなんだよ。お前最近あの子の話するの嫌がるよな。スティーブに鞍替えされてムカついてんのか?」
「何だよ鞍替えって」
当たらずも遠からずの指摘に苦い表情を浮かべるジェイミー。ウィルはニックと同様、不可解だという顔をジェイミーに向けた。
「正直、僕も気になってるんだ。あれだけジェイミーに懐いてたのに、最近全く寄り付かないだろ。もしかして喧嘩でもしてるの?」
「喧嘩なんてした覚えはないけど、俺が気付いてないだけかも」
勘が鈍いことに関しては自信があるジェイミーである。知らない間に怒らせたという可能性は十分にあり得る。本人に確認しようにも、話しかけようとするとスティーブと一緒にどこかへ消えてしまうので真相は未だ闇の中だ。
ジェイミーは戸惑っていた。
シェリルに避けられていることに対してではなく、自分に対してである。
シェリルに情が移ってしまっていることを、ジェイミーはだいぶ前から自覚していた。それでも、情の深さなんてたかが知れていると思っていた。
しかしシェリルとスティーブが親しくしている姿を見て、どうも自分の感情は思うほど浅くはないな、と気付いたのだ。
何事も成り行きに任せる主義のジェイミーだが、シェリルに関してはこれ以上自然に任せていては危険だと思った。だから最近は、効率のいい雪かきの仕方などを考えてシェリルのことを頭から追い出そうと努めていたのである。
悪いことに、騎士隊の中ではジェイミー=シェリルというイメージが定着してしまっていた。スティーブにベッタリなシェリルを見て、あれは一体どういうことだと皆がジェイミーに聞きに来るのだ。結局、ジェイミーの努力はほとんど意味を成さなかった。画期的な雪かきの方法なんて思い付かなかったし、シェリルのことを考えない日は一日もなかった。今ではまるで、浸水を防げない船の上に追いやられているような心境である。
ジャクリーンに罵倒されたリリーが儚げな嘘泣きを披露し聴衆を味方につけるという作戦に打って出た。だがニックとウィルの興味は完全にジェイミーに向いていた。
ニックは何かを考える素振りをしたあと、窺うような視線をジェイミーに向ける。
「なぁジェイミー。気をつかって言わないでおこうと思ったんだが、やっぱり言っていいか」
「だめだ。そのまま気をつかい続けろ」
ジェイミーは嫌な予感がしてニックの話を阻止しようとした。しかし長い付き合いだから分かる。この男は他人の都合を全く気にしないのだ。
「シェリルちゃんさ、スティーブに脅されてるんだってよ」
ジェイミーの予想通りニックは話すのを止めなかった。
だがジェイミーは文句を言うのも忘れて目を見開いた。
「脅されてる? なんで?」
「それがまた、おかしな話なんだよ」
シェリルがスティーブに脅されるようになったいきさつを、ニックは簡単に説明した。ジェイミーとウィルは全てを聞き終えたあと、同時に顔をしかめた。
「出世のために? 信じられないな」
ウィルの呟きにジェイミーも同意する。
スティーブは裏表の激しい奴だが、他人を踏み台にするほど俗悪ではない。本気で出世したいなら自力で上り詰めるだろうし、シェリルの協力のもと出世するなんて、彼のプライドが許さないだろう。それに加え、スティーブはとても賢い男だ。シェリルの監視を命じられたのなら、本人に気付かれるなんてヘマをやらかすはずがない。
「スティーブの奴、絶対何か企んでるよな」
ニックは腕を組み不敵な笑みを浮かべて言った。スティーブの腹の内を何とかして明かしてやりたいのだろう。
ジェイミーはというと、嫌な予感が的中したことに頭を抱えたい気分だった。意図的に避けられているわけではないことが分かって、シェリルに近付く口実が出来てしまった。脅される彼女を放っておいても誰も文句は言わないだろうが、きっと自分は、そうはしないのだろう。
ジャクリーンが貧血を装ってリリーに対抗している。熱い戦いが繰り広げられるなか、ジェイミーは今一番会いたくない人物を視界の端にとらえてしまった。
「あ、ジェイミー、ちょうどよかった。ちょっと聞きたいんだけど、シェリル見なかった?」
話題の中心である、スティーブが話しかけてきた。
ジェイミーは動揺を悟られまいと愛想のいい笑顔を浮かべる。
「いや、見てないけど」
「そっか、ならいいんだ。じゃあな」
すぐさま立ち去ろうとするスティーブ。ジェイミーは両隣から突き刺さるような視線を感じた。
ジェイミーは反射的にスティーブの肩を掴んだ。
「あーちょっと、待ってくれスティーブ。俺も聞きたいことがある」
一瞬驚いた顔をしたスティーブだったが、迷う素振りもなくすぐに頷いた。
「いいよ。何?」
「人づてに聞いたんだけど、俺を使ってシェリルのこと脅してるって本当か?」
何の前置きもなく尋ねると、スティーブは今度こそはっきりと驚いて見せた。そしてどういう回路が働いたのか、ジェイミーに向けていた視線をゆっくりとニックに移した。
「お前だな……ニック」
「は? 何が?」
「人づてにってのは、お前を介してってことだろ」
刺々しいスティーブの物言いにカチンときたらしいニック。何かを言い返そうとしたニックに被せるように、ウィルが声を上げた。
「本当なのか?」
スティーブはしばらく黙りこんでいたが、やがて観念したというように両手を上げ、事実であることをあっさりと認めた。
「ああ、本当だよ」
「目的は何だ。出世のためなんて嘘だろう」
ジェイミーが尋ねると、スティーブは困ったように頭をかいた。そして、深いため息をつく。
「残念ながら嘘じゃない。お前を使って脅すのが一番手っ取り早かったんだ。軽蔑でもなんでもしろよ。俺は全然気にしないから」
開き直る、という表現がぴったりの言い草だった。腹が立たなかったと言えば嘘になる。しかしジェイミーは、この場でスティーブを問い詰めるほどに我を忘れてはいなかった。
スティーブは悪い奴ではない。そのことをジェイミーはよく知っている。だから、今回のことは何かどうしようもない理由があるはずなのだ。きっとこれ以上問いただしても本心は引き出せないだろう。そう無理やり納得し、ジェイミーは潔く引き下がることにした。
「分かった。疑って悪かったよ」
「ああ、いいんだよ別に……」
スティーブは居心地悪そうに頷く。
重い空気が流れるなか、ニックがイライラと声を上げた。
「なんだその生ぬるいやりとりは! 生ぬるすぎて蕁麻疹がでるわ!」
何のいさかいもなく話が終わってしまったことでニックは不満爆発である。スティーブは悪態をつくニックを華麗に無視し、ジェイミーと正面から向き合って、神妙な顔つきになった。
「ジェイミー、ひとつ言っておくことがある」
「何?」
「お前とシェリルの仲を俺が邪魔してるってことも、もう知ってると思うけど、あれは嫌がらせとかじゃないんだ。隊長に個人的に頼まれてるんだよ。お前とシェリルをなるべく遠ざけるようにって」
ジェイミーは特に驚かなかった。そして、なぜそんなことを、と尋ねることもしなかった。沈黙はときにどんな言葉よりも雄弁に真実を語る。困った顔で黙りこむジェイミーに、スティーブもまた困った顔を向けた。
「正直、俺もそうした方がいいと思ってた。お前あの子に気を許し過ぎだよ。そりゃあ、あんな風に懐かれたらかわいくもなるだろうけどさ、取り入るために監視役をしてたんだからそうなるのは当然だし、お前まであの子にほだされてたら元も子もないだろ」
その気遣いは逆効果だった、とジェイミーはぜひ教えてやりたかったが、やめておいた。スティーブに悪気はなかったのだ。
「頭に入れとくよ。忠告どうも」
「もしシェリルを見つけたら教えてくれ。放っといたらすぐお前に近付こうとするからさ。多分俺より先に見つけられると思う」
「ああ、分かった」
どことなく申し訳なさそうな表情のスティーブを見送ったジェイミーは、両隣から注がれる意味深な視線に冷や汗を流した。
「なんだよ。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
早いところ嫌味でもなんでも言ってくれとジェイミーが願っていると、ウィルがジェイミーの期待に応えた。
「個人的に、ジェイミーはあんまり執着しないたちだと思ってるんだけど……」
「ああ、その認識は多分間違ってない」
「でも念のためシェリル以外の女性と親しくしておいた方がいいよ。ほら、向こうにレイチェルがいるから、ダンスに誘うべきだ」
ウィルが視線で示す先には、友人と談笑するスタンシー家の次女、レイチェルがいた。五年ほど前にリリーを介して知り合った、人当たりのやわらかい可憐な女性である。
リリーとジャクリーンの戦いは、リリーの勝利ということで幕を降ろそうとしていた。