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76.舞踏会のはみ出し者

 スタンシー家の屋敷は国軍本部から徒歩一時間半のところにある。雪道を一時間半も歩く猛者(もさ)は貴族にはそう多くないので、移動手段は馬車か馬である。馬車が禁止されている今の時期は馬に乗るしかない。


 絵を披露するためスタンシー家を訪問する必要に迫られたシェリルは、持病の腰痛が突如悪化して馬にはとても乗れない、とスティーブに涙ながらに訴えた。曲がりなりにも紳士であるスティーブは、絵を運ぶために愛馬のジュディーを伴ったものの、シェリルを無理矢理馬に乗せるということはしなかった。文句も言わず片道一時間半を歩くスティーブにシェリルはちょっと感動したが、よく考えればスティーブのためにスタンシー家を訪問するわけで、何も感動することはないな、と再確認しただけの一時間半であった。






 スティーブに連れられスタンシー家の屋敷を訪れたシェリルは、売れない画家と偽り、ここ数週間で描き上げた作品を男爵に披露した。

 男爵はシェリルの絵を見て、ここはどういう気持ちで描いたのかとか、なぜこの部分はこうしたのかという質問を絶え間なくぶつけてきた。何も考えず描いた絵なので、必死にそれらしいことを言ってその場を切り抜ける。やがて男爵からシェリルの絵の何点かを買い取りたいという申し出があった。


 まさか売れるなんて、と信じられない気持ちで承諾するシェリル。最終的に、スティーブの作戦は上手くいったと言えるだろう。シェリルの絵を通じてスティーブと男爵はずいぶんと親しくなったようだった。


 屋敷を去る直前、シェリルは男爵に、もしよかったら二週間後に催す我が家の舞踏会に参加しないかと誘われた。これに焦ったのはスティーブである。スティーブは、彼女は社交の経験が無いのでそれは難しい、と男爵の誘いを断った。しかしシェリルはスティーブに対する日頃の鬱憤を晴らすつもりで、参加します、と即答した。


 この出来事から得られる教訓は、意趣返しは勢いでするものじゃない、ということだろう。スティーブを困らせるつもりで応じた舞踏会への参加は、結局シェリル自身を追い詰めることになるのだから。


 まず、シェリルはドレスを持っていない。そして化粧すらしたことがない。さらには、踊れない。マナーも知らない。とにかく、いろいろなものが足りない。そんな状態で貴人の巣窟に乗り込むなんて、体に重石をくくりつけて海で泳ごうとするようなものである。


 たとえそのことに気付いたのが舞踏会の一週間前だったとしても、責められるものではないとシェリルは思う。頭に血が上っているときに下した決断が、正しいわけがないのだから。


 もう夕日に向かって走るしかないな、と窓の外を眺めてたそがれていたシェリルに手を差しのべたのは、諸悪の根元であるスティーブだった。

 どこからどう見てもノープランであるシェリルに言い様のない不安を覚え、手を貸すしかないと判断したらしい。

 シェリルはスティーブに対し、余計なお世話だと華麗に突っぱねたい気持ちと、ぜひ助けて欲しいという気持ちとで板挟みになる、という段階を踏みたかった。しかしそんな時間は無かったので潔く彼の手を借りることにした。


 ドレスはスティーブの義姉のドレスを借りることになった。現在の社交界の主流は袖なしのドレスに長い手袋らしいが、シェリルは腕に烙印があるのでそのような服装で貴族の巣窟をうろつくわけにはいかない。仕方なく、ひと昔前に流行った、ぴったりとした網目の細かいレースの袖がついたドレスを着ることになった。流行遅れとはいえ、普段着ている糸のほつれたスカートよりははるかにましだった。


 ダンスやマナーはスティーブが特訓してくれる予定だったのだが、特訓というほどのことはしなかった。一度教わったら、それだけで覚えてしまったのだ。人間追い詰められると想像以上の能力を発揮出来るものである。


 突発的な腰痛で馬に乗れないということになっているシェリルのため、スティーブはスタンシー家の近くに宿をとった。舞踏会の前日に歩いて宿まで行き、当日、スティーブの家の使用人に身だしなみを整えてもらうのだ。せっかくのドレスを雪道で泥だらけにするわけにはいかないからである。


 とにかく、舞踏会になんとか参加できる状態にはなった。最初は自分の軽はずみな判断を呪っていたシェリルだったが、初めての舞踏会に心踊らせているのも、また事実だった。


◇◇◇


 きっと大変な思いをするだろうと身構えていたことが、実際に体験するとそんなに大変でもなかった、というのはよくあることのように思う。


 シェリルの舞踏会デビューは、まさにそんな感じだった。


 生まれて初めて化粧を施してもらったときが緊張のピークであり、華やかな会場に足を踏み入れた瞬間から徐々に気持ちが冷めていった。


 スタンシー夫妻に挨拶し、スティーブをどこかの令嬢にかっさらわれてから、シェリルはずっと壁の花である。


 悪目立ちしてしまうのでは、という不安は取り越し苦労だった。華々しい容姿の令嬢たちの中では悪目立ちすることさえ難しいのだ。


 おまけに付け焼き刃の教養では上流階級の会話にまるでついていけない。内容が難しい、とかではない。話している言語が違うのである。


 そう、言語がちがうのだ。


 共通語を話している人もたくさんいる。しかしシェリルに対しては皆、知らない言語で話しかけてくる。言葉が分からないと伝えると、全員がっかりした様子で立ち去ってしまう。


 一体何が起きているのか。


 上流階級は上流階級専用の言語があるのだろうか。


 だとしたらなぜスティーブは事前に教えてくれなかったのだろう。


 しばらく真剣に考えて、そういえば、アンタレス人は語学力に優れているという話を聞いたことがあるな、と思い出した。


 アケルナー人はおおむね、手先が器用だといわれている。レグルス人は身体能力が高いし、フォーマルハウト人は計算が得意だ。そしてアンタレス人は、語学に堪能である。


 読み書きが出来なくても二つの言語を習得している、というのはまれにある話で、きちんと教育を受けた者なら最低三つの言語は操れるという噂だ。


 つまりスティーブは、いくつかの言語を話せるのが当たり前すぎて、シェリルが共通語しか話せないことに思い至らなかったのだ。


 舞踏会で異なる言語を使うのは、自分たちは上流階級だと確認するための手段なのだろうか。他言語を理解できないという時点で、ダンスを申し込むにも値しない身分の人間だとバレてしまうのかもしれない。共通語を話している人々は恐らく旧知の間柄で、わざわざ身分を確認し合う必要が無いのだろう。


 というわけで、シェリルは第一関門でふるい落とされてしまったのである。


 となればダンスで失敗する心配も無いし、上流階級特有の話題についていけなかったらどうしよう、という心配も無意味だ。難なく景色の一部となり舞踏会を傍観することが出来る。


 心強いことに、シェリルには仲間がいた。


 同じように壁に張り付いてつまらなそうな顔をしている男女が数人いる。彼らはきっと、ダンスで失敗したとか、話題についていけないとか、シェリルより一歩先を行った理由で舞踏会から弾き出されたのだろう。どんな分野にもはみ出し者は存在するのだ。


 ただ見ているだけというのも癪なので、シェリルは酒をグビグビ飲んで気を紛らしていた。


 三杯目のグラスを空にしたとき、目の前に新しいグラスが差し出された。


「お嬢さん、酒は過ぎると毒ですよ」


 毒と言いつつ堂々と酒を差し出す男に目をやる。そこには、皮肉っぽい笑みを湛えたニックが立っていた。

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