71.怒れるお嬢様
なんやかんやで報告書を仕上げた隊長は、リリーのお説教に耳を塞いでいるジェイミーを呼び付けた。ジェイミーは普段の十倍は素早い動きで隊長の元に駆けつけ、隊長はジェイミーと副隊長を伴って執務室を出ていった。
残った隊員たちは各自の仕事に戻っていく。シェリルは暇になってしまって、ジェイミーに逃げられたことで大変ご立腹な様子のリリーに近付いた。
「座ってもいい?」
「どうぞ」
むくれたまま自分の隣を示すリリー。怒っていても愛らしいことこの上ない少女の隣に、シェリルは苦笑しつつ腰を下ろす。
何か面白い話でもして機嫌をなおしてもらおうと思案していると、リリーは片腕をソファーの背にかけ、シェリルの方に上半身を向けてきた。
「スプリングって呼ばれてたわね。さっき」
「え?」
「ミロノワじゃなかったっけ?」
リリーの指摘にそういえばそういう設定だったっけ、と冷や汗を流す。あれだけジェイミーを追い詰めながら騎士たちの話も聞いていたとは、どういう耳をしているんだろうか。
「スプリングは母方の姓なの。私の国は父方と母方、両方名乗る習慣があって……」
「ふぅん。シェリルって何が目的でアンタレス国に留学してるの? ずいぶんと騎士隊と交流を深めているようだけど」
あー、それはー、とシェリルは無駄にもったいぶって時間を稼いだ。そもそも、国軍が決めたシェリルの設定がかなりフワフワしているので、細かいところを突かれてしまっては上手く答えることなど出来るはずもない。
「き、機密なの。細かい事情を話してはいけないという取り決めを軍と交わしてるのよ」
「あ、そう」
リリーはあっさり引き下がった。彼女が再び疑問を持つ前に、シェリルはすかさずこちらから質問を投げ掛けることにする。
「リリーの方こそ、頻繁にここに来るわよね。騎士隊は誰も文句言わないし、昔からよく来てるの?」
「お父様の策略よ。というか、策略だった」
まるで吐き捨てるような口調だったので、シェリルはリリーに説明を求めた。
リリー曰く、彼女は七つの頃から、父親の指示で軍学校によく顔を出していたらしい。王都に居を移す社交シーズンだけのことであったが、滅多に屋敷に帰ってこないジェイミーと遊べるので毎年楽しみにしていたという。おまけに兄の友人たちとも親しくなれる。それこそがハデス伯爵の狙いであった。
軍学校に通っている子息たちは皆が皆、本気で軍人になりたいわけではない。軍学校はいわば寄宿学校のような役割も担っており、小さい子供を煩わしく思う金持ちが、手のかかる年頃の息子を送り込む場としても使われていた。もちろん子供を国軍に入れたいエリート思考の親も利用する学校だから、あちらこちらからまんべんなく身分の高い少年たちがやってくる。
幼い頃から軍学校に入り浸れば、社交界デビューを待たずして良縁を掴むチャンスを手に出来るというわけだ。
「兄さんが本部の騎士隊に配属されてからは、ここに来るようになったってわけ。思うに、ここまで必死になって権力を追い求めるのは国中探してもお父様だけだと思うわ」
リリーはため息混じりに呟く。いくら高貴なる者たちの集まる場所であっても、軍学校や軍の本部に娘を送り込む親などそういない。
それでも、とシェリルは考える。リリーは王弟であるウィルと婚約している。伯爵の思惑通りと言えなくもないのではないか。
考えていることが顔に出ていたらしい。リリーは言いたいことは分かるという風に頷いた。
「お父様はね、本当は私と陛下を結婚させたかったのよ。陛下が時々軍学校に現れることは有名だったから」
伯爵の予想通り、ローリーはリリーのことを軍学校で出くわすたびよく可愛がった。これはいける、と思ったのは伯爵だけではない。ローリーの周囲にいる人間もなぜだか盛り上がった。リリーのことを将来の妃候補にしてはどうかと側近は持ち掛けたが、当時、リリー十歳、ローリー二十八歳である。「虐待だろそれ」というローリーの一言で大人たちは我に返った。
「それじゃあ、ウィリアム王子と婚約したのはリリーの本意じゃないの?」
話を聞く限り、国王がだめだったからその弟で妥協したという風に思える。しかしシェリルの問いにリリーはとんでもないと憤った。
「私は七つの頃からウィルにずっと片思いしてたの。婚約に漕ぎ着けるまで本当に大変だったんだから」
「へぇ……」
意外だな、とシェリルは目を瞬いた。リリーに慕われてその気にならない男などいるのだろうか。
詳しく聞けば、幼い頃から軍学校に通い詰めたことが仇となり、ウィルはリリーのことを妹のようにしか思っていなかったらしい。私と結婚してと数えきれないほど訴えたリリーだったが、ウィルは子供の言うことだと適当に受け流していた。最終的に泣き落としが一番効いたという。
「婚約してしまえばこっちのものよね。お父様を喜ばせたことは本意じゃないけど」
いろいろ突っ込みどころのある発言だが、指摘するのも野暮だと思いシェリルは「そうなの」と答えるのみにとどめた。リリーは調子が上がってきたのか、勢い込んで愚痴をこぼしはじめた。
「大体、お父様は横暴なの。シェリルはハデス伯爵を知ってる? 今さらだけど、私の父親なのよ」
「ええ、三百年続いてる家の主人だとか……」
「本当かどうかは定かでないけどね。だって、三百年も続いてることを誰が証明できるっていうのよ。アレース公爵家だって似たようなものよ。どうして人って長く続いているものを無条件に崇拝しようとするのかしら」
うんざりとため息をつくリリー。なんだか話が入り組んできた。彼女が納得するような答えを返せるだろうかと、シェリルは妙に緊張する。
「長く続く家は限られてるから、貴重だってことじゃないの?」
「貴重だから素晴らしいとはかぎらないでしょ」
シェリルの考えは一蹴された。
シェリルはリリーに尊敬されるような返答をすることを早々に諦めた。勢いだけで生きている自分が人間の行動原理を説くなど無謀以外のなにものでもない。
「お父様が望んでるものは権力のみよ。それが実際に素晴らしいかどうかなんて気にしたこともないはず。例えば、お母様を選んだ理由だってそう。お父様はお母様を利用価値のある道具だとしか思ってないんだもの」
シェリルはあれ、と首をかしげ、記憶の箱をひっくり返した。
確かジェイミーの話によると伯爵夫人は身分が低いのではなかったか。だから貴族特有の生活についていけず体を壊したのだ。そしてウィレット家の評判は徐々に落ちていった。伯爵が本当にリリーの言うような人なら、何のためらいもなく離婚しそうなものである。
シェリルがそう意見すると、リリーはグレーの瞳をそれはそれは大きく見開いた。
「ちょっと待ってよ。兄さんがお母様のことを話したの? シェリルに?」
「う、うん」
リリーは先程までただの話し相手だったはずの相手が実は何かしらの有名人だったと気付いたときのように、シェリルのことをしげしげと見つめた。
「じゃあ、さそりの心臓のことも聞いた?」
リリーは口元に指を添え、シェリルの表情を一瞬も見逃すまいといった様子で尋ねる。シェリルは眉根を寄せ、聞き慣れない言葉を問い返した。
「さそりの心臓? 何なの、それ」
リリーはしばらく考え込んだあと、口を開いた。
「さそりの心臓はね、ダイヤモンドよ。世にも珍しい真っ赤なダイヤモンド」