69.シェリルの天敵
「あの、嫌ならそう、はっきり言ってくれていいんだけど……」
「い、嫌じゃない! 今すぐ乗る! 今すぐにね!」
馬小屋の前でシェリルとジェイミーは終わりの見えない押し問答を続けていた。馬上から差し出されるジェイミーの手をシェリルがいつまでたっても掴まないのだ。
いい加減に焦れた様子のジェイミーは一旦馬から降り、もたついているシェリルに近付こうとした。そのとき、ジェイミーの背後にいる馬が大きくくしゃみした。シェリルは驚き、大げさとも言える距離を飛び下がる。
その反応でジェイミーはようやく納得出来たという顔をした。
「馬が苦手なのか?」
「す、少しだけ。でも大丈夫。今すぐに克服してみせるから」
言いながら、前足で雪を掻いて遊んでいる馬にじりじりと近寄る。馬はふいに顔を上げ、シェリルに向かってヒヒンと短く鳴いてみせた。瞬間、シェリルはピシッと硬直する。
「こら、からかっちゃだめだ」
ジェイミーはそう言って、馬の注意をシェリルから逸らした。馬は『だって暇なんですもん』とでも言いたげに、ジェイミーに顔を擦り寄せる。
「それなら、俺が代わりに市場に行ってくるよ。フォーマルハウト国の店で懐中時計を買えばいいんだよな?」
「そんなのだめよ。私がアニーさんに贈る物なんだし、ジェイミーは私の召し使いじゃないんだから」
「でも早くしないと市場が終わるけど……」
シェリルは口ごもる。
やってできないことはない。苦難に挑んでこそ、人生は豊かになるというもの。誰もが平気な顔で乗っている馬に、自分だけが乗れないなんてことはあり得ない。シェリルは己の哲学をもってして自らを奮い立たせた。それから、のほほんとジェイミーに甘えている我が天敵に向かって、気合いの入った一歩を踏み出した。
――完敗だった。
なんとか背中には乗った。そして本部の敷地を出た。ジェイミーは騎士の名に恥じぬ腕を持っていた。そしてシェリルは、背後からちゃんと支えてもらっていたにも関わらず恐怖で魂が半分抜けた。
震えるシェリルをジェイミーは気の毒に思ったらしい。王都に下りて少し行ったところで、やっぱりやめようと言い出した。シェリルは首を縦に振るのがやっとで、地面に降ろされた瞬間腰が抜け地面に倒れ込んでしまった。
完全敗北である。馬がフンと鼻を鳴らす。屈辱を噛み締めるシェリルの傍らに、ジェイミーが身を屈める。
「大丈夫か? 気分悪い?」
「……このまま雪と一緒に溶けてしまいたい」
「落ち着け。酒場で休憩しよう。立てる?」
ジェイミーの手を借りつつ一軒の酒場にたどり着く。まだ準備中だったが、店主に頼み中に入れてもらった。
走り足りないんですけど、と言っている(ように見える)馬を店先に繋ぎ、二人は机を挟んで向かい合い腰を下ろす。
「馬が苦手だなんて全然気が付かなかった」
ジェイミーがしみじみと呟く。シェリルはどんよりとした空気を漂わせつつ、ため息をついた。
これまで何度か馬に近付く機会はあったが、触れる必要は無かったので隠しきれると思っていた。まさか馬車が禁止されるとは予想外である。
机と同化しそうなほど落ち込んでいるシェリルに、ジェイミーは気遣わしげに声をかけてきた。
「多分、自警団との話し合いが明日終わることはないと思うよ」
「本当……?」
「騎士隊の予算はそう多くないからな。だから焦らなくても、懐中時計はまたいつか買えるから、そんなに落ち込むことないって」
「そう……。結局ジェイミーを振り回しただけになっちゃった。ごめんなさい」
シェリルは即立ち直り、机と分離する。せっかくの休日を潰してしまったことを詫びると、ジェイミーは頬杖をついたままのんびりとした声を出した。
「いいよ。シェリルと一緒にいると面白いから」
「面白い? 楽しいとかじゃなくて?」
「見てると飽きないんだよなぁ」
「それ、褒めてるの?」
遠回しに貶されたような気がするが、シェリルは怒る気になれなかった。きっとこれは惚れた弱みというやつなのだ。
なんだかいろいろ悔しくて閉口していると、酒場の店主が二人の元にやって来た。そろそろ客席の準備をしたいと言うので、店主に礼を告げ、二人と一頭は酒場をあとにした。
帰り道。もちろん歩きだが、行きと違って背中に誰も乗せていない馬は自由になった気がしたのかとても上機嫌だった。道の端に寄せられている雪を見つけるとフラフラと近付こうとするので、ジェイミーはそのたびに手綱を引き注意する。
シェリルは微妙な距離をとりながら、仲睦まじいジェイミーと馬を眺めていた。何が悲しくて想い人と天敵が戯れる姿を見守らなければならないのか。しかも見守っているのはシェリルだけではない。仕方ないなぁと言いながら笑っているジェイミーを目で追っている通りすがりの女性がちらほら……。気持ちはよく分かる。しかし面白くない。
むくれているシェリルに、ジェイミーが気付いた。
「大丈夫? 疲れたんなら、先に帰ってもいいよ」
「いいの。大丈夫」
馬に遠慮などするものか、とシェリルは謎の対抗心を燃やす。馬は馬で、ジェイミーの肩を鼻先でつついて気を引こうとしている。シェリルは負けじと、人間だけに許された能力、言語による意思伝達でジェイミーの注意を引くことにした。
「私、アニーさんだけじゃなくてジェイミーにも贈り物をしたいと思ってたの」
「俺に? なんで?」
「だって一番迷惑かけたような気がするし」
「迷惑だったとは思わないけど……」
「でも断念したの。困らせるだけだと思って」
きっと金銭感覚が天と地ほど違う。表面では喜んでくれるだろうが、どんなものを贈ってもジェイミーにとっては安っぽく映ってしまうだろう。そうシェリルが説明すると、ジェイミーは不服だと言いたげに顔をしかめた。
「それ、心外だな」
「分かってる。でも中途半端な物ならあげる必要ないと思ったの」
しかしこのままではジェイミーにとって、シェリルはなんだか迷惑な奴だったな、という印象で終わってしまう気がする。そこで、考えた。
「私、ジェイミーにあげられるものが一つあるのよ」
「へぇ。何?」
ジェイミーは興味深げに尋ねる。シェリルはためらいつつ、答える。
「……怒らない?」
「怒らないよ。なんで?」
「私の母の話なんだけど……」
シェリルがそう言った瞬間、ジェイミーは無意識にか、歩みを止めた。
「シェリルの?」
「そう。血は繋がってないけど。もうこの世にはいない人よ」
病気の母を持つジェイミーにとっては配慮の無い話題かと思ったが、ジェイミーは特に拒否反応は示さなかった。話を続けても構わないと判断したシェリルは、スプリング家に買われる前の頃の話を、ジェイミーと、ついでに馬に打ち明けた。
きっかけは、奴隷であればそんなに珍しいことじゃない。
格子の向こうで奴隷を物色している客の中に、親子と思われる二人組がいたのだ。娘の方はシェリルと同じくらい、八、九歳に見えた。鎖に繋がれているシェリルとは対照的に少女は綺麗なドレスを身にまとっていた。
「お母さん、あの子は?」
少女がシェリルを指差す。母親と思われる女は優しげな顔をシェリルに向けにっこりと笑った。
「かわいい子ね。でも、遊び相手ならもっと小さな子の方がいいわ。怪我させられる心配が無いでしょう?」
そっかぁ、と娘は頷く。じゃあね、と手を振られたので、シェリルは少女の真似をして手を振り返した。
このときシェリルは小さな衝撃を受けていた。あれがお母さんというものなのか、と感動していたのだ。単語は聞いたことがあったが実際にはどんなものか知らなかった。
優しそうで、笑いかけてくれる人。怪我の心配をしてくれる人。
いいなぁ、と思った。どうしてあの子にはお母さんがいて、自分にはいないんだろう。私もお母さんが欲しいなと思い始めると何だか悲しくなってきて、何が悲しいのかも分からず膝を抱えて泣いた。
檻のすみでいつまでもぐずぐずしていると、一人の女が近付いてきた。同じ檻で売られている奴隷である。どうして泣いているの? と尋ねられ、お母さんがいないから、と答えた。すると彼女は、それなら私がお母さんになってあげるよ、と言ったのだ。
自分もちょうど娘が欲しかったのだと言う女は、4606号という呼び名しか無かったシェリルに"シェリル"という名前をつけてくれた。この瞬間を、シェリルは一生忘れることはないだろう。
母は自分が、どこかのお金持ちの家で生まれたお姫様なのだと信じていた。なにか理由があって売られてしまったけど、本当はたくさんの人に愛される人生を歩むはずだったのだと口癖のように言っていた。だから、私の娘であるシェリルも立派なお姫様よ、と母は言い聞かせてくれた。
そんな話を信じるほどシェリルは夢見がちではなかったが、悪い気分では無かった。本当にお金持ちの娘だったらどんな毎日を送れただろう、と二人でよく語り明かしたものである。
それから三年ほど経ち、母はよく寝込むようになった。元々病弱で全く買い手がつかない人だったので、いつかこうなるとシェリルは何となく予感していた。
母は自分の死期を悟ったのだろう。冷たい床に寝そべりいつものようにシェリルの頭を撫でながら、あなたにあげたいものがあるの、と言った。
なんにもいらないからずっと側にいてと懇願するシェリルの涙を拭って、母は言った。
「本当だったら私に起こるはずだった全ての幸せを、あなたにあげる。私はこの檻の外で、自分で自分の人生を決めて生きていくはずだった。かけがえのない人に出会って、その人に愛されるはずだった。全部あげるわ。あなたは私の人生そのものよ、シェリル」
数日後、母は息を引き取った。そして早々に、シェリルの人生は動き始める。スプリング家に買われたことで何もかもが一変したのだ。
シェリルはジェイミーと、ついでに馬に向かって言った。
「よく考えるの。もし私に家族がいたら最高の人たちだったはずだって。だから私、奴隷じゃなければ持ってるはずだった家族との幸せを、ジェイミーに譲ろうと思う。私の母さんみたいにね。今のところ私の人生はうまくいってるから、ジェイミーもきっとうまくいくはずよ。私が保証するわ」
家族との関係に悩むジェイミーの肩が少しでも軽くなればと思っての話だった。それなのに、ジェイミーはなぜか重石を乗せられたみたいに動かなくなってしまった。