6.踏んだり蹴ったり
「……それ、どうしたの?」
リリーは向かいに座るジェイミーの額を見て怪訝な顔をした。ジェイミーは額を押さえながら曖昧な笑みを浮かべる。
「これは、いろいろあって。というかリリー、侍女はどうした」
「部屋の前で待たせてる」
「え、なんで?」
「なんで? なんでですって?」
語気を荒げるリリー。どうやらジェイミーは触れてはいけないことに触れてしまったらしい。
「あの、言いたくないなら別にかまわな――」
「教えてあげるわ兄さん。あの女はお金に釣られて私のことを一挙一動お父様に報告するから外で待たせてるのよ! 滅多に屋敷に帰ってこない兄さんは知らないでしょうけどね!」
ジェイミーはリリーの攻撃をかわすことを早々に諦めた。大人しく話を聞くことに徹する。
「大体ね、兄さん。いつになったら噂を何とかしてくれるの? 私、お茶会もまともに参加できないんだけど」
リリーは美しい顔一杯に不機嫌を張り付けて、不満をぶつける。
複雑に編み上げたプラチナブロンドの髪。ガラス玉をはめたようなグレーの瞳。華やかで愛らしい容姿のリリーは、『社交界の花』『アンタレス国の奇跡』などなど、ありとあらゆる賛辞を欲しいままにしてきた。ジェイミーの変態疑惑が広まるまでは。
「悪いと思ってるよ」
ジェイミーは申し訳ないという顔で呟く。リリーはイライラとソファーの端を扇子で叩いた。
「謝って欲しいんじゃ無いのよ。噂を何とかしてほしいんだってば!」
ジェイミーに対するあらぬ噂が広まったとき、一番の被害を被ったのはリリーであった。リリーは昔から、社交界での注目度がジェイミーと比べ物にならないほど凄まじかった。よって噂の影響も並み大抵のものではない。特にジェイミーと恋愛関係にあるという噂は、とてつもない破壊力であった。
リリーの隣に座っているウィルはやんわりとリリーをなだめる。
「ジェイミーも大変なんだよ。今日のところは勘弁してやって」
「いいえウィル、兄さんは問題と向き合おうとしてないだけ。仕事に逃げてるばかりじゃ状況は悪くなっていく一方よ!」
ジェイミーの隣に座っているニックもジェイミーが少し気の毒になったらしく、リリーに恐る恐る話しかけた。
「人の噂は気にするだけ無駄だって。何かしたからどうにかなるってものでもないんだからさ」
自分の事を庇おうとする二人を前にして、ジェイミーは感動していた。俺はいい友人を持ったなぁとしみじみ噛み締めていると、リリーがとんでもないことを口にした。
「ニック。あなた、兄さんの秘密の恋人だって噂が流れてるわよ」
ジェイミーとニックは同時に固まる。リリーはつれない口調で言葉を続ける。
「広めてるのはギルバートよ。あなたたち彼の気に障ること何かしたんでしょ」
しばらく呆然としていた二人だが、いち早く我に返ったニックが勢いよく立ち上がった。
「どうしてくれんだよジェイミー!」
「えぇ……」
ジェイミーの味方が一人、リリーに取り込まれてしまった。
ニックは力なくソファーに座り込む。
「あぁ。その噂がキャサリンとケイシーとジュリアとスーザンとアマンダとマリーとジュリアの耳に入ったら、俺は一体どうすれば……」
ニックは悲痛な面持ちで頭を抱えた。ジェイミー、ウィル、リリーはその様子を冷ややかに見つめる。
「何でジュリアを二回言うのよ」
「ジュリアって女の子が二人いてね」
ウィルは気遣わしげな視線をジェイミーに向けた。
「ジェイミー、僕からギルバートにひとこと言おうか。いい加減な噂をこれ以上流さないようにって」
「いやぁ……」
ジェイミーはウィルの提案に、複雑な気持ちになる。口ごもるジェイミーとは対照的に、ニックはためらいなく思ったことを口にした。
「やめとけ。お前影で"名ばかり王子"とか"王家の透明人間"とか言ってバカにされてるんだぜ。完全にナメられてるからお前が何か言ったところで変わりゃしねぇよ」
「ああ、それ薄々気付いてたんだけど、やっぱりそうなんだ。はっきり言ってくれて助かったよ……」
ウィルは再び膝を抱えてしまった。
「なんてこと言うのよ!」
リリーがニックを睨みつける。ニックはそ知らぬ顔でそっぽを向く。このままでは場の空気が重くなっていく一方である。ジェイミーは空気を変えるべく大きく咳払いした。
「ところでリリー、用って何?」
とっととこの場を切り上げてしまおうと密かに考えていたジェイミーの目の前に、リリーが一枚の封筒を差し出した。
「何だこれ」
「お父様から」
とたんジェイミーの表情が不審なものになり、封筒を受け取ろうとしていた手が止まった。
嫌な予感がする。そう思って封筒を受け取らないでいると、リリーがさっさと封筒の中身を取りだし広げて見せた。
「手紙?」
ニックが覗き込んだ品のあるデザインの便箋には、お手本のように綺麗な字がずらりと並んでいた。ジェイミーの変態騒動によってウィレット家の威光がいかに貶められているかという旨の言葉が、ところ狭しと綴られている。
ニックとウィルは哀れみの視線をジェイミーに向けた。リリーは未だ空を掴んでいるジェイミーの手に、無理矢理手紙を握らせて告げた。
「要約すると、変態疑惑を治めるためにも、ひと月以内に次の婚約者を見つけるように、ですって」
ジェイミーは真っ青な顔で握った紙を見つめる。
「ひと月……」
青い顔のジェイミーの肩を、ニックが叩いた。
「まぁそう深く考えるな。どんなに冴えない男でもひと月で女をモノにできる方法を俺が伝授してやるから」
「忘れたのかニック。俺は今妹に手を出してお前と恋人同士なんだぞ」
「甘いなジェイミー。世の中にはお前よりも奥深い女が山のように存在するんだぜ」
楽観的なニックとは対照的に、ジェイミー、ウィル、リリーは難しい表情である。
ウィルが口を開いた。
「貴族同士の婚約は、親が反対すればいくら本人たちがその気でもできないものなんだよ。今回の騒動でウィレット家の評判は相当悪くなってるし、今このタイミングで婚約に応じてくれる家が見つかるかどうか……」
「じゃあ、貴族以外と婚約すれば?」
ニックの提案に、三人は賛同する素振りを見せない。どうやらニックの言うことはことごとく的はずれのようだった。
「爵位の無い家と婚約なんて、お父様が許さないわ」
「それじゃあなに、ひと月以内に厳選した家柄の娘と婚約しろって言ってんのか? どんな横暴だよ」
ニックが呆れた風に言った。
ジェイミーはひとつ息を吐いたあと、もう一度手紙に目を通した。
「とりあえず、手紙に目は通したと父上に伝えてくれ」
そう言って立ち上がったジェイミーは扉の方に向かって歩いていき、ドアノブに手をかけた。瞬間、扉が額に激突する。
「痛!」
「大変だ! ウィリアム居るか!?」
勢いよく扉を開いて現れた隊長は、うずくまるジェイミーの姿を見て動きを止めた。
「ジェイミー、体調はもういいのか?」
「おかげさまで……」
ジェイミーはヨロヨロと立ち上がる。
「隊長、衛兵隊への襲撃は終わったんですか」
ニックが苦笑いで尋ねると、隊長はハッとして叫んだ。
「そんなことはどうでもいい! トマス・スプリングが脱獄した!」
「ええ!?」
誰のものとも分からない声が部屋中に響き渡った。