68.ジェイミーの事情
ウィレット夫妻はいわゆる身分差婚というやつで、夫人であるサラは爵位もなければ領地持ちでもない、およそ高貴とは言いがたい家の生まれである。貴族など見たことも触れたこともなかったサラは、名門と呼ばれるウィレット家の当主、ハデス伯爵に見初められ伯爵夫人となった。
貴族社会での夫人の役割は大きい。屋敷の使用人を統率するのは女主人の役目であるし、貴族同士の細かい人間関係を読み取り、お茶会や夜会で自らの存在感を示すことも重要だ。少しでもへまをすれば、社交界の勢力図はあっという間に変貌する。
そんなプレッシャーに、まともな教育すら受けていない田舎娘が耐えられるわけがなかった。サラはリリーを生んでからろくに食べ物も喉を通らなくなり、それから現在まで、長い療養生活が続いている。
女主人がその役割を担えなくなると、その家の評判は必然的に落ちる。ただでさえアレース公爵家との確執があるハデス伯爵家は、瞬く間に劣勢に立つこととなった。
ハデス伯爵は、そんな現状を仕方がないと言って受け入れるような人ではなかった。彼は野心家である。地位や名誉が命よりも大事だと信じていて、それを手にするためなら罪を犯すこともいとわない男だ。
伯爵はありとあらゆる治療法を試した。医者だけでなく、高名な神官を呼んで祈ってもらいもした。だがどれも効果はなく、伯爵はいつしか憂さ晴らしのように公然と愛人を侍らすようになった。
伯爵は妻を見限ったが、伯爵の妹であるヘザーは諦めなかった。ヘザーはサラのことをとても嫌っていたため、彼女のせいで家の評判が下がっていくことがどうしても我慢ならなかったのである。どうすればあの女は再び女主人として機能するようになるのか。伯爵よりも執念深く考える。そして、滅多に屋敷に戻らないジェイミーの存在を思い出す。
八つの頃から軍学校の寮で生活しているジェイミーは、サラと顔をあわせる回数が極端に少ない。それでも幼い頃は頻繁に母を見舞っていたが、いつからか全く顔を見せなくなった。
母親は娘よりも息子を特別に可愛がるもの。サラが元気を取り戻さない原因はここにあるのではないかとヘザーは考えた。
確信を持ったヘザーはそれ以来、サラの見舞いに来るようジェイミーにしつこくけしかけるようになる。
しかしジェイミーとサラの関係は、頻繁に会えば元気になるというような、そんなに単純なものではなかった。
ジェイミーは幼い頃からずっと伯爵の操り人形だ。伯爵はサラのせいで失ったウィレット家の威厳をジェイミーで取り戻そうと躍起になっている。だから彼はジェイミーに対して、常に優れた息子であることを強く望んだ。
国王に仕える武人を目指すことは当然のこと、親しくする友人も当たり前のように伯爵が指定した。同年に軍学校に入学したアレース公爵家の長男、ギルバートに劣ることはもちろん許されない。例えば身長でさえ、ギルバートより伸びるのが遅ければ当然のごとく殴られる。花形である騎士隊に入隊しろという命令は序の口。政の中心である王都に位置する、本部に配属されなければ、この手でお前を殺してやるとまで伯爵は言ってのけた。
ジェイミーは特別に優秀な子供ではなかったが、必死で訓練と勉学に励んだ。自分が頑張れば母は元気になると信じていたからだ。
十三歳の頃。ジェイミーは母の見舞いのためウィレット家の屋敷を訪れた。学校でいい成績をとったとか、そんな内容の報告をしに行ったのだとジェイミーは記憶している。
サラはジェイミーの姿を見るなり大声で泣きだした。
そんなに疲れた顔で見舞いに来て、当て付けのつもりなの。お前の顔を見ていると罪悪感しかわいてこない。もう私を責めるのはやめてちょうだい。よけいに具合が悪くなる。
本当に容態は悪くなった。ジェイミーが顔を見せた日にサラは必ず発作を起こす。サラに対して無関心なウィレット家の住人や、まだ幼いリリーはサラの発作とジェイミーの訪問を関連付けたりしなかった。でもジェイミーは嫌でも理解する。自分の存在が母を苦しめていることを。
それからしばらく、ジェイミーも体調を崩した。なんだか死にそうになっているジェイミーを見て、編入してきたばかりのニックと、八つの頃から親しくしているウィルが寮に神官を連れて来た。
友達に、君のことを元気にしてくれと頼まれたよ、と神官は言った。
自分じゃなくて母を元気にして下さい、とジェイミーは返した。
すると神官は、誰かに対して感じていることは、大抵相手も同じように感じているものなんだ、と語った。
どういう意味ですか、とジェイミーは首を傾げる。すると神官は優しい顔で、しかし毅然とした口調で言った。
もうお母さんに会いに行くのはやめなさい。そうして、ひとつずつゆっくりと荷物を下ろしていくといい。いつか肩が軽くなったと気付いたら、きっとお母さんも元気になっているよ。
その日から、ジェイミーは全くと言っていいほど屋敷に顔を出さなくなった。幸い伯爵はジェイミーに帰って来いなどとは命じなかった。不満を持っているのは、ジェイミーが見舞いに来ないせいでサラがいつまでも弱っているのだと思っている、ヘザーくらいだ。
ひと通り話し終えたあと、ジェイミーは小さく肩をすくめた。
「最近、俺のせいでウィレット家の評判がまた悪くなったから、叔母はかなりイラついてるんだ。だから俺が困ると分かってて一人で兵舎に押し掛けて来たんだと思う」
シェリルはこのとき、女の勘が働いた。先程のヘザーの振る舞いからして、彼女はジェイミーのことをずいぶんと可愛く思っているのではないだろうか。でなければ、一晩中部屋に居座るなんてことはしないだろう。
「四時間も外で何してたの?」
「あちこち買い物に付き合わされた。吹雪いてるってのに、多分俺より体力あるよあの人」
シェリルは密かに苦笑する。やっぱり彼女は甥っ子を構いたいだけなのかもしれない。そしてその気持ちは本人には全然伝わっていないようである。
「ところで……」
ジェイミーはシェリルに巻き付けられた布を剥ぎ取り、真面目な表情になった。
「何の相談に来たのかそろそろ教えて欲しいんだけど」
真っ直ぐ目を見て告げられて、シェリルは無意識に姿勢を正す。
「まだジェイミーの問題が解決してない」
「何とかして欲しくて話したんじゃないよ。でも、シェリルは違うだろ?」
聞き分けのない子供を諭すようにジェイミーは言った。爽やかな笑みの中に有無を言わせぬ空気を感じる。
自分から押し掛けておいて、ジェイミーの事情を聞き出すだけ聞き出しこちらは何も話さないというのも卑怯な話である。シェリルは観念して、ここ数日心にわだかまっている悩みを白状することにした。
「明日、自警団との話し合いがあるでしょ?」
「ああ」
「もし明日の話し合いで弁償額が決定して、全ての手続きが終われば、私は用済みってことで国軍に捕まるかもしれない」
シェリルの言葉に、ジェイミーは目を見張る。
「やけに弱気だな。大人しく捕まるつもりなのか?」
「逃げるつもりはないの。最近寒すぎるし雪もどんどん深くなってるでしょう? だから軍に追われながら国境を越えるのは危険だと思って」
季節は本格的に冬へと移行した。アンタレス国の冬は寒さをしのぐことが何よりも大事である。うっかり外で夜を明かすことになれば、朝を迎える前に神に迎えられるはめになる。
「明日捕まるかもしれないから悩んでるの?」
「違うわ。捕まるのは別にいいの。ローリーの弱点はアケルナー国に手紙で送ったし」
シェリルの発言にジェイミーはぎょっとする。
「そうなの?」
「そうなの。どこからどうやって送ったかはさすがに教えないわよ。いくらジェイミーでもね」
予防線を張るようにシェリルは告げた。そうか、とジェイミーは呆けた顔で返す。
「じゃあ、何に困ってるんだ?」
「アニーさんって覚えてる?」
「ああ、ニックの幼馴染みの……」
そう、とシェリルは頷く。
「アニーさんは使用人の仕事を、私に手取り足取り教えてくれた人なの。すごくお世話になったから、捕まって会えなくなる前に何かお礼をしたいと思ってて」
「なるほど」
「アニーさんは懐中時計を集めるのが趣味だから、懐中時計を贈ろうと思うの」
「それはまた、紳士の鑑のような趣味を持ってるな」
使用人の給与で懐中時計を集めるというのはなかなかに厳しいものがある。だからアニーは、壊れたり割れたりした懐中時計を上司や同僚から安価で譲ってもらいコレクションしている。
「最近フォーマルハウト国の行商人が、王都を出たところの市場に店を出してるらしいんだけど、そこで扱ってる懐中時計は何と金貨二枚で買えるらしいのよ」
「へぇ。それはすごい」
大抵、新品の懐中時計は安くても金貨三枚は必要だ。それが二枚で買えるのなら、シェリルの手持ちの金でギリギリ購入可能である。
「だから市場に行きたいの。でも、困ったことに馬車が一台も走ってないのよね」
ジェイミーはシェリルの話の本筋を理解したようで、納得したという顔で頷いた。
「王都では先週から馬車を使っちゃいけないことになってるんだ。地面が凍ってて事故が増えるからね」
「やっぱり……そうなの……」
シェリルはガックリとうなだれる。ジェイミーは落ち込むシェリルの肩を元気付けるように優しく叩いた。
「そう気を落とすな。馬は禁止されてないから、軍の馬を使えばいい」
「私に馬を貸して大丈夫なの?」
「さっき逃げるつもりはないって言ってたろ。それに、俺も一緒に行くから。すぐに日が暮れるし一人じゃ危ない」
ジェイミーの言葉にシェリルはなかなか頷かない。微妙な空気が部屋に流れる。ジェイミーはあれ、と首を傾げた。
「まだ何かあるのか?」
「馬に乗るっていうのが、ちょっと……」
気まずい表情で呟くシェリル。しばしの沈黙のあと、ジェイミーが言った。
「もしかして、馬に乗れないとか?」
シェリルはうっと身を縮める。
「乗れないんじゃない。乗らないの」
ありきたりな言い訳をこぼすシェリルに、ジェイミーは心底意外だという顔を向ける。
「多分、馬に乗るのは建物の壁を登ったり脱獄するよりも簡単だと思うけど」
「ええ、知ってる」
苦いものを飲み込んだような気分でシェリルは答える。その様子にジェイミーは何かを思案したあと、それならば、とうつむくシェリルの顔を覗き込んだ。
「一緒に乗ってく? 上手く走る自信はあるよ」
それはそうでしょうとも、とシェリルは心のなかで呟く。乗馬に長けていなければ騎士にはなれない。
シェリルは悩みに悩んだのち、顔を上げ、人のいい笑みを湛えるジェイミーと視線を合わせた。
「じゃあ、一緒に乗せていって下さい」
「喜んで」
にこにこと微笑むジェイミーを前にして、やっぱりこうなってしまったとさっそく、後悔の念に囚われるシェリルであった。