53.痴話喧嘩
医務室に到着した瞬間、子供の一人が声をあげた。
「あ、スコールズさんだ!」
その声をきっかけに、子供たちは一斉に駆け出した。医務室にはすでに副隊長の姿があって、マーソンと真剣な顔で話をしていた。駆け寄ってくる子供たちを見て副隊長は目を見開く。驚いている副隊長に構わず、子供たちは次々と彼に抱きついた。
「スコールズさん! ぼく自分の名前書けるようになった!」
「わたしが教えてあげたの!」
「ぼく野菜食べられるようになったよ!」
「ほくはね……あのね……」
何やら競うように報告をはじめる子供たち。副隊長はというと、膝をつき、子供たちの怪我やアザを間近で見てショックを受けていた。
「可哀想に。怖かっただろう。一体なにが……」
あったんだ、と続けたかったのだろうが、副隊長はジェイミーの顔に目を向け動きを止めた。
「どうしたその顔」
「これはあの、話せば長くなるので……」
深く追求されないよう、副隊長の問いをジェイミーは適当にはぐらかす。
「では、僕はこれで失礼します」
アンディがマーソンに声をかける。マーソンが頷くのを確認して、アンディは医務室を出ようとした。
「あ、ちょっと待って」
シェリルの声に、アンディは笑顔で振り返る。
「何でしょう?」
「この本、借りてもいい?」
シェリルは食堂でアンディに手渡された本を掲げて見せる。アンディはシェリルに本を預けていたことをすっかり忘れていたようで、何度か瞬きしたあと、首を縦に振った。
「ええ、構いませんよ」
「本当? ありがとう。読み終わったら神殿に返しに行くわね」
「助かります」
アンディは柔和な笑みを浮かべたあと、医務室を出ていった。
副隊長を医務室に呼んだのはマーソンだった。赤ん坊の服に孤児院の住所が刺繍してあったため、確認のため呼び出したのだという。
「それで? どうしてこんなことになったのか一から説明してもらおうか」
副隊長の言葉にジェイミーは困り果てたような顔で頭をかいた。当然である。子供たちに関することは何一つ覚えていないのだ。
結局、シェリルが事のいきさつを洗いざらい説明した。副隊長はひとまずそれで納得したが、ジェイミーに詳しいことを報告書にして提出するよう命じた。その後、二人は執務室での待機を命じられ医務室をあとにした。
◇◇◇
アンディに借りた本を食い入るように読んでいたシェリルは、窓から差し込む日が陰った頃、ふと顔をあげた。時計を見ると、執務室に来てから五時間近く時間が経過していた。驚いて正面を見ると、先ほどまで報告書を書いていたはずのジェイミーがこつぜんと姿を消している。先ほどまでといっても五時間も経っているので、とうに報告書は書き上げているだろう。シェリルは本に夢中になるあまり、ジェイミーが執務室を出たことに全く気づかなかった。
しばらく大人しくしていると、扉が開きジェイミーが戻ってきた。
「あ、やっと読み終わったか」
苦笑混じりに言ったあと、ジェイミーはシェリルの向かいに座った。シェリルは決まり悪く笑う。
「部屋を出てったこと、気づかなかった」
「だろうな。かじりつくみたいに読んでたけどその本そんなに面白かった?」
「ううん。全然面白くなかった」
「そうなんだ……」
なんとも言えない反応を返すジェイミー。シェリルがこの五時間もの間、脇目もふらず一心不乱にアンディに借りた本を何度も繰り返し読んでいたからだろう。これで面白くなかったという感想は道理に合わない。シェリルはもの言いたげなジェイミーから視線をそらし、彼の手元にある紙袋を指差した。
「それなに?」
「夕食。さっき報告書を提出してきたんだけど、まだ上層部の話し合いが長引いてるんだ。もうしばらくここで待機しなきゃならない」
そう言ってジェイミーは紙袋を差し出す。シェリルはそれを受け取りながら、不機嫌に顔をしかめた。
「なんだか、嫌な感じね」
「何が?」
「上層部よ。駆け落ち騒動のときはいい加減な対応でうやむやにしたくせに、被害に遭った子供たちが副隊長の懇意にしていた孤児院の出身と分かった瞬間、本格的に話し合うなんて。都合がよすぎるわ」
「まぁ、副隊長は軍の期待の星だからなぁ。上層部が気をつかうのは仕方ないことだよ」
何と言われようと、シェリルの腹の虫は治まらない。
何の後ろだてもない田舎娘を救ったときと、騎士隊の副隊長が可愛がっていた子供たちを保護した今回とで、国軍の対応がまるで違う。メリンダたちを本部に連れてきたとき、国軍は自警団との関係悪化を気にするばかりだった。しかし今回はジェイミーが叱られることもなく、今後の自警団への対応について何時間も真剣に話し合っている。このあからさまな対応の違いに、シェリルは嫌悪感すら抱いていた。
「国軍という組織は特権階級のためだけに存在してるってことがよく分かったわ」
怒りに任せてそう吐き捨てたあと、シェリルはハッと我に返った。今目の前にいるジェイミーは、特権階級であり国軍の一員なのだ。しまったと思い口元を押さえる。ジェイミーは困ったような顔で苦笑いしていた。
「ごめんなさい」
すかさず謝ると、ジェイミーはますます困ったように眉尻を下げた。
「気にするな」
「でも……」
「食べないのか?」
話題を変えるようにシェリルの手元を指すジェイミー。紙袋の中には、クラッカーに近い食感のパンと、干し肉と、りんごが入っていた。シェリルは気まずい思いで干し肉をかじりながら、先程の無神経な発言を挽回すべく必死に頭を働かせた。しかしこういうときに限って楽しい話題は浮かんでこないものである。微妙な空気が流れる執務室でひたすら干し肉をかじっていると、ジェイミーが重たい沈黙を破った。
「あのさぁ、シェリル。昨日のことでひとつ聞きたいことがあるんだけど……」
歯切れ悪く切り出したジェイミーに、シェリルは干し肉をくわえたまま視線を向ける。
「何?」
「昨日、酒場に入ってからの記憶が全く無いんだけど……」
「あのお酒のせいね」
「そうだと思う。それであの、昨日の夜、俺シェリルに何かしなかった?」
思いきったように尋ねるジェイミー。シェリルは干し肉をかじる動きを止める。
「何かって、どういうこと?」
「だから、そのー、昨日の夜俺に何かされなかった?」
このときシェリルの頭に浮かんだのは、額にキスされた場面だ。あれによってジェイミーのことを好きだと自覚したわけだが、あれは果たして何かしたうちに入るのかシェリルには判断しかねた。挨拶のようなものだということで納得したはずで、わざわざ掘り返すのも野暮なのでは。シェリルは首を横に振った。
「別に、何もされなかった」
「そっか。よかった」
ジェイミーは思わずといったように呟いた。シェリルははてと首をひねる。
「何がそんなに心配だったの?」
ジェイミーはためらう素振りを見せたあと、重々しく口を開いた。
「いや、酒で記憶が飛んで目が覚めたらシェリルの部屋にいたから、もしかしたらもしかしてしまったのかと……」
なぜか申し訳なさそうな顔で答えるジェイミーの言葉に、シェリルは衝撃を受けた。ジェイミーが想定していたのは額にキスなんて可愛らしいものではなかったのだ。シェリルは再び、首を横に振った。
「ありえないわ。ジェイミーはずっと赤ん坊をあやしてたもの」
「でもさ、何か俺、服を脱いだ形跡があるんだけど……」
「赤ん坊に白湯を飲ませようとしたら全部吐き出したから。ジェイミーの上着に」
「ああ、そういうこと」
ジェイミーは心底安心したというように、肩の力を抜いた。ジェイミーに思いを寄せているシェリルとしては、二人の間に何もなかったことを喜ぶジェイミーを見るのは何とも複雑な気持ちである。この際何かしら起こったことにしてしまおうかと思ったが、すんでのところで思いとどまった。
「よくあることなの?」
「何が?」
「お酒の勢いで女の人とどうにかなるのはよくあることなの?」
シェリルの問いにジェイミーは一瞬固まる。そしてひきつった笑顔を浮かべ、シェリルの疑問を否定した。
「まさか、ないよ。そんなこと」
「ふぅーん」
ジェイミーが誰と何をしようがシェリルには関係のないことで、その事実がシェリルをますます落ち込ませた。また酒に酔ったら、ジェイミーはキスしてくれるだろうか。そんなことを考えつつ、シェリルはやけに硬い干し肉を何とか喉の奥に押し込んだ。