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50.歯は大切にしましょう

 シェリルは身をもって先輩の言っていた話を理解した。分かっているような気になっていたが全然分かっていなかった。


 なるほどこれは全くつまらなくない。退屈とは程遠い状態である。今シェリルの思考を占めているのは、ジェイミーが額にキスをしてきたということだけだった。ノリか、冗談か、あるいはほんの少しでも本気だったのか。そんなことがずっと頭の中をぐるぐる回っている。どういうつもりだったのか本人に聞きたいが、恥ずかしくて確認できない。


 シェリルはキスというものに慣れてない。これは国民性だろうが、アケルナー国では親しい友人であってもせいぜい握手を交わすくらいである。アンタレス国もシェリルの知る限りでは挨拶でキスをするなんて習慣はない。だからジェイミーの行動にはきっと特別な意味があるはずだ、とまで考え、いや、貴族はまた事情が違うかもしれないと思い直した。

 リリーは挨拶で手の甲にキスして貰っていたし、額にキスをするのもこれといって特別なことではない可能性がある。

 最終的に、シェリルはさっきの出来事を挨拶のようなものだったのだと結論付けた。そうと決まればこんなに慌てる必要もない。改めて隣を見ると、ジェイミーが不思議そうな顔でこちらを見ていた。


「どうした、青くなったり赤くなったり。そんなにそのスープ気に入らないの?」

「ううん。思ったより美味しい」


 シェリルはなんとか笑顔を浮かべつつ、それ以上ジェイミーの目を見ていられなくなって再び顔を逸らした。一体全体自分はどうしてしまったのか。


 そこで、はたと気付く。


 ジェイミーの言うことだけはなぜか聞いてしまうこと。四六時中一緒にいても、嫌じゃないこと。美女に囲まれたジェイミーを見て腹が立ったこと。額にキスをされて、動揺していること。


 全てに合点がいった。自分はジェイミーが好きなのだ。それはつまり人としてということではなく、異性として意識しているのだ。その考えを、シェリルはすんなりと受け入れることが出来た。


「本当に大丈夫か?」


 ぼーっと考え込むシェリルの顔をジェイミーが気遣わしげに覗き込む。シェリルは呆然とした表情のまま、ジェイミーと向き合った。何でもいいから言葉を紡ごうとしたそのとき。


 赤ん坊の泣き声がシェリルの耳に届いた。そして、ここに来た目的を思い出す。


 浮かれている場合ではない。シェリルは即座に頭を切り替えた。ジェイミーと向き合っていた顔を、カウンターの向こうにいる男性の店員に向けた。


「ねぇ」


 声をかけると店員は愛想のいい笑顔でシェリルの近くにやって来た。


「ご注文は?」

「注文じゃない。さっきから赤ん坊の泣き声が聞こえるんだけど、大丈夫?」


 シェリルが尋ねた瞬間店員の顔がほんのわずかにひきつった。


「気のせいでは?」

「そう?」


 シェリルが納得したふりをしてみせると、店員は逃げるように別の客のところへ行ってしまった。シェリルはその姿を見送りながら顎に指をかけ考え込む。


「泣き声なんて聞こえないけど……」


 ジェイミーが怪訝な顔で言った。どうやらジェイミーには聞こえていないようだ。しかし先程の店員の態度からして、何か後ろめたいことがあるのは明らかである。シェリルはジェイミーの飲んでいた酒をじっと見つめ、それからグラスを指差した。


「それ、まだ飲む?」


「何で……?」


 警戒するようなジェイミーの目を、シェリルは笑顔で見返した。






 ガラスの割れる音が酒場に響く。


「あー、やっちゃった」


 大げさに嘆いた声を出してから、シェリルは急いで椅子から立ち上がり地面に散らばった破片を片付けようとした。すると先程の店員が面倒くさそうな表情で飛んできてシェリルの動きを制止する。


「いいから、触らないで。こっちでやりますから」


 そう言って店員はシェリルとジェイミーの足元にしゃがみこむ。シェリルはこれ見よがしに沈んだ声をあげた。


「あーあ、心配だわ。明日から酒場で仕事なのにグラスを割っちゃうなんて最悪」


 シェリルの言葉に店員は困ったような顔を向ける。


「グラスの扱いは慣れるのに時間がかかるからね」

「そうなの? オスカーは酒場の仕事なんて楽勝だって言ってたのに、あいつ口ばっかりね」


 店員は破片を集める手を止めた。


「オスカーを知ってるのか?」

「ええ。楽に稼げるもうけ話があるって言われて知り合ったんだけど、突然姿を消しちゃったの。今どこにいるか知ってる?」

「いや……。知らない」

「もし見つけたら教えてくれない? 私、まんまとあいつの口車に乗せられて割りのいい仕事を辞めちゃったのよ。今では後悔してる。おかげで酒場でちまちま働くはめになっちゃったわ」


 割れたグラスの破片を綺麗に片付けた店員は静かに立ち上がり、そのまま真剣な表情でシェリルの隣の席に腰かけた。


「その、もうけ話の内容は詳しく聞いたのか」

「ある程度はね。私の特技が役に立つかもしれないって言われたわ」

「特技?」

「私の前の仕事は、金持ちの家で子供の健康管理をすることだったの。うまいのよ私。泣いてる子をあやすとか、悪い病気を見抜くとかね。子供ってほら、放っといたらすぐ病気になっちゃうじゃない?」


 店員は疑り深くシェリルを見ていた。シェリルはその視線に気付いていないふりをして、店員の出かたを待つ。


「昼も夜も泣いてる赤ん坊は、病気だったりするのか?」


 店員の言葉にシェリルは大きく頷いて見せる。


「それは危険よ。下手したら大人にも伝染する病気だわ。一分一秒を争うわね」

「本当に?」


 胡散臭そうな表情になる店員。シェリルはすかさずジェイミーの方に視線を移す。


「医者のあなたなら、もちろん知ってるでしょう? ほら、あの恐ろしい伝染病よ」


 突然話を振られたジェイミーは顔をひきつらせ、ためらいがちに頷いた。


「あ、ああ。そうそう。あれは本当に恐ろしいよ。病原菌が細胞という細胞に入り込んで体の内側から交感神経を狂わせるからね」


 ジェイミーの適当な話に店員は顔色を変えた。そして、シェリルを押し退け焦ったように身を乗り出す。


「それで? 具体的にどうなるんだ?」


 ジェイミーは悩みに悩んだ末に、答えた。


「………………歯が全部抜ける」


 店員は真っ青な顔で固まった。


◇◇◇


「誰だお前ら」


 酒場の厨房で包丁を持った男がシェリルとジェイミーを呼び止めた。二人を案内していた酒場の店員は、声を潜め男に耳打ちする。


「オスカーの知り合いだ。ガキの世話が得意って言うんで連れてきた。こいつらが言うには、赤ん坊が泣き止まないのは深刻な病気のせいなんだってよ」

「へぇ。もう誰でもいいからあのガキ黙らせてくれ。一日中泣きわめかれて頭がおかしくなりそうだ」


 男は吐き捨てるように言ってから、野菜を切る作業に戻った。慌ただしく人が入り乱れている厨房を進んでいくにつれ、赤ん坊の泣き声が段々はっきりしてくる。


「こっちだ」


 店員に案内された先は、薪が沢山積んである厨房のすみだった。煤で汚れた十才くらいの少年が、大声で泣く赤ん坊を抱いている。他にも、赤ん坊を抱いている少年より幼いと思われる少年少女が集まって、身を寄せ合っていた。ジェイミーはボロボロな姿の子供たちを見て眉をひそめ、店員に顔を向ける。


「この子たちは?」

「オスカーが連れてきた。仕事に使うんだそうだが、事情を知ってるやつらのほとんどが突然居なくなったんで、持て余してんだよ」


 店員があっさりと答えた。シェリルとジェイミーは目を見合わせ、再び店員に視線を戻す。


「オスカーはこの子たちをどこから連れてきたの?」

「よく知らないけど、孤児院がどうとか言ってたな」

「確か、アケルナー国の奴隷商人にこの子たちを売る予定なのよね? 私はオスカーからそう聞いてるんだけど」

「そうなのか? 俺はそこまで詳しく聞いてないな。っていうか、人身売買って違法じゃないのか」


 シェリルは内心がっかりした。どうやらこの店員は大した情報を持っていないようだ。これでは鎌を掛けてみてもあまり意味はない。それでも念のため、探れるだけ探ってみることにする。


「私が思うに、オスカーが姿を消したのは人身売買のことを国軍に感づかれたからだと思うの。だから彼は今、身を隠してるんじゃないかしら」

「あー、そういえば、最近国軍が国境の警備を強化してるよな。そのせいで上の奴らがイラついてるみたいだけど。でもまぁ、下っ端の俺にとってはどうでもいい話だ。なんでもいいから早くこいつを黙らせてくれよ」


 シェリルは情報収集を諦め、少年の前に膝をついた。なるべく驚かせないよう声をかける。


「その子はいつから泣いてるの?」


 少年は鋭い眼差しをシェリルに向けたまま、口を開こうとしない。店員が小さく舌打ちする。


「そいつ口が利けねぇんだよ。おい! 質問に答えねぇか!」


 店員は荒っぽい声をあげ少年の髪の毛を乱暴に掴んだ。ジェイミーが慌てて止めに入る。


「やめろって。俺たちに任せろよ」


 ジェイミーの言葉に店員は渋々頷き、手を離した。


 シェリルとジェイミーは赤ん坊を診るフリをしながら、ひそひそと話し合う。


「ジェイミー。この子たちを本部に連れていったらまた隊長に怒られるかしら」

「そうかもしれないけど、放っておけないだろ」


 そう言って、ジェイミーは子供たちに目を向ける。彼らの顔や腕には痛々しいアザが無数にあった。恐らく日頃から殴られているのだろう。


「じゃあ連れ出してもいい?」

「しょうがない」


 ジェイミーが頷くのを見て、シェリルは立ち上がる。そして残念だという表情で店員と向き合った。


「参ったわね。病気にかかってるわ。強力な感染力のある病気よ」


 シェリルの言葉に店員は硬直する。


「まじかよ……」

「でも安心して。感染は防げる」


 そう言ってシェリルは小さな黒い玉を取り出した。細長い紐が巻き付いたそれは、かつて隊長とジェイミーをからかうのに使った煙幕である。


「いつも持ち歩いてるのか……」


 ジェイミーが複雑そうな表情で呟いた。シェリルは聞こえなかったふりをして、店員に笑顔を向ける。


「この玉を使えば万事解決よ。だから、大騒ぎしないでね」


 シェリルはそう言って、部屋を照らす蝋燭(ろうそく)めがけて玉を投げた。

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