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47.記憶にない顔見知り

 静まりかえる会場。シェリルは瞬きも忘れ、目の前の光景を見つめていた。

 ジェイミーはウルフをうつぶせに組みふせ、彼の片腕を背中側に捻り上げている。


「出来た……」


 ジェイミーが呆然と呟いた。


 少しずつ会場に音が戻ってくる。選手に向けた声援ではなく、近くにいる人間と囁き合っているような、ざわめきだ。


 シェリルはゆっくりと時間をかけて、ジェイミーが何をしたのかを理解した。ジェイミーは正面から向かってきたウルフを迎え撃つふりをして、拳がぶつかる寸前に、ぎりぎりのところで攻撃を避けたのだ。そうしてウルフの背後に回ったあと、背中に体当たりして地面に倒した。勢いをつけていたウルフは自分の体重のせいで踏みとどまることが出来ず、呆気なく膝をついてしまった。


 ひと足早く状況を理解したシェリルは、金網に手をかけ慌てて叫んだ。


「ジェイミー! 手! 手!」


 ウルフの片腕はジェイミーが捻り上げているので、まだ試合は終わってない。きょとんとした顔でシェリルの方を見たジェイミーは、ハッとしてウルフの腕を地面につけた。審判が呆けたような声で尋ねる。


「あんた、名前は……?」


 ジェイミーは「ジェイミー」とまで言って、はたと口を閉じた。本名を名乗っていいものか迷っているようだ。


「ディケンソンよ! ジェイミー・ディケンソン!」


 シェリルがすかさず偽名を叫ぶと、審判はとまどいながらも、客席に顔を向けた。


「し、勝者。ジェイミー・ディケンソン」


 なんとも覇気のない声を上げ、審判は試合終了を告げた。客席からはまばらに拍手が聞こえてくる。納得できないという空気がひしひしと伝わってくる空間で、シェリルはたった一人、感動にうち震えていた。


 ジェイミーが勝った。地味な倒し方で全く盛り上がらなくても、人気選手を打ち負かして変な空気になっていても関係ない。勝ったものは勝った。シェリルは金網を飛び越え、微妙な空気に居心地悪そうにしているジェイミーに飛び付いた。


「ジェイミー! すごい! 勝ったわ!」


 一体どう言えばこの感動が伝わるのか分からず、とりあえず天才とか世界一とか考えられる限りの称賛を口にしていると、ジェイミーが慌ててシェリルの口を押さえた。


「わかった。わかったから」


 困ったように言ったジェイミーを見て、シェリルは思った。絶対分かってない。もっと褒めなければ。


 ジェイミーはしきりにウルフのことを気にしていた。ウルフはゆらりと立ち上がり、シェリルたちのことを睨みつけてきた。


 ウルフのかもし出す不穏な空気に気づいて、シェリルはようやく我に返る。


「あ、ごめんなさい……」


 試合に負けた対戦相手の前でこんなに喜ぶのは非常識だったかもしれない。ひとまず謝ったが、ウルフは何も答えず怖い顔で近づいてきた。ジェイミーは慌ててシェリルの腕を引き、シェリルとウルフとの間に立った。


「わ、悪かった。暴力は……」

「暴力? 人聞きの悪い」


 ウルフはそう言って、笑みをこぼした。彼は握手を求めようとしただけのようだった。ジェイミーが握手に応えると、ウルフは満足げに頷き、今日の試合は終わりだと観客に向かって告げた。負けてもなお観客に笑顔を向けるウルフに、先程から流れていた微妙な空気は段々と和らいでいった。


◇◇◇


 シェリルのもくろみは現実となった。ウルフに連れられ、現在二人は賞金の受け渡しのため闘技場の事務室へと続く廊下を進んでいる。人身売買について探る絶好の機会であるわけだが、ジェイミーには分かっていた。シェリルはすでに、当初の目的を忘れている。


「本当に凄かった。あなたは天才よ。天才的よジェイミー。ねぇ聞いてる?」

「あの、言いたいことは十分わかったからもうそのくらいに……」

「いいえ、分かってない。私こんなに感動したの初めてよ。何て言えばいいの、こういうの。つまり、そう、あなたは天才よ!」


 少し前を歩いているウルフが吹き出したのを見て、ジェイミーは本当に居たたまれなくなった。


「すみません……」

「何で謝るんだ。羨ましいよ、そんなに慕ってくれる妹がいて」


 ジェイミーが思わず謝ると、ウルフは並んで歩く二人を振り返り微笑んだ。どうやら彼はシェリルのことをジェイミーの妹だと勘違いしているようだ。現実の妹はかなり辛辣であることを知ったら、羨ましいという言葉はすぐに撤回したくなることだろう。


「妹……」


 意気揚々と騒いでいたシェリルが、何やらショックを受けたように静かになった。それと同時に褒め殺しが終わったので、ジェイミーは密かに安堵する。


 三人は事務室の前に到着した。ウルフは扉に手をかけつつ、シェリルにチラと目を向ける。


「君はここで待ってた方がいいと思うぞ」


 ウルフの言葉に、シェリルは怪訝な顔をする。


「どうして?」

「この部屋は更衣室と併用してるからな。まぁ、見たいって言うなら皆大歓迎だと思うけど」


 からかうような口ぶりに、シェリルは一瞬意味がわからないという様子で目を丸くした。一拍おいて、みるみる顔を赤らめる。


「あの、でも……」


 真っ赤な顔でうつむくシェリルを見て、ジェイミーは苦笑混じりに言った。


「ここで待ってていいよ。そんなに時間はかからないだろうし」


 ジェイミーの言葉に、シェリルはしばらく迷う素振りを見せたあと、頷いた。結局シェリルは扉の前で待つこととなり、ジェイミーだけが事務室に入ることになった。






 部屋の中は事務室というよりも控え室という方が正しい場所だった。乱雑にものが置かれ、傷の手当てをしている選手たちがところ狭しと部屋を占領している。皆一様に血だらけで痛々しい有り様であるが、荒んだ見た目に反し部屋には穏やかな空気が流れていた。少なくともジェイミーが部屋に入るまではそうだった。


「おいウルフ、まじでそのひょろっこい奴に負けたのか」


 部屋に入った瞬間、談笑していた男たちが一斉にジェイミーの方に目を向けた。そして一人が荒々しい口調でウルフに声をかけた。ちなみにジェイミーはこれまでの人生でひょろっこいと言われた経験があまり無い。しかしこの部屋では紛れもなくひょろっこいことを認めざるを得ない。この場にいる男たちは、その服どこで買えますかと尋ねたくなる程の見事な筋肉を身にまとっている。


「俺だって負けることくらいあるさ。まぁそうピリピリするな」


 ウルフは周囲の険悪な空気を全く意に介さず、ジェイミーを連れて部屋の中を進もうとした。しかし一人の男に行く手を阻まれる。


「ちょっと待った。金庫室なら今は使えないぞ。先客がいるからな」

「先客?」

「ああ。例の金持ちが上のやつらと話してるんだ」


 ウルフはため息を一つ吐いてからジェイミーに目を向けた。


「悪いね。ちょっと時間がかかるかもしれない」

「そうですか」


 近くにあった椅子に座るよう促され、大人しく従う。椅子に座った瞬間、血だらけの男たちに囲まれた。ジェイミーはこのとき、ほいほいと言うことを聞いてしまったことを後悔した。ガラの悪い男たちに囲まれ、先程の試合以上に生きた心地がしない。せめてウィルに礼をいうまでは生きていたかったとジェイミーが考えていたとき、向かいに腰かけたウルフが改まった調子で声をかけてきた。


「ジェイミーって言ったか。あんた本当に兵士じゃないのか? 自慢じゃないが、俺は自警団で結構腕が立つ方なんだ。攻撃が一度しか当たらなかった試合ははじめてだよ」

「必死だったんで……。運よく避けられただけですよ」


 どうやらウルフは自警団に所属しているようである。闘技場を経営しているのは自警団なので、出場選手は自警団に所属している精鋭たちなのかもしれない。


「まぁ、とりあえずその顔は冷やしとけよ。世の女どもに恨まれちまう」

「いえ、大して痛くないので……」


 ウルフの言葉に、ジェイミーは慌てて首を横に振った。冷すというのなら、周りを囲んでいる男たちの方が急を要しているように見える。ジェイミーの言葉を聞いて、男たちは得意げな表情になった。


「凄いだろ。ウルフの攻撃は痛手が軽いわりに見た目が派手だからな。試合が盛り上がるのはこいつのおかげなのさ」

「だから俺たちは殴られ役に徹するってわけだ。こいつがいなきゃ、入場券の売り上げは半分に減っちまう」

「まぁ、あんたは一応お客さんだからな。念のため冷やしとけよ」


 そう言って氷に浸していたタオルを差し出された。言われるがまま頬を冷しつつ、ジェイミーはウルフに対し尊敬の念を抱いていた。周囲にとても慕われているようだ。少し羨ましい。


 そのとき、部屋の外が突然騒がしくなった。結構な人数が騒いでいるような、足音や話し声が聞こえる。


 ウルフがちっと舌打ちする。


「目ざとい奴らだな」

「おいあんた、部屋を出るときは気をつけろよ」


 選手の一人に忠告されて、ジェイミーは眉をひそめた。


「どういうことですか?」

「酒場で働いてる女たちが外で待ってるみたいだ。多分あんたの賞金目当てだよ」


 なるほどと頷き、扉に視線を戻す。シェリルは大丈夫だろうか。やはり部屋に入れた方がよかったかなと考えていたとき、先程ウルフが向かおうとしていた方向から二人組の男が現れた。一人はとても身なりのいい男。一人はその従者のようである。


「やっと部屋が開いたか」


 ウルフがそう言いながら立ち上がる。ジェイミーも続いて立ち上がったが、二人組の主人と思われる方が、すれ違いざまにジェイミーの顔を見て目を見開き立ち止まった。なんだろうと思い、ジェイミーもとっさに立ち止まる。男は驚いた顔のまま、口を開いた。


「失礼。あなたはハデス伯爵のご子息では?」


 男の言葉に、ジェイミーは硬直する。その場にいる選手たちの空気が変わった。ジェイミーは何とか動揺していることを悟られないよう、愛想笑いを浮かべる。


「人違いですよ」

「そうですか。それはとんだ失礼を……」


 男の表情から察するに、納得していないようだ。ジェイミーは目の前の男が誰なのか思い出そうとしたが、全く記憶にひっかからない。ウルフが再び歩き出したので、これ幸いと急いでその場を離れた。






 ジェイミーの背中を見送りつつ、男は従者に耳打ちする。従者は近くに座っている選手の一人に声をかけた。


「彼の名前をご存じですか?」

「名前? なんだっけ。ジェイミーって言ってたか」


 それを聞いて、従者は主人に目配せする。主人である男は思わずというように表情を歪めた。

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