3.出逢いは凍えるような寒さの中で
明くる日の朝。
シェリルは水の入ったバケツを持って、王宮の渡り廊下を震えながら歩いていた。ふと立ち止まり右を向けば、いつもは色鮮やかな草花で彩られている中庭が真っ白な霜に覆われている。
「寒いはずだわ」
吐き出す息が白くなっていることに驚く。覚悟していたとはいえ、現在の寒さに堪えているようではこの先が思いやられた。
アンタレス国、特に王都に近い地域は、一年の半分が春という快適な気候である。半年間は過ごしやすい陽気が続くが、残りの半年間は呪いかというほどの極寒に包まれる。現在この国は冬の入り口に立っている状態で、シェリルは日々下がっていく気温に戦々恐々としていた。
「シェリル」
名前を呼ばれて前方を見ると、掃除用具の乗った台車を押している先輩メイドのアニーがいた。
「アニーさん、おはようございます」
「おはよう。最悪な朝ね」
お互い疲れた顔を突き合わせ、溜め息をつく。
舞踏会の最中、王弟であるウィリアムが侵入者に襲われるという事件が発生した。舞踏会は即中止となり、国軍の騎士が貴族たちを屋敷まで送り届けることとなった。しかし騎士の数が足りず、下級貴族のほとんどは王宮に残り夜を明かすことになった。必然的に使用人の仕事は増え、皆一睡もできずに朝を迎えることとなったのだ。
「侵入者って、誰だったんでしょう」
こんなに仕事を増やしてくれたのだから、ひとこと文句を言ってやらなければ気がすまない。正体不明の侵入者に憤っていたシェリルは、アニーに腕を掴まれ廊下の端に引き込まれた。アニーは辺りに人が居ないことを確認すると、声を潜めて言った。
「どうやら、スプリング家の仕業だったみたいよ」
「え、スプリング家?」
シェリルが首を傾げると、アニーは呆れた顔つきになった。
「あなた、スプリング家を知らないの?」
ますます首を傾げたシェリルを前に、アニーはやれやれと頭をふる。
「アケルナー国は知ってる?」
「もうすぐ同盟が結べそうだっていう、あの国ですか?」
「そうよ。アケルナー国が大国として栄えたのはね、スプリング家の存在があったからだと言われてるの」
――スプリング家。
それは、アケルナー国が所有していると噂される秘密組織である。
決して漏れるはずのない情報を盗み出し、あったはずの事実を跡形もなく消し去り、百戦錬磨の戦士をも暗殺する。その存在を裏付けるものは何一つないが、アケルナー国が強大な軍事国家として君臨し続けている影には、スプリング家の存在があると言われている。
「何か、胡散臭い話ですね」
アニーの説明を聞いて、シェリルは苦笑を浮かべた。
「そう? 私は好きよ」
「そのスプリング家という組織が、殿下を襲いに来たってことですか?」
「そういうこと」
「でも、どうして? 同盟の話し合いの真っ只中じゃないですか」
アンタレス国とアケルナー国は現在、同盟を結ぼうと互いに話し合いを進めている状態だ。そんな中刺客を送ってくるなんていったいどうしたことだろう。
「よくわかんない。今ジェイミー様が尋問なさってるみたいよ」
「昨日の、リリー様のお兄さまですか」
「そう。そういえばジェイミー様で思い出したけど、騎士隊の方々が今日から王族警護のために王宮で寝泊まりするそうなの」
「それって、大丈夫なんでしょうか。従僕の数が足りないんじゃ……」
国軍の、さらに騎士隊ともなれば、上流階級出身の者がわんさといる。当然一人一人に使用人をつける必要があるわけで、そんなこと現状では不可能だ。
アニーは含み笑いをして言った。
「聞いて驚きなさいシェリル。なんと、私たちメイドにも騎士様のお世話をするチャンスが与えられるかもしれないの」
「ええ?」
シェリルは思わず目を見開いた。メイドが男性客の身のまわりの世話を担うなんて、ありえないことだ。
予想通りの反応を返したシェリルを見て、アニーは満足げに微笑む。
「びっくりでしょ? 人手不足に感謝したのなんて初めてだわ」
「アニーさん、どうしてそんなこと知ってるんですか」
シェリルは本気で疑問に思っていた。アニーの情報収集力は凄まじい。どういうわけか、使用人の恋愛事情や貴族の誰と誰が不倫しているかなど、彼女は常に最新の情報を握っている。使用人に隠し事は出来ないと言うけれど、軍内部の情報まで仕入れているとは恐れ入った。
「あ、いけない。あんまりグズグズしてたらヘレンさんに怒られる」
自分の本来の仕事を思い出したアニーは、焦ったように台車に手をかけた。
「それじゃあ、またあとでね」
「はい」
ぴゅうぴゅうと冷たい風が吹きすさぶ渡り廊下を、二人のメイドは反対方向に歩き出した。
◇◇◇
ジェイミーは白い息を吐きながら、寒い、と呟いた。ふと中庭を見れば霜が降っている。寒いはずだ。
「酷い顔だな」
隣を歩いているニックがジェイミーを見て、形ばかりの気の毒げな表情を浮かべる。
「当たり前だろ。一晩中尋問してたんだから」
大きくあくびをするジェイミー。ニックを挟んで、中庭に一番近い側にいるウィルがジェイミーに声をかける。
「侵入者からは何か聞き出せた?」
「名前を聞いたらトマス・スプリングと名乗った。国王に命じられてこの国に忍び込んだと言ってる」
「スプリング家って、本当かな」
ウィルの言葉に、ジェイミーとニックはうーんと唸る。
元々スプリング家とは、軍学校で面白半分に語られる流説のようなものである。実際に名乗るものが現れたところで信じろという方が無理な話だ。
「そんなことより、もっと大事な話がある」
ニックはそう切り出し、ジェイミーの方へ恨みがましい視線を投げた。
「聞いたぞジェイミー。お前王宮にいる間、世話係にメイドが付くらしいな」
これは面倒な話が始まってしまったと、ジェイミーは気が重くなった。
「お前だって従者が付くだろ」
「ウィルの従者がついでに俺の世話をするってだけだ。俺は寝ても覚めても側にいるのは男だってのに、他の奴らはメイドに世話されるなんて、こんな不公平な話があるか?」
ニックの恨み節を聞かされて、ジェイミーとウィルは心底うんざりした。適当にニックの話を聞き流していると、噂をすれば影という言葉通り、正面から大きなバケツを抱えたメイドが歩いてきた。メイドはジェイミーたちに気付くとすばやく廊下の端に寄って、膝を曲げこうべを垂れた。
「おはよう」
「おはようございます殿下」
ウィルがにこやかに声をかける。メイドは頭を上げず挨拶を返した。ニックはその様子を冷めた目で見ながら、言った。
「毎回ああやって頭下げられてんのか? 腐っても王子なんだなお前」
「え、腐って……?」
三人がメイドの横を通りすぎたとき、「わっ」と小さな声がした。ジェイミーはふいに立ち止まって、後ろを振り返る。
床に水がこぼれていたのかもしれない。それか、スカートの裾に足を引っ掻けたのだろう。メイドが足を滑らせていた。そしてメイドの手に抱えられていた、水のたっぷり入ったバケツがどういうわけか、ジェイミーに向かって飛んできた。
廊下が静寂に包まれる。ジェイミーよりも少し先に進んでいたウィルとニックは、無事だった。足を滑らせて床に倒れているメイドも、無事である。そしてその間に立っているジェイミーは、見事なまでに水浸しであった。
「大丈夫か?」
ウィルが恐る恐る尋ねる。ジェイミーはゆっくりと振り返り、真顔で頷いた。
「いや、ここ……」
ニックが自らの額を指す。ジェイミーはぺたりと、額に触れてみた。手のひらに血がついた。バケツの金具で傷がついたのだろうか。
「ああ、大したことな――」
「も、申し訳ございません!」
メイドがその場にひざまずいて叫ぶ。
「ああ、もう構わないから、君早くここから逃げた方が」
「シェリル! 何をやっているの!」
ジェイミーの助言は神経質な声に掻き消された。
廊下の向こうから物凄い形相で近付いてくる人物は、王宮の家政婦長だ。家政婦長はジェイミーの姿を見てある程度の状況を察したようで、顔色を失った。
「なんてこと……」
「あの、大したことはないので、どうかお気になさらず」
ジェイミーは怒っていないということを最大限アピールしようと試みた。しかし家政婦長の耳には全く届いていないようである。
「大変申し訳ございません! この者は今すぐクビに致します!」
家政婦長はひざまずいているメイドの隣に、同じように膝をついて言った。
面倒なことになった。クビだなんて大げさなことにはしたくない。ジェイミーは恐る恐る、家政婦長に声をかける。
「あの、誰にも言いませんので、何もなかったということにしませんか」
「しかしそれでは、伯爵様に申し訳が立ちません」
この寒空の下、水を被ったまま押し問答を続ける気力はない。眠いし寒いし腹も減ったし、もうクビってことでいいかな、とジェイミーが考えていたとき。
「ほ、本当に、申し訳ございませんでした」
バケツを飛ばしたメイドが、うつむいたまま呟いた。今にも泣き出しそうな声に、折れかけたジェイミーの心が揺らぐ。
どうするべきだろうかと、ジェイミーは後ろに立っているニックとウィルに視線で訴える。
ニックがひとつ咳払いした。
「少し時間を下さい」
ニックは家政婦長にそう断ってから、ジェイミーとウィルを引っ張って廊下の端に移動した。三人は緊急会議を開く。
「もうクビでいいだろ。お前の家で雇ってやればいいじゃん」
ニックの提案に、ジェイミーは微妙な顔をする。
「無理だ。そんな権限持ってない」
「何でだよ。次期当主だろ」
「爵位継ぐまでは使用人の雇用に口出せないんだ」
「なんだそれ。貴族って本当わけわかんないわ」
面倒臭そうな表情をしたニックは、ウィルの方を見てハッとする。
「ちょっと待て。お前雇い主じゃん。王子じゃん。お前があの人説得しろよ」
「無理だよ。昔からヘレンには頭が上がらなくて……」
ウィルの言葉にまたしても面倒臭そうな表情を浮かべたニックは、大げさにため息をついてみせた。
「頭上がんなくていいから、命令してこいよ、クビはやめろって」
「そんな、出来ないよ。命令なんて」
「出来るわ! 命令出来なきゃ王子の存在価値なんてほとんど無いだろうが!」
ニックに言いくるめられたウィルは、渋々頷いて家政婦長の側に歩み寄った。
「許してやろうよ。ジェイミーも気にしてないと言ってるし」
「お言葉ですが殿下、使用人のミスは雇い主の信用に関わります。王家の品位を守るためにも、処分は必要かと存じます」
「まぁ、そうかもしれないけど……」
ジェイミーとニックは必死で「頑張れ」と念を送るが、ウィルの目は「やっぱ無理」と言っていた。ニックは片手で頭を押さえ、戻ってくるようウィルに手招きする。
「威厳とか、そういうものは無いのか、お前……」
「僕に威厳なんてものがあると思ってたのか?」
言いながら、力なくうなだれるウィル。
「仕方がない。最後の手段だ」
ニックはそう言って家政婦長の方に歩み出た。何をするつもりだろうかとジェイミーとウィルは顔を見合わせる。
ニックは家政婦長の側まで進み、優雅に片膝をついて、彼女の両肩に手を置いた。
ニックにまっすぐ見つめられ、家政婦長は戸惑っている様子だ。若干頬が赤らんでいる。
ジェイミーとウィルは同じことを考えて顔をひきつらせた。
普段息をするように女性をたぶらかしているニックである。まさか、家政婦長を口説いて丸め込もうとか考えているのだろうか。
二人の予想は、微妙に違っていた。
「ヘレンさん。ジェイミーはですね、その子を口説こうとしていたんですよ」
「……は?」
ジェイミーはポカンと口を開けて、ニックの言ったことを頭で繰り返し考えた。しかし何度考えても、ニックの言ったことが理解できない。ジェイミーが困惑している間にも、ニックは一人で話を進めていく。
「普段は遠くから見ているだけだったんですがね、今日こそは声をかけようと、気合いを入れて近づいたら足を滑らせ自分からバケツに頭を突っ込んだ次第です。これでその子がクビになったら、ジェイミーの面目は丸潰れだ。遠くから見ているだけでいい……そんな些細な楽しみまでもあなたは奪い去ろうと言うのですか」
「ニック、ちょっと来い」
ジェイミーは熱弁を振るうニックの襟首をつかみ廊下の端に連れていく。ニックは鬱陶しげな顔でジェイミーを見た。
「何だよあとちょっとだったのに」
「何が? 何があとちょっとだ。あとちょっとで何が起こるんだ教えてくれ」
「だから、全部お前のせいだってことにすればあの子は無罪放免だろ?」
「それは……そうかもしれないが口説こうとしたってくだりはいらないだろ」
「わがままなやつだな。誰のために骨折ってやってると思ってるんだ。これだから貴族ってやつは」
「あの」
口論するジェイミーとニックのすぐ側に、いつの間にか家政婦長が立っていた。声をかけられた瞬間、二人は「うわぁ!」と叫んで飛び上がった。
家政婦長は何かの使命を帯びたような表情で、ジェイミーに視線を投げた。
「お話はよくわかりました。今回のことは私の心の中だけに留めておくことと致します」
「はい……」
ジェイミーは動揺しつつも何とか返事をした。どうやらニックの作戦はうまくいったようである。家政婦長は続ける。
「しかしウィレット様。失礼を承知で申しますが、ご自身の身分をしっかりとご理解いただきたいものです。彼女に要らぬ期待を持たせることのないようお願いしますね」
「はい……」
かくして、メイドのクビは見送られたのであった。