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38.修羅場

 とっぷり日が暮れた頃、書き上げた書類を持ってジェイミーたちは執務室を訪れた。そこにはジェイミーたちと同様、書類仕事に神経を削られた者たちがちらほら立っていた。


「スタンリーがついに女装したぞ」


 唐突に投げて寄越された最新情報に、ジェイミーたちの疲れは少々やわらぐ。


「ついにやったか」

「それで、メリンダさんは大丈夫だったのか?」


 信じられないという顔で呟いたウィルに続きジェイミーが結果を尋ねると、隊員たちは即座に頷いてみせた。


「それが、うまくいったみたいなんだよ」

「まじかよ。あいつの可能性は無限大だな」


 自他ともに認める騎士隊の美形担当、スタンリー。彼の奮闘にニックは素直な称賛を口にする。


 シェリルは彼らのやりとりを聞きながら、騎士になると女装もこなさなければならないのかと深い感銘を受けていた。そんなとき、コンコンと扉を叩く音が響いた。


「入れ」


 隊長の許可を得て現れたのは、複雑な表情を浮かべた副隊長である。


「どうした」

「ジェイミーに客です。今すぐ話をしたいと言っています」


 副隊長の言葉に、ジェイミーは怪訝な顔をした。


「客? 誰ですか」

「ハワード卿だ。今扉の向こうにいる」


 どことなく申し訳なさそうな顔で告げる副隊長。その瞬間、シェリルは部屋の空気がガラリと変わるのを感じた。隊長は舌打ちして苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。


「とうとう押し掛けて来たか……」

「追い返しますか?」

「いや、ここで追っ払ったらまた適当な噂を流すだろう。ジェイミー、もうこの場で白黒はっきりさせておけ」


 隊長の言葉に、ジェイミーは渋々という様子で頷いた。全く話についていけず、シェリルはしきりに周囲の様子をうかがう。シェリルだけでなくニックも状況が見えていないようだった。


「ハワード? 誰だそれ」


 ニックの問いに、ウィルは躊躇いがちに口を開いた。


「ローズの恋人だよ。つまりジェイミーの元婚約者の……」

「ああ、浮気相手?」


 ニックがげんなりと呟く。シェリルはぎょっとしてジェイミーに視線を移した。ジェイミーの表情は特に怒っているわけでもなく、その顔からは何の感情も読み取れない。


 副隊長に案内されて部屋に入ってきたハワードは、シェリルの目にはなかなかの美丈夫に映った。従者をつれてジェイミーのすぐそばまで来たハワードは人懐っこい笑みを浮かべ、ジェイミーに握手を求めた。


「突然押し掛けて申し訳ない。もし時機が悪いなら出直すつもりだけど」

「とんでもない。こちらこそなかなか都合をつけられず申し訳ありませんでした」


 ジェイミーは握手を返しながら、愛想よく答えた。ハワードは周りを見渡して大げさに肩をすくめる。


「私に会いたくない気持ちは分かる。しかしここに来たのは失敗だったかな。うっかり君を怒らせたら斬られてしまうかもしれないね」


 ジェイミーとハワードの周囲には、少ないながら騎士隊の面々が揃っている。しかしハワードは対して圧を感じていないように見えた。


「用件は何でしょう」


 早く話を終わらせたいのか、ハワードの軽口を無視してジェイミーは来訪の目的を尋ねた。とっとと話を進めようとするジェイミーに対し、ハワードはのらりくらりといった調子で言葉を返す。


「ああ、はっきり言うことにするよ。実は、君には一度謝罪しておく必要があると思ってね」


 それはつまり、婚約者を奪ってしまったことへの謝罪ということだろう。ジェイミーは困ったような笑みを浮かべる。


「謝罪など必要ありません」

「しかし、一部では噂になってるだろう。ほら、私が君の婚約者を奪ったとか。もちろんそんな事実は無いよ。君たちが婚姻関係にあったとき、私はローズに手を出してはいないからね」


 嘘つけ、と誰かが呟いた。ハワードにも聞こえたはずだが、彼は聞こえなかったふりをしている。


「分かっています。心配は無用です」

「それならいいんだが、一応言っておきたい。万が一、私がローズをたぶらかしたのだと君が思っているなら、それは大きな誤解だからね」

「婚約破棄は私が至らなかった結果です。ハワード卿にはどうか、ローズを幸せにしていただけたらと思います」


 ジェイミーはここまでずっと、穏やかな口調を貫いている。何とか穏便にこの場を切り抜けたいようだ。対するハワードは、一向に話を終わらせようとしない。


「君が至らないなんてことはないだろう。あれは我が儘な女だ。問題があったとすればローズの方にあったのだろう」

「そうかもしれませんね」

「はは。やはり君も彼女に嫌気がさしていたのか」


 ハワードの笑い声が耳につき、シェリルは顔をしかめた。少しずつハワードの本心が見えてくる。どうやら彼はジェイミーを怒らせようとしているらしい。目的は分からないが、何かが気に入らないのだろう。そうと分かれば人のいい笑顔も急に胡散臭く見えてくる。ジェイミーは依然、感情の読めない顔でハワードと向き合ったままだ。


「ハワード卿、お時間はよろしいので?」

「ああ、君がよければ、もう少しいいかな」

「他にも何か?」

「実は昨日、アレース公爵家の舞踏会に君が来ていなかったことに驚いてね。もしかして私のせいではないかと血の気が引いたよ」

「まさか。仕事の都合です」

「君は最近やけに仕事に没頭しているようだけど、何か特別な理由でもあるのかな」


「軍の仕事に興味がおありなら、私に聞くといい」


 隊長が刺々しい声をあげた。ハワードは苦笑いしながら隊長に視線を移す。


「キャンベル卿、そう怖い顔をしないで下さい」

「生まれつきなもので、やめろというのは無理な相談だな」

「面白いことをおっしゃる」


 乾いた笑いを返したあと、ハワードは再びジェイミーに向き合った。


「私の思い過ごしならいいのだが、ひょっとして、母君の体調が優れないのでは? だから忙しくしているのではないかな」


 シェリルはこの瞬間、ジェイミーがわずかに息を詰めたのを見逃さなかった。部屋の中にいる誰かが舌打ちする。事情を知らないシェリルにも分かった。今の話は、ジェイミーが絶対に触れられたくないことだったに違いない。

 ハワードは場の空気が分かっているのかいないのか、表情を変えず言葉を続けた。


「私に出来ることがあるなら言ってくれ。もし迷惑でなければ見舞いにも――」

「そろそろ帰ってくれませんかね。あんたに出来る唯一の善行ですよ」


 ニックが声を上げた。ハワードはちらとニックに顔を向けたあと、表情を歪ませ、ジェイミーに向き直った。


「君はいつも、そうやって誰かが助けてくれるのを待っているのか? 正直言って気味が悪いよ。怒っているなら怒っているとはっきり言ったらどうだ」


 挑発に乗らないジェイミーに対し、とうとうハワードが本音をこぼした。ジェイミーは特に驚いた様子もなく、苦笑する。


「気に障ったのなら、失礼しました」

「どうやら私に早く帰って欲しいみたいだね。それならば期待に答えることにしよう」


 そう言って、ハワードは従者に向け手のひらを差し出した。従者は片手で掴める程の大きさの袋を、ハワードの手に乗せる。ハワードは無言でその袋をジェイミーに差し出した。ジェイミーは怪訝な顔でそれを受けとる。


「何ですか?」

「見てみるといい」


 ジェイミーは仕方なく袋の中を覗いた。中を確認し、眉根を寄せる。


「これは……」

「ローズがね、君から贈られたものは身に付けたくないと泣くんだよ。だから全て返そう。悪く思わないでくれよ。私はローズの我が儘に付き合っているだけだ」


 どうやら袋には、ジェイミーが恋人に送った装飾品が入っているらしい。


「陰険だな」


 ニックが鼻で笑いながらボソッと呟いた。ハワードは明るい笑い声を上げる。


「騎士隊は皆、仲間思いなんだね。これでは私が悪者になってしまう。そろそろおいとましよう」


 そう言って、礼儀もなにもなくハワードは去っていった。


 ハワードが消えた瞬間、どっとした疲れがその場の全員にのしかかる。


「ムカつく奴ね。思い知らせてやるわ」


 憎々しげに吐き捨てたシェリルは、勢いこんでハワードのあとを追おうとした。その襟首をジェイミーがすかさず掴む。


「やめろ。真っ先に疑われるのはたぶん俺だ」

「大丈夫よ。うまくやるから」

「やらなくていいから。大人しくしててくれ」


 シェリルは渋々ジェイミーの意思を尊重する。隊長が深いため息をついた。


「ジェイミー、お前は一度あいつを殴った方がいい。そうすればあの腹立たしい顔も少しはマシになるだろう」


 認めたくないがシェリルも隊長と同じ意見である。ジェイミーの対応は端から見ればかなりもどかしいものだった。


「ローズはまだジェイミーに気があるらしい。だからあの男はお前を牽制しに来たんだ」


 ニックの言葉を聞いて、ジェイミーは渋い顔をした。


「まさか」


 きっと自分では気付いていないのだろうが、ジェイミーの表情はとても強ばっている。シェリルはその様子に、何故だか分からないが心のすみにチクリと針を刺されたような気分になった。


「何はともあれだ。これから俺たちはお前に気を遣ってわざとらしく天気の話とかをしなきゃならない。だから迷惑料として今から酒をおごれ」


 無茶苦茶なことを言いながら、ニックはジェイミーの肩をバシッと叩いた。他の隊員たちも乗り気になって、ジェイミーの肩に腕を回した。


「いいね、ニックに賛成」

「ちょっと待て。この中に気遣いできる奴なんていないだろ。何が迷惑料だ」


 ジェイミーの反論は聞き届けられなかったようだ。あっという間に連れていかれてしまった。


「隊長たちも来ます?」

「当然だ。ジェイミーの奢りなんだろ」

「勘弁して下さい! 破産します!」


 シェリルの監視はジェイミーが仕事をしている間だけである。どうやら今日の仕事はもう終わりのようなので、シェリルは大人しく兵舎に帰ることにした。仲間に囲まれて飲み明かすことでジェイミーの気持ちが晴れればいいなと、シェリルは兵舎に向かいながら考えていた。

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