33.崖の上の決戦
フローラは、昔から大人びたことに憧れていた。タバコを吸ってみたりお酒を飲んでみたり、年上の男とデートをしては神殿で暮らす仲間に自慢したりしていた。同じ年頃の娘たちはフローラのことを羨望の眼差しで見ていたし、そのことに気付いていたフローラはいつも鼻高々だった。
ある日、町で話しかけてきた男に酒を飲もうと誘われた。当然のごとく酒場に付いていったフローラは、たいして好きでもないお酒を慣れた風を装って飲んで見せた。このとき誘ってきた男というのが、オスカーである。普段であればフローラは、初対面の人間に神殿暮らしをしているなんて絶対に明かさなかった。そんなことを言えば、イケてない、ダサい奴と思われるからだ。しかしこの日は酔いがまわって、思わず神殿暮らしの不満が口をついて出た。一生あんな堅苦しい所で生きていきたくはない。でも一人で生きていく力はない。この先の人生を考えると背筋が凍る思いがすると打ち明けると、オスカーは紹介したい人がいるからまた会わないかと言った。
数日後、再び酒場に足を運んだフローラは、オスカーにアケルナー国の奴隷商人を紹介された。彼は神殿暮らしをしているフローラをとても哀れんでいて、アケルナー国に来ないかと提案してきた。国外に出るお金なんかないと断ると、男はお金が無くても自由に生きていける方法があると言った。その方法は、奴隷になる、というものだった。
アンタレス国に奴隷はいない。だから、国外に出たことのないフローラは奴隷を知らない。神殿の壁に描かれている女神様の側に控えている者たちは奴隷なのだと、神官様に教わった程度の知識しかなかった。
男の話はとても魅力的だった。
貴族のドレスや装飾品を作っているのは奴隷だから、世の中の流行を牽引しているのは奴隷である。金持ちに買われれば、一生贅沢な暮らしが出来る。アケルナー国には奴隷出身の政治家だっている。王族に買われれば、一般の庶民より高い地位が手に入る。フローラは美人だから、きっと貴族か王族の目にとまるはず。
男の話の中でなによりフローラの心を惹き付けたのは、人身売買は今流行りの商売で、都会にいる女の子たちは皆やっているという言葉だった。
小さな町でずっと生きてきたフローラ。このままこの町で死んでいくよりも、奴隷になって世界を見たいという気持ちが勝った。でも一人では心細い。友人も誘っていいかと男に尋ねると、男はもちろんと頷いた。しかし神殿の人間は堅苦しい考えを持っているから、大っぴらに誘ってはいけないと忠告を受けた。
最終的に、今流行りの『永遠の誓い』になぞらえて、騎士を装った男たちが神殿の女の子たちを駆け落ちに誘うということになった。結果、五人の少女たちが網にかかったのである。
アケルナー人と話したというフローラの言葉が引っ掛かり詳しい話を聞き出したシェリルは、驚きを隠せなかった。てっきり遊ぶ金欲しさに仲間を売ろうとしているのだと思っていたが、フローラは自分自身も奴隷となって国外に出ようとしていたのだ。
「馬鹿じゃないの」
思わず本音が口をついて出たので、シェリルは慌てて口をつぐんだ。しかしフローラにはばっちり聞こえてしまったようで、ものすごい形相で睨まれる。
「失礼ね。私は人より少し勇敢なだけよ」
「勇敢さの使い方を間違えてるわよ。ていうか、何から何まで間違えてる。その酒場で会ったっていう奴隷商人はきっと偽物だし……」
シェリルの言葉を聞いて、フローラはむすっとした顔になる。
「どうして偽物だって言いきれるのよ。またはったり?」
シェリルは奴隷商人が偽物であると思う理由を、至極丁寧に説明した。
アケルナー国がアンタレス国に奴隷制度を受け入れさせたいのは、アンタレス国の人口が極端に少ないからである。足りない人手を補うため奴隷が飛ぶように売れると踏んでいるからで、アンタレス人を奴隷にしたいわけじゃない。そんなことをすれば客の数が減ってしまうし、行き場が無くて奴隷に身を落とすしかない人間なんてこの世界には溢れかえっている。わざわざ人身売買が禁止されているアンタレス国で奴隷を確保する商人なんていない。
「じゃあ、あのとき私が話したのは、誰だったの?」
シェリルの話を聞いて、フローラは不安げに呟いた。
「知らない。でも、もうすぐ分かるでしょ」
シェリルは軽い調子で答えた。
今その奴隷商人とやらの元に向かっているのだとしたら、そいつを捕らえて話を聞き出せば万事解決である。
さてどうやって捕まえようかとシェリルが考えていると、突然馬車が止まった。もう着いたのかと、シェリルは格子窓から外を確認する。すると外から怒鳴り声が聞こえてきた。
「道を間違えたぁ!?」
シェリルは格子に思いきり頭を打ち付けた。
怒鳴り声はオスカーのものだ。ということは道を間違えたのはマックスだ。睡眠薬のことといい、しっかりしてくれよマックスとシェリルが心の中でボヤいたとき、フローラが大声を出した。
「オスカー! マックス! 助けて!」
しまったとシェリルは振り返る。目を離した隙にフローラは馬車の前方に移動していた。オスカーとマックスが座っている御者席に向かって、ドンドンと壁を叩いている。
なんだ、どうしたと騒ぐ声が聞こえてくる。しばらくしてかんゆきが外される音がして、薄暗い馬車の中に太陽の光が差し込んだ。
馬車の中を見て、真っ青になるオスカーとマックス。フローラは急ぎ馬車から降りてオスカーの腕にしがみついた。
「オスカー! あの女頭がおかしいの! ここに来るまで私、ずっとナイフで脅されてたのよ」
「フローラ、他の女たちはどこに行ったんだ」
「私が逃がした」
シェリルはそう言って、馬車から降りた。オスカーとマックスは動揺しながら顔を見合わせる。
「は? どうやって……」
説明するのももう面倒なので、シェリルはオスカーの疑問を無視して辺りを見回した。現在シェリルたちがいる場所は、色濃い緑に囲まれた細長い山道だった。道は馬車一台がようやく走れるという程に狭い。さらに道の先は崖のようになっていて、このまま進めば馬車はまっ逆さまである。これでは引き返すのに相当の時間を要する。崖にぶつかる前にもう少し早く気づけなかったのかと、シェリルは嘆息した。
「どこで道を間違えたの?」
シェリルが尋ねると、マックスが首を横に振った。
「わ、わからない」
「わからないって……」
地図か何か無いのかと尋ねても、マックスは首を横に振る。どうやら少女たちを売るにあたって、紙に記録を残してはいけないと奴隷商に強く言われていたらしい。
手詰まりだ。シェリルはうんざりとため息をつく。
そのとき、オスカーがシェリルに向かって勢いよく拳を振り切った。シェリルはそれを、間一髪で避けた。
「やめてよ。殴りあってる暇は――」
最後まで言葉を待たず、オスカーは剣を抜いてシェリルに向かってきた。シェリルは振り下ろされた剣をすかさず足で踏みつけた。オスカーの手から剣の柄がこぼれた瞬間、地面に落ちた剣身の上に乗り上げる。オスカーは鼻にシワを寄せてシェリルを睨み付けてきた。
「なぜ俺たちの邪魔をする!」
「答える義理はないわ」
オスカーは憎々しげに表情を歪めたあと、シェリルに掴みかかってきた。
「なんだこのやろう!」
「なにするのよこのやろう!」
「いたたたた! 鼻がもげるわ!」
「髪引っ張らないで!」
「くそっ! マックス!」
剣を貸せと言いたかったのか、お前がやれと言いたかったのか、とにかくオスカーが何かを言おうと振り返ったとき、マックスはちょうど、ジェイミーに取り押さえられているところだった。
「ジェイミー!」
シェリルは思わず声を上げ、それから念のため踏みつけていた剣を手に取ったあと、ジェイミーのそばに駆け寄った。ジェイミーは辺りを見回し怪訝な顔をした。
「これは、どういう状況?」
「道に迷ったの」
「ああ、そう」
なんとも間抜けな結末に、ジェイミーは脱力している。
ジェイミーに取り押さえられているマックスは、怯えた様子で早口に声を上げた。
「た、頼む。見逃してくれ。仕方なかったんだ。全部闘技場の奴らの考えで……」
「闘技場?」
聞いてもいないのに真相を語りだしたマックス。シェリルが詳しく話を聞こうと身を屈めたとき、フローラの悲鳴が上がった。
シェリルとジェイミーはとっさに声がした方を見る。
二人から十数歩離れた場所で、オスカーがフローラの胸ぐらを掴んでいた。フローラは崖の端まで追い詰められていて、あと一歩でも後ろに下がれば足場を失うという状況だ。
「マックスを離せ。そのまま二人とも馬車の中に入ってもらおうか」
オスカーは口調こそ静かだが、その様子は明らかに動転していた。ジェイミーが慌てて声を上げる。
「冷静になれ。そんなことをしても、罪が重くなるだけだ」
「うるさい! こいつがどうなってもいいのか!」
そう言って、オスカーはフローラを掴んでいる腕に力を入れた。シェリルはオスカーとフローラの方に足を踏み出した。
「来るな! 来たらこいつをここから落とすぞ!」
「やめなさいよ。本気じゃないくせに」
シェリルはオスカーから奪った剣を地面に捨て、両手を上げてなにもするつもりはないとアピールする。オスカーは周囲に目を移し、どうすればこの場から逃走できるか頭の中で必死に考えているようだった。その隙にシェリルは二人との距離を詰めた。
「諦めなさい。大人しくしてればたいした罪には……」
シェリルが言いかけたとき、フローラの片足を支えていた部分が砕けた。バランスを崩したフローラはとっさにオスカーの腕を掴む。しかしオスカーは無意識だったのか、その手を振り払った。必然的に、フローラの体は崖の外に向かって大きく傾いた。




