18.アクラブ神殿
「今何て言った?」
執務室に戻る道すがら、ジェイミーは氷水が突然降ってきたみたいな素っ頓狂な声をだした。
「だから、シェリルちゃんが噂を何とかしてくれるんだってさ」
ニックがシェリルを指してニヤリと笑う。ニックを挟んだ向こう側にいるシェリルは、ジェイミーに向かってコクリと頷いた。
「何で噂のこと知ってるんだ」
「ニックがさっき教えてくれたの」
ジェイミーはニックを睨み付ける。ニックは大げさに両手を開いてこれ見よがしに嘆いて見せた。
「リリーちゃんも俺も、お前の噂に巻き込まれていい加減迷惑してんだ。どうせこの五日間やることないんだろ? いいじゃん。何とかしてもらえよ」
言い返す言葉が無いジェイミーは返事に詰まる。その隙にニックはシェリルの方に体を向け、ポンポンと肩を叩いた。
「それじゃ、頼んだよシェリルちゃん」
念押しするようにウインクして、ニックは執務室に消えていった。
残された二人の間には微妙な沈黙が流れる。シェリルは恐る恐るといった様子で、ジェイミーに話しかけてきた。
「あの、もし迷惑だったなら謝るけど」
「ああ、いや、迷惑ってわけじゃ……」
気を使いまくりのシェリルを見て、ジェイミーは首に手をやりながら困ったなぁと目を伏せた。ひとつ息をつき、仕方がないと腹を括る。
「本当に噂を何とかしたり出来るのか?」
「ええ、出来るわよ」
それはそれは得意げに、シェリルは頷いた。
◇◇◇
「入って!」
シェリルは自分が寝泊まりしている兵舎の一室にジェイミーを招き入れた。
広くはないが、もの凄く狭い訳でもない。申し訳程度にバスルームがついているこの場所は、ジェイミーが使っている所と全く同じ構造である。まだ部屋を使いはじめて日が浅いので、シェリルの部屋はさして荷物もなくすっからかんだ。ベッドと棚しかない。
棚を探って何かを取り出したシェリルは、床の上に直に座った。ジェイミーもその向かいに腰を下ろす。シェリルは手に持った袋の中身を床に広げた。中から現れたのは、アンタレス国の通貨だ。シェリルは顔を上げると、うかがうような顔でジェイミーを見る。
「聞いてもいい?」
「何?」
「軍人の給料って、月いくらなの?」
「人によるけど、俺は3000カロン」
ふぅんと頷いたシェリルは、床に広げた貨幣を数えはじめる。
「3000カロンは、金貨三枚だっけ?」
「ああ」
床にあるのは、金貨三枚、銀貨が十枚に、銅貨が十数枚。
「約3500カロン」
シェリルはむぅと唸って考え込む。床を睨み付けているシェリルをジェイミーは頬杖をつきながら暫く眺めていたが、やがて痺れを切らし声をかけた。
「あの、そろそろ何をするつもりか教えて欲しいんだけど」
パッと顔を上げたシェリルは、何やら企むようにふっふっふっと笑った。随分と楽しそうである。
「人の心を動かすものって、何だと思う?」
シェリルが首をかしげながら尋ねてくる。全然話が見えないが、取りあえずジェイミーは指を顎にかけて考えた。
「教育? それか武力か、信仰とか」
「そのどれも間違ってない。私はこう教わったの。金、権力、それから先導者、この三つ」
そう言ってシェリルは膝を揃えて座り直し、ビシリと背筋を伸ばした。
「ジェイミー」
「はい」
「あなたを取り巻いている噂は言い換えれば娯楽と同じよ。本当か嘘かは関係ない。皆が楽しんでいるうちは、どんなにあり得ない話でも事実として広まるわ。だから情報を操作しないといけない。必要なものはさっき言った三つ。まずは、お金」
シェリルは床に広がった硬貨を指差す。
「残念ながら、これじゃ足りないのよね。ジェイミー、あなた今いくら持ってる?」
◇◇◇
「二万……」
シェリルは突然重くなった袋を抱えつつ、けろりとした顔をしているジェイミーを恐ろしい思いで見上げた。
「足りる?」
嫌みなく尋ねるジェイミーに、シェリルは絶句した。これが貴族の、いや、国家権力の力か。足りないと答えたら一体どうするつもりなのだろう。
結局、シェリルが使用人時代に稼いだ端金はお役御免となってしまった。あれはまた別の機会に使うとして、気を取り直し目の前にそびえ立つきらびやかな建物を見上げる。
アンタレス国随一の規模を誇る、アクラブ神殿。国をあげての儀式や祭典はそのほとんどがこの場所で行われる。明るい色合いを好む国民性がよく出ていて、敷地内には寒い季節にも関わらず華やかな花が溢れかえっていた。
「で、次は何を?」
「権力に訴える」
シェリルはそう言って気合いを入れるように両手の拳を握り、ズンズンと神殿に向かって歩を運んだ。
ベルの紐をジェイミーが引くと、扉がゆっくりと開いた。中から現れたのは、柔らかな表情をした初老の神官だ。
「ジェイミー、久しぶりだね」
「お久しぶりです」
「お入り」
神官はにこやかに二人を神殿の中へ迎え入れた。中に入るともうひとつ扉があって、扉の右側には細長い机が置いてある。
机の向こうにはジェイミーと同じ年頃の青年が一人、立っていた。神官は真っ白い服を着ているのに対し、彼は淡いグレーの服を着ているので神官見習いだと分かる。青年は一度扉の向こうに消えたあと、水差しとコップ、それに器に砂を盛った物をトレーに乗せて持ってきて、机の上に置いた。そして、素晴らしい笑顔で机に導かれる。
シェリルは完全に失念していた。この国の神殿に足を踏み入れるのは初めてだ。この机の上にある物は身を清める的なアレだろうか。何をどうすればいいのかまるで分からないので、取りあえずジェイミーの服の端をちょいと引いて、助けを求める。
「あの。これ、どうすればいいの?」
なるべく小声で尋ねると、ジェイミーはハッとした顔でシェリルを見下ろした。
「そういえば、シェリル、お前信仰は?」
二人の様子を見て、神官見習いがおやおやと近付いてきた。
「他宗教の方ですか?」
「いえ、無宗教です」
怒られるかなぁと思いながら告げたシェリルに対し、神官見習いは気にする様子もなくふわりとした笑顔をみせた。
「では、説明を。心配要りません。これは入信や改宗の儀式ではなく、アクラブ神への挨拶みたいなものですから」
そう言って神官見習いは水差しをもって、コップに水を注いだ。そして、砂の盛られた器を手のひらで示す。
「砂を水に少し入れて、飲む振りをして下さい。それだけです。簡単でしょう?」
言われた通りにしたシェリルに満足そうな笑顔を向けて、神官見習いは扉を開いた。
「では、どうぞ」
ジェイミーとシェリルは、神官見習いに導かれるまま扉の向こうに足を踏み入れた。