15.バランス
爽やかな朝。
といっても、そう感じるのは生粋のアンタレス人だけだろう。常夏の国、アケルナー国で生まれ育ったシェリルにとって、初冬はすでに身を切るほどの寒さである。ただでさえ寒い国なのに、なぜ一番寒い時間帯に本部の外に出なければならないのか。シェリルは震えながらこの理不尽に思いを巡らせていた。
「大丈夫?」
隣から気遣わしげな声が降ってきた。自由の身になって三日。全然自由になった気がしないのは、この人に監視されているからに他ならない。シェリルは隣に立っているジェイミーに顔を向ける。
「何でこんな寒い早朝に外に出なきゃいけないの」
「遠征部隊が帰ってくるんだよ」
恨みがましい声で尋ねるシェリルに、ジェイミーは苦笑いしながら答えた。そういえばそんな話を聞いたなとシェリルは昨晩の会議を思い出す。レグルス国軍との合同軍事演習に参加している遠征部隊が戻ってくるという話だ。今本部の前には、騎士隊だけでなく、衛兵隊、工兵隊、憲兵隊に歩兵隊等々アンタレス国軍を構成する隊の殆どが顔を揃えている。各隊の隊長が並んでいる向こうには、軍隊のトップである団長がどっしりと身を構えていた。
壮観だなぁと白い息を吐きながら考えていたシェリルの肩に、外套がかけられた。よほど寒がっているように見えたのだろう。ジェイミーが自分の外套をシェリルに譲ってくれたようだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
なんとも爽やかに微笑んだジェイミー。大半の女性は頬を染めてしまうに違いないほどの男前である。シェリルはというと、額の傷が目に入って何度目か分からない自己嫌悪に陥っていた。
ざわついていた人々が急に静かになった。遠征部隊の馬車が広場に入ってきたらしい。軍人たちは綺麗に整列して、馬車や馬に乗った仲間を迎え入れる。
遠征部隊を率いていた副団長が団長に挨拶する。一通りの儀礼的な言葉を交わしたあと、各隊はそれぞれが所属する隊の荷物を降ろしにかかった。
「副隊長ー! 待ってましたよ!」
出し抜けに部下たちに囲まれ、馬から降り立ったばかりの騎士隊副隊長は目を白黒させた。
「なんだ。皆どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもないですよ! もう隊長の機嫌が最悪で……」
「バート・コールソンが――」
「シャウラ国の――」
「スプリング家が――」
「やめないか」
口々に副隊長に話しかけようとする隊員たちを隊長が制した。
「長旅ご苦労。演習はどうだった?」
「観光みたいなものでしたよ。それよりも、シャウラ国とスプリング家の話は急使に聞きました。大変なことになりましたね」
隊長と副隊長は深刻な表情で会話しながら、本部に向かって歩を進めた。
隊員たちは荷物を運びながら二人を囲み、必死に副隊長に話しかける。
「副隊長、今騎士隊と衛兵隊の関係が最悪なんです」
「といっても、隊長同士だけですが」
「シャウラ国の殺し屋を取り逃がしたことを衛兵隊長が毎日のように言ってくるんですよ」
「おかげで隊長の機嫌が日に日に悪くなっていって……」
副隊長は苦笑いしながら部下たちの訴えに耳を傾ける。隊長は腹立たしげに舌打ちし、部下を一喝した。
「やかましい! 俺が下っ端の頃は上官が話しているときに口を挟むようなことはなかったぞ。全く最近の若いやつときたら」
「ほらね」
説教をはじめた隊長を見て、隊員たちは肩をすくめた。副隊長は騎士隊に大きな変わりはないようだとひと安心しつつ、久々の本部に足を踏み入れた。
◇◇◇
出迎えが終わりあらかたの作業が済んだ騎士隊。遠征組も加わり、いつもより騒がしい騎士隊執務室。
「スタンリー、ジョージ、ルーク……」
隊長が兵舎住まいの隊員たちに送られてきた手紙を配っている。名前を呼ばれた者は嬉々として手紙を受け取り、家族や恋人からの便りに顔を綻ばせた。
ニックは名前を呼ばれていないにも関わらず、隊長にいそいそと近付いた。
「隊長」
「なんだニック。お前宛の手紙は無いぞ。お前に捨てられたっていう女が泣きながら渡してきた手紙は持ってたら呪われそうだったから即神殿に持っていって神官長に燃やしてもらった」
「そんなことに神官長の手をわずらわせないで下さいよ」
「こんなことに俺の手をわずらわせるな」
手紙を配り終わり、隊長は面倒くさそうにニックを見た。
「で? 何の用だ」
「先輩たちも戻ってきたし、そろそろ休みが欲しいんですけど」
「ああ、休みはやる。順番にな」
そう言って隊長は部屋の向こうにむかって叫んだ。
「ジェイミー! ちょっと来い!」
名前を呼ばれたジェイミーは、シェリルと共に隊長の側まで進み出る。
「何ですか?」
「お前今日から休みだ。五日やるから自由に楽しめ」
「えー!? 待ってくださいよ隊長……」
文句を言おうとしたニックを隊長はひと睨みで黙らせた。
「ニック、お前馬小屋掃除を毎回ジェイミーに押し付けてるそうだな。サボった回数分は働いてもらうぞ」
一言も抗議できなくなったニックは、力なくうなだれる。一方のジェイミーは、どうにも微妙な顔で隊長を見ている。
「あの、監視はどうなるんですか」
「俺が代わろう」
「え゛……」
シェリルが奇妙な声を発した。隊長は澄ました表情でシェリルに目を向ける。
「なんだ。不満か?」
「そりゃ不満でしょうよ。俺だって隊長に監視されるくらいなら馬小屋に住む方がましですから」
再び隊長に睨まれて、ニックは大人しく口を閉じる。ジェイミーは考え込むように眉間にシワを寄せ、しばらくして重々しく口を開いた。
「あの、俺の休みは出来れば後回しに……」
「そうなるとまた日程を組み直さないとならない。面倒だから休んでおけ」
隊長の言葉に、ジェイミーは険しい表情を崩さない。連日連夜仕事に追われていたのだから、喜ぶべき場面である。しかしジェイミーはどうにも都合が悪いという顔をしている。
「……だったら、ニックと日程を交換してもらえませんか」
「ジェイミー」
何とか休暇を避けようとするジェイミーに、隊長は厳しい表情で向き合った。
「はっきり言おう。明後日はアレース公爵家の舞踏会があるな。お前は流石に参加しないとマズいだろう。だから一番早く休暇を持ってきたんだぞ」
「お心遣いは感謝しますが、任務があると断るつもりです。嘘をつくのは気が引けますから、お願いです。仕事をください」
「ジェイミーお前、都合の悪いことがあるたび仕事に逃げるのはいい加減やめないか」
隊長は呆れた顔でため息をつく。ジェイミーはすがるような目で隊長に懇願した。
「お願いします隊長。馬小屋でも鳥小屋でも何でも掃除します。なんなら書類仕事も全て引き受けます。一生のお願いですから」
「王宮舞踏会のときも同じことを言っていただろう。お前の一生は何回あるんだ」
「足りなければニックの一生も差し上げます」
「あ、ふざけんなジェイミー」
ニックの抗議に目も向けず、ジェイミーは必死に隊長に頼み込む。隊長は悩みに悩んだ末、眉間を押さえつつ渋々頷いた。
「……わかった」
「感謝します!」
呆れ返っている隊長の視線や、ニックの苦笑いも何のその。ジェイミーはホッとした表情で胸を撫で下ろした。隊長はやれやれと頭を振ったあと、シェリルを指差した。
「じゃあ、スプリングの監視を続けろ。今はそれだけでいい」
「それだけですか」
「ああ。お前少し働きすぎだ。他人の仕事を肩代わりしたり高熱出しても報告書を書きたがったり。留学生の世話役ってことで舞踏会は断れるだろう。今日から五日間はなんかこう、適当にやれ」
「そうですか。わかりまし――」
言いかけて、動きを止める。
「報告書を書きたがったり?」
ジェイミーは隣に立っているシェリルを見る。シェリルはあらぬ方向に視線を逸らした。ジェイミーはなるほどとひとつ頷き、隊長に笑顔を向けた。
「隊長、お心遣い本当に感謝します。手が足りないときは遠慮なく呼んでください。では失礼」
早口で言い終わったジェイミーは、シェリルを連れて執務室の外に出た。そそくさと退室するジェイミーとシェリルを見送った隊長は、怪訝に眉をひそめる。
「なんだあれは」
「さあ? 馬小屋掃除のことをチャラにしてくれるなら探ってきますよ」
楽しそうに言ったニックに顔を向け、隊長はなんとも残念だと言いたげにため息をついた。
「お前とジェイミーはもう少しバランスよくいかないものか」
「バランスなんてとれてたら、きっと退屈ですよ」
上司の苦労などつゆ知らず、悪気ない笑顔で返したニックは、ジェイミーとシェリルを追って部屋を出ていった。
◇◇◇
「それで?」
ジェイミーは厳しい表情で、腕を組みながらシェリルを見据える。
「多分、ご想像の通りかと……」
シェリルはうつむきながらボツリと呟く。ジェイミーは片手で頭を押さえつつ、大方の予想を口にした。
「つまりこういうことか? あの日持ってきた調書の束は、隊長を騙して手に入れたってことか」
シェリルはしおらしく頷いた。
ジェイミーが高熱を出した日、隊長が仕上げろと言って寄越した調書は、実はシェリルが自ら取りに行ったものだったのだ。
「隊長にバレたらどうなるか……」
ジェイミーは青い顔で呟く。隊長は今のところ、調書を取りに来たメイドがシェリルだったことに気付いていない。ジェイミーが黙っていればシェリルに騙されていたことには気付かないだろう。
「なるほどねぇ」
突然背後から声が聞こえてきて、ジェイミーは驚き振り返った。いつのまにやら、人の悪い笑みを浮かべたニックが立っている。
「ニック、何やってんだこんなとこで」
「隊長の差し金で盗み聞きしてるんだよ」
白状した瞬間から盗み聞きにはならないが、まともに指摘するのも面倒である。ジェイミーはニックをしげしげと見つめ尋ねた。
「報告するつもりか?」
「するわけないだろ。もし衛兵隊長の耳に入ってみろ。隊長にまた嫌味を言いに来る。隊長の機嫌が悪くなる。俺たちへの当たりが厳しくなる。負の連鎖だ。冗談じゃない」
ニックの言葉に、ジェイミーとシェリルはホッと息を吐いた。ニックはそんな二人を交互に見て、ニヤニヤと笑っている。
「なんだよ。気持ち悪いな」
ジェイミーは無意識に身構えた。ニックは笑みを浮かべたまま、シェリルに向かって片手を上げた。
「やぁ、シェリルちゃん。おはよう。今日も綺麗だね」
「……おはよう」
毎日女性が喜ぶであろう一言を添えて挨拶してくるニックに、シェリルはかなり胡散臭い印象を持っているようだ。全力で警戒しているシェリルを全く気にすることなく、ニックはジェイミーと向き合った。
「ジェイミー、お前はどうしてこうも迂闊で鈍感なんだ」
「はぁ?」
いきなりけなされてジェイミーは顔をしかめた。ニックは大げさに首を振ったあと、何かとても可哀想なものを見るような顔をする。
「例えばだ、隊長にバレたくない話を執務室の前で話すってところがもうすでに迂闊だよ。それに、シェリルちゃんの寝癖を真っ先に指摘してやれない気の利かなさも、本当に残念極まりない」
「え」
シェリルは思わず両手で頭を押さえる。肩より少し長い真っ直ぐな髪は、背中側の一部が確かにハネていた。
ニックは哀れむような視線をジェイミーに向けながら言った。
「ジェイミー、お前は恋人の髪型が変わっても全く気付けない類いの人間だ。そういえば、そのせいで昔フラれたこともあったっけ」
「わざわざ人の古傷をつついて楽しいか」
「まぁまぁ。つまり俺が言いたいのは、ジェイミーが昔と変わらず鈍感だってことと、お前が監視しているシェリルちゃんは意外に抜け目ない性格だってことだよ」
突然話の矛先を向けられて、シェリルは困惑している。ジェイミーは話が飲み込めず、ニックにため息まじりに尋ねた。
「つまり、何が言いたい」
「つまり、自分のせいで寝込んでいるジェイミーを利用してちゃっかり調書を手に入れるこの子が、鈍感なお前に監視されているこの三日間、ずっと大人しくしていたとは到底思えないってことさ」
ジェイミーはシェリルに目を向けた。シェリルはあらぬ方向に視線を逸らした。