6.華麗なる片腕
夏。
夏とはどうしてこうも人をむなしくさせるのか。
夏という開放的な雰囲気が、マシューの日常の地味さをこれでもかと浮き彫りにしてくれる。相変わらずローリーは忙しく、必然的にマシューも忙しい。二十五歳という無駄にしてはならないような響きのする時間が、目まぐるしく過ぎ去っていく。
遊びに行こうと思えば行けるのだ。ローリーはくれと言えばいくらでも休みをくれる。だが休みをとって、何をすればいいのかが分からない。自分の青春のあまりの味気なさに、マシューはちょっとセンチメンタルになっていた。
「ウィルと一緒にリリーの誕生日パーティーに行ってくる」
「ふざけてんのか」
国の未来を左右する協定が結ばれる日に、ローリーがそんなことを言ったので、マシューは反射的に悪態をついた。だがローリーはどこ吹く風。さっさと自室へと向かい、従者に身支度を整えてもらっている。
「大丈夫だ。調印式まであと四時間もある」
「準備があるでしょう。演説の原稿に目を通すとか」
「もう通した」
「お忘れでしょうが、陛下。私はブルック家の人間です」
「ウィレット家に行くのが嫌なら別に、一緒に来なくてもいいって」
「そういう問題ではありません」
「安心しろマシュー。アレース公爵にもちゃんと便宜をはかるから」
のらりくらりと文句をかわされ、結局マシューは彼とともに敵地に赴いた。帰りの馬車で、ローリーは憂いを含んだ声で言った。
「ジェイミーも気の毒に。あの子は気が優しすぎるからなぁ」
あからさまな物言いに、マシューは眉をひそめた。向かいに座っている王弟殿下が、とがめるような声を出す。
「兄上、マシューさんに失礼ですよ」
ローリーは目を丸くして、マシューを見た。
「失礼だったか?」
「いえ。ただ、うちの弟もそれなりに落ち込んでいるものですから」
マシューの腹違いの弟、ギルバートは、ブルック家の跡取りである。そしてブルック家と敵対するウィレット家の跡取りは、殿下の友人であるジェイミーである。二人は今よりもっと幼い頃から、敵対する両家の人間たちに競争を強いられてきた。最近、その競争に一つの決着がついた。
二人が通う、そしてマシューも通った軍学校では、十三歳になる年度に適性試験というものが行われる。これは、未来の軍人たちが将来、どの隊で最も力を発揮できるかを調べるための試験である。どの隊の適正があろうと、そこに優劣はない。しかしどうしても、騎士隊は優れていて、歩兵隊は劣っている、というようなイメージを世間は抱きやすい。
そしてブルック家にとって、最も恐れていたことが起こった。ジェイミーは騎士隊と衛生隊の適正が、ギルバートは歩兵隊と工兵隊の適正があると判定されたのだ。
マシューはこの結果を疑問には思わなかった。ギルバートは手先が器用で、機械いじりが好きだった。狩りが得意で、弓の腕は目を見張るものがあった。対してジェイミーは身のこなしが軽く、生き物が好きで、動物にも人にもよく懐かれる。
この違いを個性ととらえられないのが我がブルック家である。適正試験の結果が将来に直接影響するわけではないのだが、父はこれ以上恥をさらす前にと、ギルバートに学校を辞めるよう命じた。もちろん弟は落ち込んだが、ジェイミーも責任を感じて落ち込んでしまったらしい。おまけに彼の母親の病状が最近悪化してしまったらしく、そのせいで彼は今、ふさぎ込んでいると言う。妹の誕生日パーティーにも顔を出せないほどに。
「確かにジェイミーはいい子ですよ。でもだからって、ギルバートが悪者にされるのは納得がいきません」
「悪者になんてしてないだろう」
「ひしひしと感じるんですよね。こう、ひしひしと」
その馬車での会話以来、ローリーはやたらとマシューの顔色をうかがってくるようになった。疲れてる? 休憩したい? 何か食べたいものは? 見飽きた顔にこんな言葉を投げかけられて一日が終わる己の生活を、マシューは嘆いた。
思い返してみれば自分の人生はずっと、ローリーがいてこそ成り立つものではなかったか。正直、何かあれば何とかしてもらえるという安心感は常にあった。何も失わない代わりに何も得られない。プラマイゼロ。それがマシュー・ブルックの人生。
国のために働いているとはいえ、実際に功績を上げているのはローリーだ。ローリーの周りに控える護衛たちだって、選びぬかれた天才たちである上に、有事に備えて日々鍛錬を欠かさず、老若男女の憧れの的である。ローリーとその護衛たちは、そこにいるだけで国民を幸せにしている。
対するマシューである。主な仕事はローリーのお守り。誰が憧れるんだ、こんな仕事。目の保養になるほどの容姿もなければ各国の要人と渡り歩くだけの頭脳もなく、武術に秀でているわけでもない。幼馴染のよしみで側近というおこぼれにあずかっているだけ。これで偉そうに弟を庇っているのだから笑わせる。
自分の人生これでよかったのかと悩むマシューの元に、ある日、父から手紙が届いた。社交界で絶大な影響力を誇るサルガス公爵夫人の、姪っ子との結婚が決まったという短い便りだった。結婚するのはわざわざ確認するまでもなく、マシューである。父なわけはないし、弟はまだ十二歳なのだから、マシューに決まっている。弟の武人としての道は断たれ、現在ブルック家はウィレット家にリードを許している。だからマシューは会ったこともない相手と結婚し、公爵夫人とブルック家との繋がりを作らなければならないらしい。
「マシュー、専用の部屋が欲しい? 特別なのを作ろうか?」
今日もローリーはマシューの機嫌を取るために頑張っている。せっせと重要書類に目を通しながら、ご苦労なことだ。むしゃくしゃしていたマシューは、扉の近くに真顔で突っ立ったまま、八つ当たりした。
「陛下、ウィリアム殿下によろしくない影響を与えるご友人ができたそうですよ。社交界で少し、噂になっております」
「よろしくない影響を与えるご友人?」
「誰かさんが労働者階級の子供を軍学校に入学させようなどと働きかけたせいで今、学び舎の風紀が乱れているとか。殿下は彼の影響で道を踏み外してしまうかもしれません」
言いながら、自分は今最低なことを言っている、とマシューは自己嫌悪に陥った。自給自足で落ち込むという負のスパイラルに陥っているマシューの顔を、ローリーは不思議そうな顔で見ている。
「それってもしかして、ニック・ボールズのことか?」
「ご存知だったんですか」
「ああ。ウィルの友人は全員もれなくチェックするようにしてるから」
「嫌われるぞマジで」
ローリーはマシューの言葉を無視して、考え込んだ。
「あの子は別に、問題ないと思うけどなぁ」
「アーノルドの見解と異なりますね」
言ってすぐ、マシューは今度は、本気で後悔した。ローリーはその名前にすかさず反応を示した。
「アーノルドが問題があると言ったのか?」
「ええ、しかし、多少大げさに言っている可能性も……」
言い終わる前に、ローリーは立ち上がっていた。マシューは護衛たちに待機するよう命じて、部屋を出る主の背中を慌てて追いかけた。
「あの、申し訳ありません、陛下」
「何が?」
ローリーは心底不思議そうな顔で振り返った。彼の足はアーノルドのいる国軍本部に向いている。
王宮の渡り廊下を二人で進んでいると、進行方向に、両手で顔を覆った女性が立っているのが見えた。そして彼女の正面には、つい今しがた話題にのぼった少年が立っていた。
「迷ったくらいで泣くなよ、大人なんだからさぁ……。うわっ!」
マシューは二人のそばに歩み寄ってすぐ、赤毛の少年の襟首をつかみ、泣いている女性と引き離した。
「ニック・ボールズ。王宮に忍び込むとはいい度胸だな。何を盗んだ。一つ残らず出しなさい」
「違うって! その人が陛下の……うわ」
ニックはマシューの顔を見上げて表情をこわばらせた。それから、マシューの隣に立っているローリーを見て完全に固まった。
顔を手で覆ってすすり泣いていた女性は、マシューたちを目に留めた瞬間、小さく悲鳴を上げた。それから、何がどうしてか、彼女はローリーの背後にすばやく身を隠した。混乱しすぎて盾にする相手を間違えたのか。正気に返ったとき、彼女は大丈夫だろうか。
マシューが心配していると、ローリーが「あ」と声を上げた。同じ方向に視線を向けると、これまた、つい今しがた話題にのぼった人物が、ものすごい形相で廊下の向こうからこちらに向かって来るのが見えた。
「ニック! 今日という今日はその捻じくれまくった根性叩き直してやる!」
言いながらあっという間にマシューたちの元にたどり着いたアーノルドは、周囲には目もくれずニックの胸ぐらを掴んだ。アーノルドは本来、分別のつく規律正しい武人である。そんな彼が主君への礼儀も忘れ、怒り狂っている。何をしたんだお前は……とマシューは少年を見ながら思った。ニックはアーノルドに胸ぐらを掴まれたまま、わざとらしく怯えたような声を出した。
「あー! 見て、おねぇさん! これが軍学校の真実だよ! 大人たちは指導という名のもとに子どもたちを暴力で従わせて自分たちだけの帝国を作り上げてるんだ!」
「もしそんなことが許されるのならお前のような怪物は誕生しなかった」
「怪物! 皆聞いた? 今の聞いた? かいぶつ! ああ、許して下さい母さん。僕はキャンベル先生の悪意に満ちた言葉の数々のせいで、無垢な心を失いつつあります……」
「陛下! こいつの口を縫い付けても罪に問われない法律はまだできないのですか!」
「やめなさいアーノルド。子ども相手に……」
そのとき、女性が再び悲鳴を上げた。アーノルドの言葉によって、自分が国王を盾にしていることにやっと気付いたらしい。
彼女は一目散に逃げ出した。そちらは国軍本部に続く道だが、逃げ込んだあとどうするつもりなのか。マシューはその場をローリーに任せ、仕方なく彼女を追った。
女性は、本部の用具箱の影に隠れてしくしく泣いていた。マシューはため息を押し殺し、そばに歩み寄った。
「お名前をうかがっても? ご自宅までお送りしましょう」
「……やっぱり、覚えてらっしゃらないのですね」
震える声でそう言われて、マシューは眉をひそめた。マシューは自分で言うのも何だが有名人である。相手は自分のことを知っているのに、こちらは覚えていないということは今までにも何度かあった。まさか面識があったかと焦っていると、女性は涙に濡れた瞳をまっすぐマシューに向けて来た。
「私は、メアリーです。メアリー・カビルです」
瞬間、マシューは片手で頭を抑えた。メアリー・カビルというとサルガス公爵夫人の姪っ子である。そしてマシューの結婚相手である。そんな相手に名前を尋ねるなんて、最悪の顔合わせだ。
しかしふと、疑問に思った。覚えてらっしゃらない、とはどういうことだろう。まるで以前に会って話したことがあるみたいな口ぶりだ。しかしあの公爵夫人の姪っ子と話をして、それを忘れてしまうほどマシューは間抜けではない。
「伯母様の夜会で、初めてお会いしました。私、ダンスホールで、道に迷っていて……」
「あ、あー、あのときの……」
思い出した。ひらけたダンスホールで道に迷う少女がいたことを。端から端に進めばいいだけなのに方向を見失っていたので、手を引いて案内したのだが、あのときは何ともヤバい女がいたものだと戦慄したことを覚えている。
「サビク伯爵の舞踏会でも、助けてくださいました。王宮舞踏会でも、手を引いて案内してくださいました」
メアリーが言うには、マシューは計五回、彼女を助けているという。
マシューは基本的に、社交の場ではローリーの世話に忙しい。彼に気に入られようと群がる紳士たちをいなしたり、彼を間近で目にして感極まり泣き出す淑女たちを慰めたり、とにかく忙しい。だからやたらと道に迷う令嬢もその景色の一部として頭の中で処理してしまっていたらしい。
「マシュー様が親切にして下さったことを伯母様にお話ししたら、ブルック家との縁談を取り持って下さって、私、またお会いできるかもしれないと思って、嬉しくて、ずっと待ってたのに、全然連絡を下さらないから」
「あー……」
「両親には、お忙しい方だからお返事があるまで待つようにと言われました。でも私、どうしても直接お話ししたくて、こっそり会いに行こうと思って……」
「道に迷ったんですね」
どんだけ方向音痴なんだ。それに約束もなく、国王の私室に突撃できると本気で思ったのか。
マシューはうなだれるメアリーを見て、呆れた気持ちを抱きながらも、ここ最近わだかまっていた感情が少しずつ消えていくような、不思議な感覚を味わっていた。