5.華麗なる乱心
先の戦争は、明るく無邪気なその人から、瞳の輝きを奪ってしまった。
マシューが二十歳になったころ、ローリーは傷心していた。戦争の被害と、父親が心労のためにこの世を去ったことと、国中に一心に期待されること、それらが同時に押し寄せてきたことにうまく対処できなかったのだろう。
ローリーが王位を継いですぐ、マシューは彼の側近に任命された。一日中そばにいるマシューの目から見て、ローリーはすっかりおかしくなってしまっていた。だが悪いことに、彼は居眠りしていようが恋に胸を焦がしていようがあらゆることを完璧にこなしてしまう人である。そのせいで、自分たちの国王が危機に陥っていることに、ほとんどの人間が気づいていなかった。
気づかないだけならまだいいが、彼らは傷心中のローリーの元に厄介な仕事を際限なく持ち込んできた。敵国を退けた彼ならば、今まで保留にしてきた国の問題もぱぱっと解決してくれるのでは、と期待していたのだろう。だがマシューに言わせれば、大仕事を終えたばかりの人間に必要なのは、一にも二にも休息である。
というのにローリーは、マシューが仕事を始めるときにはもう働いているし、マシューが仕事を終えるときにも、まだ働いている。おまけに、やけにテキパキしている。軍学校の同期である衛生隊のマーソンは、疲労のせいで感覚が麻痺しているだけで、実際は仕事などまともにこなせていないはずだと言った。もし本当にそうであれば、マシューがこれほど苦労することはなかっただろう。
マシューは、マーソンが調合した睡眠薬をローリーにこっそり飲ませようと企んだ。憎らしいことにローリーは、マシューが薬を盛った飲み物や食べ物だけしれっと避けた。時々盛り返されることまであった。いい加減腹に据えかねて、背後から殴りかかって気絶させてやろうかと考えていたころ、仕事をしているローリーを、友人を連れた王弟殿下が訪ねてきた。
小さな弟とその友人との交流に心和んでいるローリーを見て、チャンスだと思ったマシューは、睡眠薬入りの紅茶を彼に差し出した。わざとなのか気づかなかったのか、ローリーは紅茶を飲んでそのまま眠りについた。
マシューは大仕事を終えた気になって、その日の夜、友人たちと祝杯を上げた。しかしローリーはどこまでもローリーだった。ひと眠りして英気を養った彼はそれまで以上に熱心に働くようになってしまい、とうとうマシューの手には負えなくなった。
困り果てたマシューはローリーの護衛たちに協力を仰いだ。もはや力ずくで動きを封じるしか道はない。軍の精鋭でもある彼らに、隙があればいつでもどんな手を使っても構わないから意識を奪え、と命じた。はじめは国王に手を上げることに難色を示した護衛たちだったが、マシューは切々と説得をつづけ、何とか了承を勝ち取った。
ある日の午後。外国からの使節の相手をしたあと、ローリーは自室に戻り、息つく間もなく国政情報が書かれた分厚い書類に目を通していた。室内にはローリー、マシューと、護衛たちしかいない。つまり、攻防戦を繰り広げる条件がそろってしまったというわけだ。
室内には妙な緊張感が漂っていた。それぞれがいつもの定位置につきながら、ローリーの隙をつくタイミングを探っていた。そしてローリーも書類に目を通しながら、彼らがどう出るかに注意を払っていた。
じりじりと互いに間合いをはかること、数十分。ローリーがため息をついた。
「マシュー」
名前を呼ばれて、マシューはすばやく主の元に歩み寄った。
「はい」
「お前に言っておかなければならないことがある」
「何でしょう」
「私は旅に出る。だからその間、母上とウィルのことをよろしく頼むよ」
「旅? 休暇ですか? 構いませんが、どこへ行かれるのですか」
「十年後の未来へ」
「はい?」
「十年後の未来へ」
予想の斜め上を行く主張に、マシューは逆に、冷静になった。
「ああ、陛下。とうとう頭がいかれてしまわれたのですね」
「いや、むしろ混乱していた思考があるべきところに戻ったよ。この間の睡眠薬のおかげかな」
「先月の話ですよね」
「アンタレス国はこの先もレグルス国の支援を受け続けるべきだろうか。そうするにしても、しないにしても、どちらの道も容易ではないしリスクがある」
「ではその問題はひとまず保留にして、しばらく休暇をとってみるなど、いかがでしょう」
「そうなんだ。休暇がいる。未来へ行くには、時間がかかる」
いよいよ会話が成立しなくなってしまったと、マシューはくじけそうになった。しかし辛抱強くローリーの主張を聞いてみたところ、彼の話には一応、一貫性があった。つまり彼はこう言いたいらしい。リスクのある選択をするのは国民に危険を強いるのと同じだけれど、いずれにせよ選択はしなければならない。だから未来へ行って情報を先取りして、絶対に安全な道を選び取る必要があるのだと。
「その、未来に行くっていうのは何かの比喩ですか」
「E=mc²だよ、マシュー」
「は?」
「人類は光速を超えられないんだ」
「さっきからこいつは何を言ってるんだ?」
マシューは周囲の護衛たちに助けを求めた。すると、ローリーにしびれ薬を盛ろうとして見事に盛り返されてしまった護衛の一人が、ソファーの上でぐったりしながら呟いた。
「相対性理論だろ……。最近アケルナー国で流行ってる……」
「ああ、あのオカルト理論」
マシューがちょっと目を離した隙に、ローリーは部屋を出ていこうとしていた。
「あ、待て、どこに行く」
「だから、未来に行ってくる」
「無理だろ、馬鹿か」
とうとう本音を口にしてしまった。ローリーはマシューの言葉を聞いてはたと立ち止まった。
「確かに、私は馬鹿だ」
「いや、今のはあの、口が滑ったというか……」
「未来に行くのはいい。でも、どうやって過去に戻るんだ。そこを忘れていた」
「実は私もそれを言いたかったんですよ」
マシューは扉の前で考え込んでいるローリーを何とか部屋の中に連れ戻した。執務机の前に座らせようとしたところ、ローリーはそれを拒否し、部屋の窓を全開にして建物の下を覗き込んだ。マシューは嫌な予感がした。
「陛下?」
「反重力だ。反重力が必要だ」
「それなら私が用意しておくんで、ひとまず椅子に座ってください。ほら、ここに」
「負のエネルギーだ。それがないと始まらない」
次の瞬間、ローリーは窓から飛び降りようとした。室内に護衛たちの悲鳴が響く。マシューはすばやくローリーを室内に引き戻し、勢い余って彼の顔を思いきり殴りつけてしまった。すると室内は一転して、静寂に包まれた。
ローリーは床に座り込み、呆然としている。マシューも同じく、驚いていた。今まであらゆる手を尽くして背後から奇襲をかけようとして失敗してきたのに、まさか正面から彼を制圧することができるとは。
「目が覚めたか」
「覚めた……」
素直に頷いたローリーは、呆然としたまま、立ち上がった。
「マシュー」
「何だ」
「休憩する」
「そうか」
ローリーは護衛たちに部屋で待機するよう命じた。そしてマシューを連れて、弟の部屋を訪ねた。しかし部屋は空っぽであった。使用人に理由を聞いたところ、殿下はご友人のお屋敷に遊びに行っているとの言葉が返ってきた。
ローリーはそのご友人のお屋敷とやらにわざわざ赴いた。そして屋敷の中庭で遊んでいる弟とその友人たちを、なぜか庭の木かげに隠れて観察し始めた。
王弟殿下は、先日ローリーの執務室に連れ立っていたジェイミーと、彼の妹と一緒に遊んでいた。
「次はかくれんぼしよう。ウィルとリリーが隠れてね」
ジェイミーの言葉に分かったと頷いた殿下は、広い中庭のどこかへかけていった。ジェイミーはその場にうずくまって数を数えている。そしてそのかたわらでは、彼の妹がにこにこと楽しそうに笑いながら、兄の服の袖を掴んでいる。
「リリー、早く隠れないと……」
数を数えるのを中断して、ジェイミーが言った。彼女はやっぱりにこにこと笑ったまま、兄の真似をしてその場にしゃがみこんだ。
「にいしゃんとかくれる」
「それじゃ遊びにならないよ」
ジェイミーはかくれんぼという遊びの醍醐味について一生懸命説明する。妹はふむふむと頷いている。
「リリーとウィルをみちゅけたら、にいしゃんのかち?」
「そうだよ」
「あのね、ウィルあっちいった」
「言ったらだめなんだよ……」
内部の犯行により弟の潜伏場所が明らかにされる様を、ローリーは木かげにうずくまって見つめている。
「いいなぁ。俺も仲間に入れてくれないかなぁ」
「絶対にやめて下さいね」
国王の遊び相手は彼らには荷が重すぎる。
それからしばらく、ローリーは子どもたちの遊びを見守っていた。そして唐突に、頭を抱えだした。
「つぶれそうだ」
ローリーが小さく呟く。ようやく弱音を吐いた。マシューはなるべくそっけない声を返した。
「もうつぶれてますよ。ぺしゃんこじゃないですか」
「どうすればいいか分からないんだ」
「俺がつぶれたらどうしますか」
ローリーは顔を上げて、数秒間考えに沈んだ。
「田舎に連れてって、休ませるかな」
意外にまともな内容でマシューは安心した。未来に連れて行くとか言われたらどうしようかと思った。
「じゃあ、そうなさって下さい」
「ああ、そうするよ」
その後、ローリーは大人しく田舎にひっこんだ。どんな休み方をしたのか知らないが、数ヵ月後、戻ってきた彼はとてつもなく元気になっていた。元気になったせいでウザさが五割増になった。マシューは少しだけ後悔した。