4.華麗なる初恋
それは、マシューたちが十五歳になったころの出来事である。生物学の新しい教師が教室に現れた。彼女は最近学校を卒業したばかりで、教師としては新米も新米、マシューたち生徒も大丈夫なのかと心配になってしまうほど、初々しい人だった。
彼女が生物学の担任となってから、生徒たちはやけにそわそわしていた。軍学校の教師の大半は現役の軍人であったから、マシューたちはいかめしい教師たちに勉強を教わることが当たり前になっていた。それがある日突然、年若い娘が教師として現れたものだから、年ごろの少年たちはすっかりのぼせ上がってしまったのだ。
ローリーは最初こそ彼女のことを珍しがっていたものの、すぐに興味を失ったようだった。彼は他の少年たちと違って女の子との交流に慣れていた。その身分のせいか、容姿のせいか、黙っていても彼の周りには世界中から美しく聡明な少女たちが集まってくる。はっきり言ってこの頃のローリーは親しくしているマシューから見ても、感じが悪かった。
ある日の昼休み、件の先生が教室に現れた。派手さはないが愛嬌のあるその顔には、怒りが滲んでいた。彼女は友人たちと談笑しているローリーのもとに近づいていって、彼の目の前に二枚の紙を掲げて見せた。それは先日受けたテストの、答案用紙だった。
その光景を見て、生徒たちは彼女が何に怒っているのか悟った。そしてローリーも、彼女が何を言いたいのか理解した。
「すみません先生。どうしても勉強が追いつかなくて、フィンの答案をこっそり写してしまったんです」
ローリーはちょっと困ったふうな笑顔を浮かべて、落ち着いた口調で言った。彼のその言葉を真に受ける者など、その場にはいなかった。フィンがローリーの答案を写すことはあれど、その逆はあり得ない。それでもローリーの口から出た言葉なら、嘘であろうと何であろうと、すべからく真実になる。
「これが初めてじゃないわね、ローリー。あなた、単位を落としそうな生徒に自分の答案をカンニングさせてるんでしょう。二人とも全く同じ解答で、バレないように工夫することすらしていない。人を馬鹿にするのもいい加減にしなさい」
「まさか。先生を馬鹿にするなんて、そんなことしません」
「いいえしてるわ。自分が泥をかぶれば誰もそれ以上追求できないと、分かってやっているんでしょう」
「それは大人の都合でしょう。先生たちの正義感が僕の肩にかかっているだなんて、思わせないで下さいね。追求したいならどうぞ、ご勝手に」
毒気のない、大抵の人間ならたじろいでしまうであろう完璧な微笑をたたえながら、ローリーは言った。しかし彼女は握っている答案用紙にぐしゃりとしわを寄せて、わなわなと震えていた。
「よく聞きなさい。あなたは親切心か、あるいは暇つぶしでこんなことをやっているのだろうけど、誰であろうと、学ぶ機会を奪う権利なんてないのよ。フィンはあなたのせいで成長する機会をひとつ失ったわ」
このときローリーは、自分の身分や容姿が、目の前の教師に通用していないと気づいたようだった。
「先生、これは別に、悪気があってやっていたことでは……」
「ローリー、あなたのやっていることは、泥棒と同じよ」
きっぱり言い切って、彼女は教室を去っていった。その背中を呆然と見送るローリーの瞳に何かが宿るのを、マシューは確かに、この目で見た。
この事件以来、ローリーは四六時中ぼんやりするようになった。話しかけてもうわの空。ときおり溜め息をついている。教科書どおりの、典型的な恋わずらいであった。
「最近、よく眠れないんだ」
寮の部屋に遊びに来たローリーが、ぽつりと呟いた。原因は明らかなので、マシューはへぇ、と適当に返事をして、すぐに目の前のボードに意識を戻した。ローリーは心ここにあらずといった様子で、ボードの上の駒を動かしながら言葉を続ける。
「寝ても覚めても、先生のことが頭から離れない」
眠れないんじゃないのか、という言葉はローリーの一手によって封じられた。意識が宙に浮いているくせに、なぜこうも鋭い手を打つのか。
「親にしか怒られたことないからだろ」
悔しかったので、そうなってしまった原因を言い当ててやる。ローリーは頬づえをついて、ぼうっと何かを考え込んでいる。
「嫌われたかなぁ」
か細い声でそんなことを呟くものだから、マシューはボードゲームに集中することをとうとう諦めた。
「ちゃんと謝ったら?」
「謝ったけど、でも、まだ怒ってるかも」
「じゃあ、好かれるようなことをすれば?」
「例えば?」
「例えば……」
なぜ女の子とほとんど話したこともないような自分が、ローリーにアドバイスしなければならないのか。マシューは一瞬疑問に思ったが、必死な顔でこちらを見つめてくる友人に、まんまとほだされてしまった。
「例えば、先生が喜ぶようなことをする、とか」
「先生のこと、よく知らないし、何に喜ぶのかも分からないし」
「先生は生物学の先生だろ」
「うん」
「じゃあ少なくとも、生物学は好きだよ」
「そうか。そうだね」
いい加減なアドバイスに、ローリーはえらく納得している。マシューは少し、調子に乗ってしまった。
「女の人は、おしゃべりが好きだよね。うわさ話とか」
「じゃあ、王家の秘密をこっそり教えてあげる?」
「それはやめた方がいいと思う」
腕を組んでうんうん唸っている友人を尻目に、マシューは次の一手を考える。どうやっても自分が負ける道しか残されていないことに絶望していると、ローリーが突然立ち上がった。
「帰る」
「え、何で?」
「先生とおしゃべりするために、生物学の勉強する」
ローリーの出した結論に、マシューは閉口する。何か違う。何か違うが、それを指摘すれば「何が違うの、どう違うの、じゃあどうすればいいの」と質問攻めにあうことは確実だったので、黙って友人の背中を見送った。
次の日、マシューが学校に行くと、ローリーが穴が開くほどの勢いで生物学の教科書を凝視していた。その鬼気迫る様子に、まさか今日は抜き打ちテストでもあるのかと生徒たちがざわめきはじめた。一日に一回は教師にやかましいと文句を言われる我がクラスの生徒たちは、その日、授業中も休憩時間も、厳かに勉学に励んでいた。そんな子どもたちの様子を見て教師たちにまで動揺が走った。まさか今日はテストがあると告知していたのに、自分はそのことをすっかり忘れてしまっているのではと、とある教師はマシューにこっそり尋ねてきた。
生物学の授業が始まると、ローリーはようやく教科書から顔を上げた。真面目な顔を取りつくろっているが、見るからに嬉しそうだ。
「このように、アケルナー国で発見された書物には、人体の仕組みが詳しく記されたものが多くあります。今日はその記録を参考に、目の構造を勉強します。85ページを開いてください」
やけに静かな生徒たちの様子に、先生は戸惑っていた。それでもひと通りの説明を終え、質問はありますか、と問いかけた。すかさず、ローリーが手を上げた。彼はキラキラした瞳で、意気揚々と疑問を口にした。
「視神経繊維が集まる視神経乳頭には視細胞がありませんよね。アケルナー国の記録どおり、網膜に光が届いて視細胞が刺激に応答しその信号が視覚神経を伝ってものを見ることができるなら、神経が通っている部分を僕たちはどうやって認識するのですか」
先生はしばらく呆気にとられたあと、慌てて居住まいを正した。
「そうね、それはとてもいい質問よ、ローリー」
そのときのローリーの嬉しそうな顔といったら。ほとんどの生徒たちはローリーが何を尋ねたのかも理解していなかったが、先生は落ち着いた態度で彼の問いに答えた。
「網膜がとらえた情報のほとんどは、大脳皮質に伝えられます。このとき、情報は記憶と照合されて、映像となります。あなたが疑問に思っている視細胞の穴は、いわゆる盲点と呼ばれるもので、私たちはその穴の部分を、記憶で補っているのよ」
ローリーは感嘆の声を上げる。
「へぇ、すごいですね。じゃあ、かん体細胞と錐体細胞の分布の偏りは、どうやって補うんですか? 錐体細胞がほとんどない位置では色が見分けられないのに、どうしてヒトの脳は記憶で補わないんですか?」
「それは……」
「先生は脳の可塑性をどのようにお考えですか? 目に入った情報が大脳皮質に伝えられるという確信は、どのような実験から得られたんですか?」
「そうね、それは……」
「そもそも人間の五感は本当に脳が支配しているんですか? 皮膚は脳を介さず色を認識しているという説もありますよね? これらが仮説の域を出ることは可能ですか? 先生なら分かりますよね。だって、生物学の先生なんだから」
輝かんばかりの笑顔でよこされた質問に、先生は窮した。生徒たちの視線が自分だけに注がれる空間で、彼女は長いこと視線を泳がせていた。
「それは、あの、それは……」
あ、まずい、とマシューが思った次の瞬間、先生の瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちた。二度、三度としずくがこぼれたあと、彼女は口元を抑えて教室を飛び出してしまった。
しん、と静まり返る教室。生徒たちの視線が、ゆっくりとローリーに集まる。非難の込められた彼らの視線によって、ローリーは自分のせいで先生が泣き出してしまったのだということを、悟ったようであった。
その日の放課後。ローリーはこの世の終わりかというほどに落ち込んでいた。
「なるべく長く話したかっただけなのに」
机に突っ伏してぼやくローリーに、同情する者はいなかった。あれはどう見ても、カンニングの件をとがめられたことに対する、手のこんだ報復であった。生徒たちのアイドルを泣かせてしまった罪は重い。そしてローリー自身も、その事実を重く受け止めていた。
次の日。ローリーは一通の手紙をマシューに見せてきた。
「先生に謝罪文を書いたんだ。王宮に保管されてる公文書なんかを参考にしてみたんだけど……」
「ローリー。気持ちは分かるけど、多分その手紙は嫌がらせの追撃だと受け取られると思う」
両親に署名までしてもらったと言うのだから、先生に対しては本当に、同情を禁じ得ない。ローリーは上質な素材の封筒をじっと見つめながら、思いつめたような声で言った。
「もう正直に、伝えようと思うんだ。先生と親しくなりたいって」
「手紙にそう書いたの?」
「うん。それでも許してもらえなかったら、諦めるよ」
そんな、一大決心をしたローリーにもたらされたのは、先生が学校を辞める、という突然の知らせであった。教室に現れた先生は、明日から自分は旅に出るのだと生徒たちに告げた。それから、彼女の宣言に呆然としているローリーに、視線を投げた。
「あなたのおかげよ、ローリー。私、今までは自分でも呆れるくらい、無難に生きてきた。知識さえあれば教師なんか簡単に務まると思って、適当に学んで、適当に遊んで暮らしてきた。でも昨日、あなたの質問で目が覚めたの。教師とは、ただ知識を伝えるだけの存在ではないってことに気づいたわ。なぜ? どうして? そんな生徒の疑問に、答えられなくてどうするのってね」
あんな質問に答えられなくても教師は十分に務まるだろうと生徒たちは思ったが、先生の決意は固かった。
「え、先生、学校辞めちゃうんですか?」
ようやく事態を飲み込んだローリーが、蚊の鳴くような声で尋ねた。先生は力強く頷いたあと、可愛らしい笑顔を見せた。
「修行の旅に出るわ。生物学という学問に、紙の上の文字だけでなく、直に触れて、もっと説得力のある教師になってみせる。ありがとう、ローリー。あなたのおかげで、人生の目標が見つかった」
ローリーは机の下で、封筒をくしゃりと握りしめた。それから、彼にしては珍しく、ぎこちない笑みを浮かべた。
「そうですか、頑張ってください……」
かくして軍学校は再び、いかめしい教師たちが支配する堅牢な基地となった。少年たちのオアシスを奪ったローリーが全校生徒から恨まれたことは、言うまでもない。