3.華麗なる遊戯
ある日、学校が終わったあとでマシューはなんとなく、ローリーを遊びに誘った。するとローリーは普段以上にキラキラとした笑顔でこう言った。
「だめだよマシュー。今日は弟で遊ばないといけないんだ」
マシューは最初は、自分が聞き間違えたか、もしくはローリーが言い間違えたのだと信じていた。
「え……ああ、弟と遊ぶの?」
「違うよ。弟で遊ぶんだ。マシューも来る?」
マシューは謎の責任感が発動して、ローリーとその弟の交流を自分が見張っていなければいけないような、そんな気になった。
ローリーは弟の部屋を訪れるなり、彼が宣言した通りさっそく弟で遊びはじめた。
「こんなに小さくても対象の永続性を理解してるんだよなぁ。ほら、見てよマシュー」
ローリーは弟のおもちゃに箱を被せて、それから弟の反応を注意深く観察している。マシューには彼が何をしたいのか理解できなかったししたくもなかったので、呼びかけを無視しておもちゃの山を物色した。パズルゲームに予想外に夢中になっていたとき、ローリーが感嘆の声を上げた。
「すごい! こっち来てよマシュー!」
マシューは子育てに疲れた母親のような気分でローリーのそばに歩み寄った。
「何?」
ローリーは大興奮で説明する。
六つの陶器のカップを逆さにして並べて、その中の一つにボールを隠しておく。それをぐるぐる床の上で回してカップの並びを変え、しばらく待っていると、彼の弟はボールが入っているカップに手を伸ばしたと言うのだ。
「嘘だー」
「本当だって! ほら、見てて!」
ローリーはカップの中にボールを隠し、素早く六つのカップの並びを変えた。マシューでも当てられるかどうか自信がなくなるほどの素早さだった。彼の弟はその様子を見ていなかった。床に座ったまま船をこいでいる。
「寝てるよ」
「何でだよーウィルー」
ローリーは床に頭を突っ伏して嘆いている。弟で遊んでいるというより弟に遊ばれている。
それ以来マシューはことあるごとに弟の話を聞かされた。ハイハイの習得が早いだのもうじき立ち上がるかもしれないだの初めて絵を描いただの寝言で二次関数を解いているように聞こえただの、学校でも放課後でもときには休日でさえわざわざ寮まで来て報告しに来た。
その被害はマシューだけに留まらなかった。別学年の生徒たちから学校の清掃員に至るまで、ローリーの顔を見ただけで彼らは素早く物陰に身を隠そうとした。それほどまでに彼は広報活動の場を広げていた。
「ウィルは大きくなったら、僕のことが嫌いになるかもしれないな」
授業と授業の間のわずかな休憩時間に、ローリーがぽつりと呟いた。マシューはできるだけ今の感情が伝わるような、うんざりとしているような声を出した。
「何でそう思うの」
次の授業は乗馬だ。急いで移動して着替えなければならない。というのにローリーは悠長に頬づえをついて、もの思いにふけっている。
「最近、議院たちが話してるんだ。将来どっちにつくべきかって。きっと大人になったら、僕とウィルで対立するんだよ。派閥争いってやつだ」
「派閥って何?」
マシューの質問をローリーは聞いていなかった。何かひらめいたのか、彼は突然立ち上がった。
「そうだよ。僕たち兄弟が仲良くできるのは今だけだ。今のうちにたくさん遊んどくべきだ」
「毎日遊んでるじゃん」
「違うよ。もっと本気で遊ぶんだよ」
ローリーはいたって真面目な顔をマシューに向けてきた。マシューはすごく嫌な予感がした。
放課後、マシューは王都の下町にいた。視線の先には意気揚々と乳母車を押すローリーの姿がある。
「やっぱり帰ろうよ。バレたら大変だよ」
「大丈夫だよ。変装してるから」
言っているそばから、ローリーは道ゆく人々の視線を集めている。とかく、彼はどんなに地味な服を着せても目立ってしまうのだ。
本気の遊びとやらを実行する気まんまんのローリーは、護衛の目を盗んで小さな弟を王宮の外に連れ出してしまった。露店のお菓子を買って、広場で食べて、そのあとかけっこをして遊びたいのだという。そうやって遊ぶのが今の流行りなのだと、使用人の子供に教えてもらったらしい。
かけっこも何も第二王子はまだ一人で立つこともままならないのに、どうするつもりなのか。まさかマシューが代わりに乳母車を押しながら走らなければならないのだろうか。学校の教師たちが恐れおののくほどに勉強ができるくせに、彼は時々とても馬鹿っぽい振る舞いをする。マシューはそれが不思議でならない。
「ちょっと休憩」
ローリーはなぜか、古びた八百屋に入っていった。何か目的があってその店を選んだのかと思ったら、本当に休憩したかっただけらしい。彼は店の端に積み上げられている木箱の一つに腰を降ろした。その場所は、むせ返るような果物の匂いに満ちていた。
「勝手にそんなとこ座ったら、お店の人が怒るかも」
「真面目だなぁマシューは。ちゃんと挨拶すれば怒られないよ。こんにちは、ここで休憩してもいいですか?」
すぐ近くで木箱を陳列棚に並べている店員に、ローリーは声をかけた。店員は声をかけられてようやく、子供が勝手に店に入り込んでいることに気づいた。彼はローリーの姿を見て、目を丸くした。
「あ、ああ。構わないけどよ……」
店員は何やら考え込んだあと、店の奥に引っ込んだ。そして彼の妻とおぼしき人を連れてきた。
彼女はローリーの姿を見て、ぽかんと呆けたようになった。
「あらまぁ、綺麗な子……」
「そうでしょ?」
ローリーは弟を褒められたのだと勘違いして、胸を張っている。
「あなたたち、どこの子? ここらじゃ見かけない顔だけど」
「僕たち、どこにでもいる普通の町の子供です。ね、マシュー」
そんな説明でごまかせると本気で思っているのか。案の定八百屋の夫婦はローリーのことを見ながらひそひそと話をしている。どこかで見たことがある、と言っているのが聞こえるが、当然だ。ローリーの姿絵は王立のあらゆる施設で目にすることができるのだから。
マシューが一人でひやひやしていると、乳母車で大人しく眠っていた小さな王子がぐずりだした。マシューはこっそりため息をついた。絶対にどこかのタイミングでぐずりだすに違いないと思っていたからだ。
「どうしたウィル。お腹空いた?」
ローリーは手近に置いてあったりんごを掴んで弟に食べさせようとしている。それは店の商品だし、王子はまだ歯が生えていないし、おまけに乳母車の中に向かってウィルと呼びかけてしまったせいで夫婦はローリーの正体に気づきつつあるが、当の本人は全く気にしていない。冷や汗をかいているのはマシューだけだ。
「どうしたのかな。店が薄暗いせい? それとも空気が悪いのかな」
勝手に中に入って居座っておいてそりゃないだろ、とマシューは思ったが夫婦が気を悪くしている様子はない。彼らはローリーの正体に完璧に気づいてしまった。
乳母車を押して店の外に移動しているローリーの後ろを、夫婦が恐る恐るついていく。
「あ、あの、あなたはもしや、王太子殿下では……」
「違うよ。普通の町の子供だもん。ね、マシュー」
夫婦がすがるような視線をマシューに向けてくる。是と言ってほしいのか否と言ってほしいのか分からないが、パニックを避けるためには否と言い続けるしかないだろう。
どうやってごまかそうかとマシューが悩んでいると、王子がいっそう激しく泣き出した。そのおかげで、夫婦の視線がマシューから逸れた。
「おむつを替えてほしいんじゃないかしら」
「替えたばっかりだよ」
「じゃあやっぱり、腹が減ってるのか」
マシューはちょっと心配になってきた。王子の泣き方が尋常ではない。道端で話し込んでいた町人たちや、店の中にいた客たちまで王子の周りに集まってくるほどの泣きっぷりだ。
「困ったなぁ。マシュー、僕ら、もう帰ったほうがいいかな」
さっきからずっとそう言ってるじゃないか、とマシューが文句を言おうとしたとき。少し離れた場所から激しい馬のいななきが聞こえてきた。
マシューが音のした方を振り返ってからの出来事はあっという間だった。
無人の馬車を引く馬が、暴走していた。二頭の馬は八百屋の店先で急停止したが、馬車はそうはいかず、横滑りして店の中に突っ込んだ。店の中に積み上げられていた木箱が勢いよく崩れていく様を、王子の乳母車の周りに集まっていた人々は呆気にとられて眺めていた。
最後の木箱が床に落ちるのを見届けたあと、マシューはゆっくりと首を回して、ローリーと目を合わせた。それから二人同時に、乳母車の中を見た。先程まで散々に泣きじゃくっていた王子はぴたりと泣き止んでいる。彼は親指をくわえて、静かに眠っていた。
「すごいね、ウィル。僕らを助けてくれたの?」
ローリーが興奮気味に弟に話しかけている様子を見ながら、マシューは早く帰りたいなぁと、切実に願った。