119.勇気を出して
王宮の救護室で、シェリルはむくれていた。右腕は三角巾でがっちり固定されている。
「これ、ずっと着けてなきゃいけないの?」
ベッドに腰かけたまま右腕をわずかに持ち上げ、正面に立っている衛生隊のロイドに尋ねる。ロイドはあからさまに面倒くさそうな表情を浮かべながら首を縦に振った。
「そうだよ。最低三週間はそのままにしといて」
「冗談でしょ? 体が固まっちゃう」
「いや、固めたいんだって。あんまり動かすなよ」
「利き手なのに無理よ。それにこの布、格好悪い」
「言っとくけど、肩の脱臼は癖になるからな。ちゃんと治さないとまた簡単に外れるぞ」
それだけ言い残し、ロイドは別の患者の所へ行ってしまった。
ダミアンに無理やり救護室に送り込まれ、安静にすることを余儀なくされたシェリルは今、とても機嫌が悪い。
今回、スプリング家の中で大きな怪我をしたのはシェリルだけだった。シェリルより年下の子供たちは擦り傷をいくつか作っただけで、カルロと双子はもちろん無傷である。
自分だけ大げさな布を巻かれて、決まりが悪い。第一こんな格好悪い姿はジェイミーに見せられない。
もうこんなもの取ってしまおう。そう思い立ち三角巾をはずそうとしていると、救護室にアメリアが現れた。アメリアはシェリルの姿を見て、ぎょっと目を見開く。
「ちょっとシェリル! やめなさい!」
「平気よ。動かさなきゃいいんでしょ」
「怪我は長引けば長引くほどお金がかかるのよ。私たち今、包帯すら買えないんだから、死ぬ気で治しなさい。最短で!」
あまりの気迫に気圧され、シェリルはゆっくりと三角巾を元の位置に戻した。アメリアは満足げに頷きながら、シェリルの隣に腰かける。
「私たちこれからどこに行くの?」
シェリルの問いに、アメリアは肩をすくめる。
「さぁね。また雇ってくれる国を探すんでしょ。今度はもっと涼しい所に住みたいわよね」
「アンタレス国は十分涼しいのに」
「でも力不足よ。国を守ることに気をとられて、本来の目的を忘れてしまったら意味ないじゃない」
スプリング家は、生きる希望を持てなくなった子供たちを救うために存在している。かつては目的を見失い金儲けに走った時代もあったらしいが、カルロは本気で、スプリング家のあるべき姿を取り戻そうとしている。
シェリルはそんな組織の一員であることに誇りを持っている。それでも、この国を離れることはやっぱり悲しかった。ジェイミーと離ればなれになるのは、もっと悲しい。いつか留まるべき国を見つけて、身辺が落ち着いたら、また会えるだろうか。ジェイミーはそれまで自分のことを覚えていてくれるだろうかと、シェリルは少し感傷的な気分になった。
「あのねぇ、シェリル。カルロさんからあなたに、伝言があるの」
「伝言?」
アメリアの表情は心なしか曇っている。その様子に、シェリルは胸騒ぎを覚えた。
カルロの伝言は全て、ジェイミーに関するものだった。
ジェイミーときちんと、顔を会わせてお別れをすること。世話になった礼をちゃんと言うこと。それから、また会いに来るなんて、いい加減なことは絶対に言わないこと。
最後の一つが気にかかり、シェリルは眉をひそめる。
「どうしてまた会いに来るって言っちゃいけないの?」
文句を言われると分かっていたのか、アメリアはまるで準備していたみたいによどみなくシェリルの疑問に答えた。
「だってジェイミー君って見るからに、人が良さそうだし」
「良さそうじゃなくて、良いのよ。実際に」
「だからあなたが言うことは全部、本気にするわよ。また会いに来るなんて言ったら、本当に待っててくれるかもしれないわ」
「それのどこがいけないの?」
頭上に疑問符を浮かべるシェリルを見て、アメリアは嘆かわしいとでも言いたげな顔つきになった。
「ジェイミー君にはジェイミー君の人生があるの。本当にまた会えるかも分からないのに、何年も時間を無駄にさせるわけにいかないでしょ?」
シェリルはますます首を傾げ、疑問符の数を増やした。
「どうして私を待つことが、時間を無駄にすることになるの?」
「なるのよ。どうしても。子供みたいに質問攻めにしないで」
「だって本当に分からないもの。私、ジェイミーの時間を無駄にさせたりしない」
もう何もかも、全て終わったのだ。ジェイミーに関して、これ以上口出しされる筋合いはない。そう言おうとしたとき、アメリアがいつにない真剣な顔を向けてきた。
「よく聞きなさいシェリル。私たち、カルロさんに拾われなきゃ今ごろ、全員死んでたわ。だから何があってもあの人についていくの。でもジェイミー君にはそんなこと、関係ないでしょ。私たちの暮らしに付き合わせる権利はない。生き方を棲み分けるべきで、それがお互いのためになるの。どんなに頑張っても報われないことも、叶わないこともあるって、そろそろ理解できてもいい頃よ」
いつも陽気なアメリアが今にも泣き出しそうな顔をしているので、シェリルはそれ以上反抗することが出来なかった。
彼女も何か、大切なものを諦めた経験があるのかもしれない。そう思うと、自分だけ勝手をするなんて、恥ずかしいことのような気がした。今の暮らしとジェイミーと、両方を選ぼうとするなんて、自分本意なわがままなのだろうか。
「わかった……」
長い沈黙のあと、小さく呟く。アメリアは何も言わずシェリルのことを抱きしめた。アメリアの腕のなかはとても暖かくて、シェリルは思わず泣いてしまいそうになった。
◇◇◇
舞踏会場は、たくさんの人でごった返していた。部屋のすみにはなぜかご馳走が並んでいるし、もうパーティーをやっていると言われても違和感はない状態である。
「一人で平気?」
アメリアが心配そうに顔を覗き込んでくる。シェリルは無理やりに笑顔を作り、頷いた。
「もちろん。大丈夫」
「じゃあ私、ダミアンを手伝ってくるから」
「わかった」
アメリアと別れたあと、ぐるりと周囲を見渡す。たくさんの人があふれている状況でも、シェリルにはこの部屋で何が起こっているのかがよく見えていた。
騎士隊は人質となっていた使用人の、人数や怪我の有無を確認しているようだ。いつの間にか部屋の一角には食料や飲み水が用意されていて、それをダミアンが一人でせっせと運び出している。ローリーとウィルは、二人で難しい顔をしながら話し込んでいる。
ジェイミーは、カルロと一緒にいた。こちらの二人も真剣な顔で話をしている。さすがに話の内容は聞こえないが、軽い冗談を言い合っているという雰囲気ではない。
シェリルはとっさに足を止めた。話しかけるのに心の準備が必要だった。遠くからジェイミーを見つめながら、なんとか勇気をかき集める。
初めて彼の姿を見たのも、この場所だった。まさか別れが惜しくなるほど好きになってしまうなんて、あのときは想像もしていなかった。
感慨深く思いを巡らせていたシェリルは、突然、妙な感覚にとらわれた。
これだけたくさんの人が部屋の中にいるというのに、なぜジェイミーにだけ、こんなに惹かれてしまうのだろう。どうしてあの人だけがこんなに特別で、どうしてあんなに素敵に見えるのだろう。
考えれば考えるほど不思議だった。髪の毛の一本一本から指の先に至るまで、その全てを愛しいと思える人に、出会ったのだ。こんな体験を誰もがするのだろうか。巡る季節のように、振り切ってもまた必ず、訪れるのだろうか。
本当に、無かったことにしていいのだろうか。この気持ちはもしかして、絶対に手放してはいけないものではないのか。だってジェイミーはこの世に一人しかいないのだ。あのきれいな瞳に、見つめられたいと思う。あの大きな手で、抱き寄せて欲しい。他の誰かじゃなくて、どうしてもあの人がいい。
ある考えが、勢いよく胸の中に押し寄せてきた。
カルロもアメリアも、間違っている。このまま一生会わないことがジェイミーのためになるなんて、間違っている。それはジェイミーが自分で決めることで、彼が自分で判断すべきことだ。
シェリルは床に張りついていた足を、ゆっくり踏み出した。
もしかしたら、会うのはこれきりにしたいとジェイミーの口から直接聞くことになってしまうかもしれない。そうしたらきっと、辛いだろう。
ジェイミーとの距離が近くなるにつれ、少しずつ不安が大きくなっていく。同時に、床を踏みしめる足の先からじわじわと、勇気が湧いてくる。
叶わないからといって、諦めてやる必要がどこにある。報われないというのは、この気持ちを失う理由にはならない。
母は言った。自分はかけがえのない人に出会って、その人に愛されるはずだったのだと。彼女が果たせなかった人生のあれこれを、シェリルは全て受け継いだ。あの日から人生は上向き。字の書き方も、靴のはき方も覚えた。メイドとして雇われるまでになった。母の幸せとはこんなものだろうか。そんなわけがない。もっと素晴らしいことが、この先に待っているはずだ。きっとそうだ。