111.英雄とその弟の選択
格子を隔てた向こう側に、意識を手放した衛兵たちが転がっている。王宮を囲む頑丈な塀を見上げながら、騎士隊一同は大きなため息をついた。
「誰だよこんなもん発明したやつ。どうやったって中に入れねぇじゃねぇか」
入り口を塞いでいる落とし格子を蹴りながら、ニックは苦々しくぼやいた。その隣でスティーブが皮肉っぽく鼻をならす。
「敵を阻むための仕掛けも使う人間を選ぶってことだ。まんまと締め出されたな」
「いやお前も締め出されてるから。おーい! 起きろ! いつまで寝てんだ!」
ニックは格子を両手で叩きながら、塀の向こうでいびきをかいている衛兵たちに呼びかける。彼らは眠り薬でも嗅がされたのか、両手両足を縛られた状態で大変に安らかな寝顔を披露していた。
「塀を越えるしかないか……」
恐ろしいことを呟く副隊長に騎士たちはぎょっとした顔を向ける。
「塀を登りきったとき必ず無防備になります。もし敵が近くに隠れていたら、その瞬間を狙って弓か銃で攻撃されますよ」
「しかし、そうするしか無いだろう」
「副隊長。陛下に甘やかされて育った俺たちが、命をかけるなんてそんな勇敢なこと出来るわけないでしょう」
「まぁ、確かに……」
部下の説得に副隊長はあっさり納得してしまった。およそ騎士とは思えない会話である。
だが実際、塀を越えることは大変危険であった。そして臣下が危険を冒したり怪我したりすることを、ローリーは酷く嫌がる。その意を汲んだ者たちが元気にすくすく育った結果が、現在の騎士隊であるから仕方ない。
ニックは何かを思案したあと、ポンと手のひらを打った。
「それじゃあ、ジェイミーを犠牲にしよう。おいジェイミー、塀を登って向こうの様子見てこいよ。あれ、ジェイミー?」
いくら辺りを見回しても生け贄が見つからない。ニックは愕然とし、それから憤った。
「くそ、あいつ一人で逃げやがったな!」
「逃げたっていうか、置いてきたことに気付かなかったんだろう」
スティーブの冷静な指摘にニックは唇を噛む。それから空高くそびえる塀を睨み付けたあと、肩を落とした。
「よし、わかった……。仮にも俺たちはエリートだ。力を合わせればこんな塀どうってことない。誰でもいいから何かエリートっぽい案を出してみろ」
ニックに促されて、隊員たちはしばし考え込む。
「地面を掘る」
「格子をやすりで削る」
「闘技場のウルフを呼んでなんとかしてもらう」
「本気か?」
緊急事態に弱すぎる仲間たちを前に、ニックは呆れ返った。こういうときは隊長に活を入れてもらわないと、騎士隊は本領を発揮できない。しかし今、頼りの隊長はいない。
隊長の右腕である副隊長は、スティーブを呼びつけた。
「火薬を使えば壊せると思うか?」
「側に衛兵が倒れていますから、危険です」
「そうか。やはり団長の指示を待つしかないなぁ」
王宮が封鎖されていることを報告するべく本部に走った騎士が、帰ってくるのを待つしかない。副隊長の言葉に全員納得し、王宮に入ることを一旦諦めた。
王宮にはウィルがいる。だからローリーに危険が迫る可能性は低い。
そう考えてどこか悠長に構えている騎士たちの中で、ニックは一人、焦っていた。
何人もの護衛に守られている王族はそう簡単に傷つけられたりしないだろう。だが使用人は違う。何百人といる使用人全員が、安全であるとは限らない。
仲間たちが自分と同じような危機を感じていないことに、ニックは少々苛立った。皆悪い奴らではないが、やはり高貴な血が第一で、庶民の安全は二の次の上流階級なのだ。
一人でイライラと爪を噛みながら、何とかして中に入れないものかと頭を働かせる。幼馴染みのアニーが怪我をしたときのことを思い出して、不安がつのった。
そのとき、焦燥に駆られるニックの肩を誰かが叩いた。
「おい、顔色悪いぞ。大丈夫か」
声の主はどうやらジェイミーである。ニックはここぞとばかりに苛立ちをぶつけておくことにした。
「ジェイミー! お前どこに隠れてた!」
「隠れてないよ。何怒ってんだ」
眉尻を下げる親友の姿を見ると、妙な安心感があった。それが無性に腹立たしかったので反射的にジェイミーの頭をはたく。
ジェイミーは「痛い」と情けない声を出したあと、頭をさすりながら副隊長の側に歩み寄った。
「副隊長、裏門が開いています。今なら中に入れますよ」
「そんなはずはない。さっき確認したが閉まっていた」
「いえ、今は開いているんです。事情は後で説明しますから、今すぐ中に入って隊長を止めましょう。これ以上あの人が間違いを犯す前に」
副隊長は思いきり顔をしかめる。
「まだ隊長の仕業と決まったわけではないだろう」
「隊長には助けが必要なんです。そのことに気づけなかった責任を、俺たちが取らないと。今ならきっと間に合います」
事情を飲み込めていない騎士たちは、お互いに当惑しきった顔を見合わせた。
◇◇◇
側近の報告に、ローリーは硬い表情で黙り込んでいた。
「本当にアーノルドなのか……?」
ようやく出てきた言葉は、明らかな動揺を含んでいる。
一緒に話を聞いていたウィルも、隊長が謀反を起こし使用人を人質にとっているなんて話はとても信じられなかった。
ウィルとローリーは現在、王宮の中にある美術館の、美術品の影に隠れている。美術品の盗難を防止するため、この場所にはいくつかの仕掛けがある。そのことを知っているアーノルドはこの部屋には近付かないだろうと、護衛たちは考えたのだ。
緊急事態だと言って問答無用で自室から連れ出されたウィルとローリーは、彫像と彫像の間で、それぞれに渋い表情を浮かべていた。
「隊長はどうしてこんなことを……」
復讐、という言葉がウィルの頭をよぎる。
民兵として戦場に送り込まれたことで、隊長はずっと、アンタレス国を恨んでいたのだろうか。
「バート・コールソンの姿を見たとの報告がありました。恐らくキャンベルとシャウラ国は、共謀しているのでしょう」
側近の言葉に、ローリーは表情を歪める。
「シャウラ国か……。王宮を制圧すればアンタレス国を手に入れられるとでも、思っているのか」
「陛下の首と引き換えに使用人を解放すると。直接本人にそう伝えるよう、キャンベルが我々に要求してきました」
その要求は絶対、本人に伝えるべきではなかったとウィルは思った。
隊長はよく理解している。自分がローリーにとってどんな存在なのか。そして生死を分ける選択を、ローリーが極度に恐れていることも。
側近は真剣な表情で、こう続けた。
「裏門は見張りが手薄になっています。我々が援護しますので、お二人は一刻も早く王宮を脱出して下さい」
「見張りが手薄というのは、罠だろう。そうでなくても外に出たことに感づかれた時点で人質が殺されるかもしれない。私たちだけ逃げることはできない」
ローリーの口調は心なしか尖っている。側近の思惑を察したのだ。護衛たちは気まずい空気を醸し出しつつも、毅然とした態度を貫いた。
「陛下、あなたの身に何かあれば、いずれ国民の安全は脅かされるでしょう」
「よせ、そんな話は聞き飽きた」
「わずかな犠牲を払うことで数えきれない命が救われます。お願いします陛下。我々の使命は王家の血を途絶えさせないこと――」
「やめろと言っているだろう!」
ローリーの怒声によって護衛たちは一瞬で静かになる。怯んだと言うより、驚いたのだ。
無理もない。兄が怒鳴っているところなんて、弟のウィルでさえ一度も見たことがなかったのだから。
これは恐らく相当動揺している。そう察したウィルは、行儀よく口をつぐんでいる護衛たちの代わりに声を上げた。
「兄上、ここで議論していても仕方ありません。外に出て国軍と合流し、人質を救う最良の方法を考えましょう」
ウィルの提案にローリーは苦笑する。
「そんな子供騙しで私を説得するのか。一度脱出すれば二度とチャンスは無い。分かっているだろう」
「では要求を飲むのですか。自分の首を切り落とせと、誰に命じるおつもりですか?」
わずかにたじろいだローリーは、冷静さを手放さないようにするためか数秒間言葉を返さなかった。
護衛たちはその隙に、主君に意見する勇気を取り戻す。
「命を狙われているのは陛下だけではありません。王族はみな狙われています。陛下が逃げて下さらないと、誰も王宮を離れることが出来ません」
家族をだしにすることを試みた側近だったが、ローリーには相手にされなかった。
「敵の数はそう多くはないんだろう。お前たちとウィルが側についていれば、王家を守りきることは出来るはずだ。私はアーノルドと会って話をつけよう。心配ない。誰も傷つかず済む方法はきっとある」
ローリーの案は、酷くウィルの癇にさわるものであった。どさくさに紛れて厄介払いとは、いつまで子供扱いすれば気がすむのか。頭に血が上るままに声を荒げようとしたが、一瞬早く護衛たちにその機会を奪われる。
「陛下! 奴らは銃を持って、あなたを待ち構えているんですよ。顔を見せた瞬間撃たれてしまいます!」
「距離があれば正確には狙えないだろう」
「狙いが外れる保証はありません。危険すぎます」
取り囲まれ、大反対されても、ローリーは頑として説得に応じなかった。
立派な決心だと、多くの者は言うだろう。自らの命を危険にさらして人質を救おうとするなんて、さすが、国王陛下だと。
しかしウィルはそんな兄を、駄々をこねている子供のようだと思った。不思議と分かったのだ。この人は今、恐ろしい事から必死で逃げようとしている。今だけじゃない。十数年間、ずっと逃げ続けている。
兄のことを理解できる日は一生来ないだろうと、ウィルは今までそう思っていた。人間の言葉を完全に理解することが出来ない犬や猫になったような、そんな気分になることがままあった。
しかし本当はとても近いところにいるのかもしれない。近すぎてよく見えなかっただけだ。
民兵たちの死に長年苦しめられていることは知っている。二度と同じ思いをしたくないから、誰にも頼れないのだということも知っている。誰よりも知っているから、口を出せなかった。でももう、過去を言い訳には出来ない。
今回の出来事は、ローリーが一人で国を守ろうとしたせいで起こった。全て一人でコントロールしようとしたから、たったひとつの弱点が致命傷になってしまった。積極的に国軍を育てようとしていれば、あるいは防げたことかもしれない。
「いい加減にして下さい、兄上」
自分でも驚くほどに低い声が出た。ローリーはわずかに目を見開いたが、すぐに綺麗な笑顔を浮かべ弟を上手くあしらおうとした。
「そう怖い顔をするな。お前は深刻に考えすぎる癖がある」
「兄上、国王は英雄にはなれないんですよ。善人は国を守れないんです」
小さい子供の渾身のアイディアを聞かされたときのように、ローリーは困った顔になる。
「お前にはまだ分からないんだ」
「何がですか? 罪のない人々が大勢亡くなったのは自分のせいだと思い続けることが、どういうことか?」
護衛や側近が、わずかにうろたえるのが分かった。しかしウィルは構わず言葉を続ける。
「民兵を犠牲にして生き延びたのは、この国の全ての人々です。でも誰も自分のせいだなんて思わない。仕方ないでしょう。選択したのは自分以外の誰かだと思って、疑わないから。だから国王は英雄にはなれないんです。命の選択さえしなければならない人間は、どちらを選んでも必ず、罪のない人々を見捨てることになる」
ローリーの顔から、少しずつ笑顔が消えていく。
「何が言いたい?」
「見捨てるべきだと言っているんです、人質を。使用人は兄上の代わりに、この国を守ってはくれません」
自分でもはっきりと分かるほど声が震えていた。残酷な人間だと、誰かに非難されることが恐ろしかった。それでもウィルはこの選択が最善だと信じていた。国のため。それだけを考えれば、兄の命を選ぶしかない。
十五年前、民兵の死を知らされたあのときのように、ローリーは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「そんなことは出来ない。あんな思いはもう、たくさんだ」
「今度は僕が背負います。もう何も出来ない子供じゃない。知っているでしょう」
ローリーはしばらく首を縦にも横にも振らなかった。沈黙に、弟の決心を揺るがす力があると思ったのかもしれない。しかしそんな瞬間は、とうとう訪れなかった。