109.芽吹きの季節
ジェイミーとスティーブの報告を受けた騎士隊の面々がどんな反応をしたかといえば、それはもう緊張感のかけらもないものであった。
隊長が団長を襲うなんて、あり得ない。
そう言って笑っている同僚たちのことを、ジェイミーとスティーブは咎めることが出来なかった。自分たちもつい先程まで同じ風に考えていたし、未だに団長の言葉が信じられないからだ。
それでも皆、出来るだけ素早く王宮に向かうことにした。副隊長は滅多に怒らない人だが、万が一キレたりしたらそれはそれは恐ろしいのである。彼の命令には機敏に従わなければならない。
王宮に向かうべく騎士隊の仲間たちと本部の廊下を急いでいたジェイミーは、誰かに呼び止められたような気がしてふと足を止めた。
他の隊員たちはジェイミーが立ち止まったことなどお構いなしに先を急ぐ。一人で首をひねっている間に、全員ジェイミーを追い越して行ってしまった。
気のせいか。
そう納得して仲間の後を追おうとしたとき、再び誰かの声に足の動きを遮られた。
それからコンコンとガラスを叩くような音が聞こえてきたので、まさかと思いながら廊下の窓に視線を移す。窓の外は真っ暗だが、ぼんやりと人影が見えた。何度瞬きをしても、その人影はシェリルのように見えた。彼女はなぜか王宮のお仕着せを身に付けていて、それはそれはいい笑顔でこちらに手を振っている。
ジェイミーはその場に立ち尽くし、嘆息した。
とうとうシェリルの幻影が見えるようになってしまったようだ。未練がましいという程度の話ではない。早急に医者に相談すべき事態である。
しかも、なんでメイド服。仕えてほしい的な願望の現れなのか。もしそうだとしたら本気で笑えない。
医者に診てもらおう。遠くの町の医者に診てもらおう。こんなことニックに知られたら、軍で飼っている鶏にまで面白おかしく言いふらされてしまう。
ジェイミーは色々とショックを受けながらも、悲しいかな、シェリルの幻影に歩み寄り窓を開けた。やけにリアルな幻影はひょいっと窓枠をくぐり抜け、ジェイミーの正面に降り立つ。それから満面の笑みを浮かべて、エプロンのポケットから首飾りを取り出した。
「突然ごめんなさい。これ、カルロさんが返してくれたの。どうしても直接渡したくて。もう二度と盗んだりしないわ、約束する」
驚くことに、幻影はジェイミーの手を掴んだ。そしてその手にさそりの心臓を握らせた。
手のひらの上でキラキラ輝くダイヤモンドを眺めたあと、負けず劣らず眩い笑顔を向けてくるシェリルに視線を移す。
二つを交互に見比べたジェイミーは、首飾りまでもが幻ということはないよな、と冷静になって考える。別に、ダイヤモンドに想いを寄せているわけではないのだから。ということはこれは紛れもなく実物の首飾りだ。ということは、目の前にいるシェリルも本物だろうか。
ジェイミーはようやく、目の前に佇んでいるのは本物のシェリルであると理解した。
「それはわざわざ、ありがとう……」
驚きすぎて感情が追い付かず、何ともそっけない言葉を返してしまった。
反応が薄かったせいか、シェリルは少ししょんぼりとした顔つきになる。
「私の言うことなんて信用出来ないわよね。でも、本当よ。もう迷惑はかけないって約束するわ」
「ああ、いや、疑ってないよ」
「いいのよ。今さら何をしても遅いって分かってる。あなたの人生は首飾りを返したところで元には戻らないもの」
自分の言葉に落ち込んでしまったらしく、シェリルはますます表情を暗くした。
一方、やっとのことで状況を飲み込んだジェイミーは密かに苦笑していた。落ち込むシェリルと反比例するように、ここ最近鉛のように重くなっていた胸の内が、いとも簡単に軽くなっていくのを自覚したからだ。
思い返せば、こんなことを何度も繰り返してきた。
自分のために一喜一憂するシェリルを見て、表面では気にするなと言いながらいつも嬉しく思っていた。
これは多分、木の実に水を与えれば芽が出るのと同じ原理だろう。
落ち込んでいる姿さえも愛しいと思うことも、その姿を自分だけのものにしたいと思うことも。
若木が根をおろすように想いはどんどん深くなる。焦ったところで、彼女に惹かれる気持ちだけハサミで切り取るなんて都合のいいことは自分には出来ないらしい。
だからそろそろ、諦めるべきかもしれない。
好意を自覚した矢先に突然目の前からいなくなったり。これ以上好きにならないようにと突き放せば、こうやってひょっこり戻ってきたり。
そんな風に気持ちを振り回されて苦しくなっても、この想いを捨てることなど出来ないと、認めるべきかもしれない。
「何なら、また盗んでもいいよ」
冗談まじりに告げれば、シェリルはむっと口をとがらせた。
「だから、もう盗まないってば……」
むきになる様子が可愛くて、思わず笑みがこぼれた。シェリルは笑われたことでますます腹を立てていたが、ジェイミーは構うことなくその体を抱き締めた。
口にしかけていた文句を飲み込んだシェリルは、いつかのように腕の中ですっかり大人しくなった。
「降参する」
ジェイミーの言葉に、シェリルは困惑している。
「降参するって、何が?」
「どれだけ迷惑かけてもいいから、また振り回してくれ。じゃないと退屈で死にそうだ」
「無茶言わないで。この間は振り回されるのにうんざりしてるって言ってたのに」
「だから降参する。俺がこんな風になったのはシェリルのせいなんだから、責任とってよ」
滅茶苦茶なことを言っている自覚はあった。シェリルの表情を窺うと、案の定わけが分からないというような顔をしている。
「あの、ジェイミー。私もう行かないと」
言いながら体を押し返してくるので、無意識に腕に力が入った。困り果てているシェリルの頬に手を添えて、まっすぐに瞳を覗き込む。
「また会える?」
無理だと言われたら本当に命が尽きるかもしれない。ジェイミーは真面目にそう思った。必死さが顔に出ていたのだろう。シェリルは視線を泳がせてうろたえている。
「そうね、あの、行かないとっていうのは王宮に行かないとって意味だから、会おうと思えば会えるかもね。もちろん本部とは少し距離があるから、もしジェイミーが移動が面倒だと思うならもう会えない可能性もあるかもしれないけどでも……」
「ちょっと待った」
ジェイミーはシェリルの両肩をつかみ一旦距離をとった。シェリルはきょとんと目を丸くして、二度ほど瞬きする。
「どうしたの?」
「シェリル、そういえばお前、何でここにいるんだ」
今さらながらジェイミーはこの状況のおかしさに思い至り我に返った。
シェリルが軍の本部を去ってから、一ヵ月と経っていない。というのに、カルロに首飾りを返して貰ったとはどういうことか。たとえ鳥の背に乗って海を渡ったとしてもアケルナー国まで行って戻ってくるのは不可能だ。
おまけにこれから王宮に向かうと言う。国軍が右往左往している最中に。
まさか首飾りを返しに来たのは何かのついでか。何か別の目的があって戻ってきたのだろうか。
どんどん現実に引き戻されていくジェイミーをよそに、シェリルはなぜか、恥ずかしそうに頬を染めていた。
「ねぇジェイミー。さっき言ってたこと、本当?」
「へ? 何が?」
「振り回して欲しいって、本当?」
「ああ、あの、それは……」
「また私に会いたい?」
可愛らしい質問に、ジェイミーは全身の力が抜けてしまいそうになった。
弄ばれている。手のひらの上で転がされてしまっている。本当に責任をとって欲しい。自ら面倒に首を突っ込もうとするなんて、どうかしている。
もうどうにでもしてくれという思いで、ジェイミーは頷いた。するとシェリルは瞳を輝かせ、それから不敵な笑みを浮かべた。
「カルロさんには言っちゃ駄目って言われてるんだけど、でも、ジェイミーになら特別に教えてあげる」
何を教えてくれるつもりなのか全く予想がつかないが、きっととんでもないことだろう。嫌な予感はするが、得意げに笑っているシェリルを見ていたらたとえ天地がひっくり返っても構わないと思えてしまう。自分は間違いなくどうかしてしまっていると、ジェイミーはしみじみと痛感した。