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107.彼の望み

 権威とは、便利なものだ。


 例えば軍服を着て町を歩けば、道行く人々は尊敬や畏れといった感情を無条件でこちらに向けてくる。例えば騎士の証である赤い徽章(きしょう)をちらつかせれば、子供は瞳を輝かせ、女は頬を染め、男は居心地悪そうに背中を丸める。


 アーノルドにとって、権威は仮面だった。そして役目を全うするための踏み台でしかなかった。


 全てはシャウラ国を統べるあの方のために。アンタレス国にはあの方こそふさわしい。誰も彼もがローリーを賞賛しようとするこの国で、ずっと本当の気持ちを隠してきた。




「やぁアーノルド。また明日」


 本部の廊下を進んでいる最中声をかけられ、アーノルドはいつも通りに挨拶を返した。そしていつも通りに、心の中で悪態をついた。


 どいつもこいつも、平和に慣れきった生ぬるい人間ばかりでへどが出る。いまに目が覚める。この世はシャウラ国が支配するべきなのだということを、思い知るだろう。


 アンタレス国には正しい指導者が必要だ。ローリーがこの国を統治していることは間違っている。間違いは正さなければならない。


 一歩踏み出す度に、気分が高揚した。もう偽物の国王であるローリーを、陛下と呼び敬うことをしなくてもいいのだ。


 シャウラ国こそ、我が祖国であり、シャウラ国こそが世界の中心である。何千回何万回と密かに唱え続けた言葉を、そっと呟く。この気持ちに嘘はない。きっとそうだ。きっと、そうなのだ。


◇◇◇


「失敗したなぁ」


 ニックのこれ見よがしな呟きによって、ジェイミーは我に返った。


 手元の書類から視線を上げれば、虚ろな顔でソファーに寝そべっているニックの姿がある。執務室の蝋燭にはいつの間にか明かりが灯っていた。日が落ちていることに全く気付いていなかったジェイミーは慌てて時計を確認した。


「失敗したって、何が?」


 時間を確認したあと、とりあえず、不機嫌であることが一目で分かるニックに声をかける。ニックは大げさにため息をついたあと、やけに勿体ぶりながら上半身を起こした。


「お前の監視なんか引き受けるんじゃなかった」

「何を今さら。暇なら帰れよ。副隊長には上手いこと言っとくから」

「暇どころか、俺は今飢えに苦しんでる。お前は失恋する度に食を疎かにしないと気がすまないのか?」


 そういえば、とジェイミーは今日一日の己の行動を思い返した。ものを口にした記憶が全くない。


「悪い。忘れてた」

「忘れてただと? 俺が隊長の非常食の隠し場所を知らなかったらどうなってたと思う? 今ごろ執務室には一体の屍が転がっていた。お前はニック・ボールズという貴重な人材を飢えさせた罪で絞首刑だ」

「だから悪かったって」


 何度謝ってもニックの怒りは治まらない。

 ジェイミーは仕方なく、まだ仕上がっていない仕事を一旦切り上げることにした。


 最近のジェイミーは、端から見れば朝から晩までバリバリ働いているように見えていることだろう。しかし実際は真剣な顔をしながら上の空でぼーっとしていた。

 集中できない理由は考えるまでもない。四六時中シェリルのことを考えている自分に、ジェイミーはもうずいぶんと嫌気がさしている。




「そもそもお前を監視するってことは、処罰の巻き添えをくってるのと同じことだろ? 俺はお前が罪を犯すのを防ごうとしたんだぞ? それなのにいつまでもうじうじ落ち込んでるうじ虫みたいなジェイミーと四六時中一緒にいなきゃならないなんておかしくないか?」


 食堂で遅い夕食をとっている間も、ニックはずっと怒っていた。


 ジェイミーは今日初めての食事を口に運んだあと、うんざりと眉間を押さえた。


「だから、悪かったって言ったろ。食事の時間もちゃんと確保したのに、これ以上何が不満なんだよ」

「長年家庭を疎かにしたせいで離婚を切り出された夫並みに要点を理解してないなお前は。飯を食う食わないじゃなくて、俺が受けた精神的苦痛の話をしてんの。まぁ俺もそこまで狭量じゃないから、まき割り当番を一週間代わるって言うなら許してやらないこともないけど」

「それが狙いか……。代わってもいいけどさ……」


 どうせ何をやっていても気が晴れることはない。だから何を押し付けられようが構わなかった。冷めたスープをスプーンでかき混ぜながら、ジェイミーはぐったりと頬杖をつく。


 ニックが再び口を開きかけたとき、騎士隊の隊員が一人、あわただしく食堂に駆け込んできた。


「大変だ、団長が襲われた!」


 あまりに唐突かつ簡潔すぎる知らせだったので、ジェイミーとニックは驚くでもなく、ゆっくりと顔を見合わせ、それからまたゆっくりと隊員の方に視線を戻した。


「団長っていうのは、あの団長……?」


 ジェイミーが尋ねると、知らせを持ってきた隊員はしっかりと頷いた。


「団長執務室で倒れてたんだ。誰かと争ったみたいで、意識がないらしい」


 全身が鋼鉄で出来ているという噂が流れるほど屈強な団長が、意識を失うなんてことがあり得るだろうか。ニックは疑い深い目を隊員に向けた。


「俺たちがお前の嘘に騙されるかどうか、賭けでもしてんのか?」

「は? まさか。本当の話だよ。団長が何者かに襲われたんだ。嘘じゃない」

「演技力が足りないんだよなぁ。正直に話せばお前が得するように協力してやるよ。ほら、とっとと白状しろ」


 隊員は苛立った表情を浮かべ、足早にジェイミーたちの側まで歩み寄った。


「嘘じゃない。俺は隊長の指示を伝えて回ってるだけだ。ジェイミーは団長の治療をしてる衛生隊の援護に。ニックは衛兵隊と合流して地下牢の警備に向かえ」

「地下牢の警備? 王宮じゃなくて?」


 緊急時は王族の警護が最優先だ。怪訝な顔をするニックに対し、隊員は内緒話をするみたいに身をかがめ、声を潜めた。


「団長が管理していた地下牢の鍵が無くなったらしい。多分、団長を襲った人間が持ってるんだと思う」


 数多(あまた)の罪人が収監されている地下牢の鍵を、団長を気絶させるほどの人間が持っている。それは確かに、即刻警備に向かわねばならない事態である。


 やや釈然としなかったものの、ジェイミーとニックはとりあえず、各自の持ち場に向かうべく食堂をあとにした。


◇◇◇


 医務室のベッドに、傷だらけになった団長が横たわっている。完全に意識を失っているようでピクリとも動かない。団長の周囲では、衛生隊の隊員たちが忙しなく動き回っている。


 ジェイミーはその光景を目にしてから数秒間、医務室の入り口に呆然と立ち尽くした。半信半疑だったが、本当だった。鋼鉄で出来ている団長は本当に何者かに襲われて、負傷したらしい。


 衛生隊の隊長であるマーソンが、呆気にとられているジェイミーの肩を叩いた。


「ジェイミー、どうした。立ったまま寝てるのか」

「先生、団長は大丈夫なんですか?」

「まだ何とも言えない。騎士隊の応援はお前だけなのか? 団長が負傷するくらいだから相手は複数いるはずだ。また襲いに来るかもしれない。護衛は多い方がいいんだが」

「隊長が上手く配分していると思いますが……」


 言い終わる前に、失礼します、とよく通る声が飛んできた。振り返るとそこにはスティーブの姿があった。スティーブは折り目正しくマーソンに敬礼したあと、医務室をぐるりと見回しながらジェイミーの側まで歩み寄った。


「団長が襲われたと聞きました。本当なんですか?」

「あれが演技なら、大したものだ」


 マーソンが顎をひょいと動かし指し示した先には、あれこれと治療を施されている、ぐったりとした団長の姿がある。スティーブは奇妙なものでも見るような表情で、その光景をじっと眺めた。


「負傷した団長を発見したのは誰なんですか?」

「アーノルドだ。騎士隊は情報伝達が上手くいっていないのか? 今誰が指示を伝えてる?」

「ジョージが隊長の指示を伝えて回っています」


 スティーブの答えに、マーソンは「あいつかぁ」と苦い顔をした。


 ジョージは少しそそっかしいところがあるのだが、それでも情報伝達が上手くいっていない理由は彼の責任ばかりではないとジェイミーは思った。団長が負傷して意識を失うというのがあまりにも現実離れした出来事であるため、詳しい話を聞き出すことを、ジェイミーは怠ってしまったのだ。恐らくスティーブも同様だろう。


「あの、地下牢の鍵が盗まれたというのも本当なんですか?」


 スティーブの問いに、マーソンは渋い顔をしながら頷く。


「上層部は自警団を疑ってる。人身売買を企んでいたオスカーたちが地下牢にいるからな。彼らの証言は自警団にとっては脅威だ。口封じに来たとしても、おかしくない」


 マーソンの考えに、ジェイミーは首をひねる。


「自警団が団長と互角にやりあえるでしょうか。集団で本部に忍び込んでいるなら目立つでしょうし、少し無理がありませんか?」


 続いてスティーブが声を上げた。


「わざわざ地下牢の鍵だけ盗むなんて、国軍の注意を誘導しているのかもしれません。先生、この騒ぎは自警団の仕業ではないですよ。上層部は対応を間違えています」


 マーソンはうーんと唸りながら片手を頭にやり、ボサボサ頭をさらにボサボサに進化させた。


「とりあえずは、各自の任務を全うしろ。いずれ陛下が最善の指示を出して下さるだろう」

「陛下は団長が負傷したことをすでにご存じなんですか?」


 ジェイミーの問いに、マーソンは不可解だと言いたげに顔をしかめた。


「王宮への報告は騎士隊が引き受けたと聞いているが……。本当に、騎士隊は大丈夫か? なぜお前たちは自分たちの役割を把握していない」


 ジェイミーとスティーブは決まり悪く顔を見合わせる。

 現在医務室では、衛生隊の隊員たちがてきぱきと己の任務を遂行している。それに比べて騎士隊は、医務室に駆け付けたのはジェイミーとスティーブの二人だけ。今誰がどこにいて何をしているのかも、二人は把握していなかった。


「失礼します」


 よく響く声と共に、騎士隊の副隊長が現れた。副隊長はジェイミーとスティーブの姿を視界に入れた瞬間、大きく目を見開いた。


「お前たちここで何してるんだ」


 (とが)めるような口調で、副隊長は言った。スティーブは眉をひそめる。


「衛生隊の援護です。隊長の指示ですが、副隊長には伝わってなかったんですか?」


 隊長の指示を副隊長が把握していないわけがない。戸惑うジェイミーとスティーブに対し、副隊長は首を横に振った。


「いや、違う。隊長はお前たちを連れて王宮の警備に向かうと言っていた。一体どうなってるんだ」


 マーソンは呆れた顔つきで、ジェイミーたちの会話に口を挟んだ。


「アーノルドは団長が倒れているのを発見したせいで動揺しているのか? そのせいで指示を誤っているんじゃないだろうな」

「いえ、いつも通り落ち着いているように見えましたが……」


 副隊長は歯切れ悪く言葉を返したあと、少し考え込んだ。それから再び、マーソンに視線を向けた。


「実は、妙なんです。今騎士隊の人員が地下牢に集中し過ぎていて、逆に警備に支障が出るかもしれない状況で……。隊長の指示なので何か考えがあるのかもと思いましたが、やはり動揺しているんでしょうか。医務室の警備も、全然足りていませんね」


 副隊長は地下牢の警備を指揮するよう隊長に命じられていたのだが、あまりに人員の配置がアンバランスなので、医務室の警備が足りているか念のため様子を見に来たのだという。


 副隊長の話を聞いたジェイミーたちはそれぞれ疑問に満ちた視線を交わした。隊長が動揺のあまりミスをするなんて、あり得るだろうか。


 隊長はシャウラ国の侵略を食い止めるため戦場に送り込まれた民兵の、生き残りである。戦場から生還したのち、一代限りではあるが爵位を授けられたアーノルド・キャンベルは、労働者階級の生まれでありながら騎士隊の隊長にまで登り詰めた。


 いわば実力だけでのし上がった、本物の騎士である。そんな人が団長が倒れている姿を発見したくらいで、動揺するとは思えない。


「隊長、団長が目を覚ましました!」


 衛生隊の隊員の一人が、マーソンに向かって叫んだ。


 難しい顔であれこれと考え込んでいたジェイミーたちは、急ぎ団長の側に駆け寄る。


「団長、ここがどこか分かりますか?」


 マーソンの手を借りながら上半身を起こした団長は、体が痛むのか、険しい顔つきで首を縦に振った。それから周囲を見回し、副隊長に目を向ける。


「キャンベルはどこだ。奴はどこにいる」


 団長の問いに副隊長は少しだけ表情を強ばらせる。


「王宮に向かっています。なぜ隊長の居場所を気になさるのですか」


 嫌な予感が、医務室に漂った。団長は小さく舌打ちしたあと、ベッドから降り立ち上がろうとした。それをマーソンが慌てて押し止める。


「団長、どうか安静になさって下さい」

「油断した。キャンベルに襲われたんだ。誰でもいいから王宮に向かえ。今すぐ奴を捕らえろ」


 マーソンと共に団長をベッドに戻そうとしていたジェイミーは、団長の言葉をまともには受け取らなかった。


「先生、団長は意識がまだ混濁してるんじゃ……」


 隊長が突然団長を襲うなんて、あるわけがない。マーソンもまた、団長の言葉を鵜呑みには出来ない様子だった。


「団長、今日は何日ですか? 自分の名前は言えますか?」

「勘違いならそれでいい! とにかく誰でもいいから王宮に向かえ!」


 団長はマーソンの質問を遮って、どすの利いた声で叫んだ。


 その剣幕に圧されつつ、それでもやっぱり、ジェイミーは団長の言葉を信じられなかった。困惑するばかりの部下たちを前にして、体の自由が利かない団長は力なくベッドに腰を下ろし頭を抱える。


 しばしの沈黙のあと、口火を切ったのは副隊長だった。


「……スティーブ、ジェイミー、お前たちは地下牢にいる奴らを何人か連れて王宮の正門に移動しろ。指示はスティーブに任せる。私は今すぐ、王宮に向かう」


 副隊長の指示に、ジェイミーとスティーブは同時に頷く。


 王宮に行きさえすれば、団長は納得するのだ。きっと隊長は、自分が団長を襲ったことになっていると聞いて目を丸くするに違いない。


 そんな気楽な気持ちと、わずかな胸騒ぎを抱えながら、ジェイミーたちは医務室を離れたのだった。

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