106.根拠のない自信
アンタレス国を脱出することを決意したシェリルは、とりあえず一晩、王都の宿に泊まった。
国境の警備が厳しくなっている今、国外に出るための経路は限られている。
脱出方法はいくつかあった。ジェイミーが持たせてくれた路銀がずいぶんな額だったため、王都に身を隠し計画を練る時間も、準備をする余裕もあった。つまり、状況はそれほど絶望的ではない。
何はさておき敵を知ることから始めなければいけない。シェリルは人通りの多い時間帯を狙って、国境を越えるときには必ず通らなければならない関所の偵察に向かった。
王都に一番近い関所は、今まで三度通ったことがある。どこをどう進むのか、警備が何人いるかは大体覚えていたので、いざというときの逃走経路などを確認するべくこっそりと周辺の地形などを窺う。
荷馬車や人の影に隠れながらさりげなく偵察していると、見覚えのある人物が関所の付近にぼーっと突っ立っているのが見えた。
何かの間違いだろうと、シェリルは一旦、その人物から視線をそらした。そしてもう一度その姿を確認する。間違いない。彼女はスプリング家の仲間の一人である。
「ディアナ……。こんなところで何してるの?」
手が届く距離まで近付き声をかけると、少女はようやくシェリルに焦点を合わせた。眠たげな顔が、ほんの少し驚いた風に変化する。
「シェリル。早かったのね」
「早かったって、何が?」
「ジェイミーって人のことはもういいの?」
迷惑だ、と言ったジェイミーの声が自然とよみがえってきて、シェリルは若干落ち込みつつ、首を縦に振った。ディアナは興味無さげに「ふーん」と相づちを打つ。
「わざわざ迎えに来てくれたの?」
シェリルの問いをディアナは躊躇なく否定した。
「カルロさんに言われて待ち伏せしてただけ」
「それは……迎えに来たってことじゃないの?」
「ちょっと違う。実はいろいろ事情が変わったの」
とにかく付いてきて、と間延びした声で言ったディアナは、シェリルの手を取り歩き出した。わけもわからず付いていくが、進行方向が王都だったので慌てて足を止める。
「ちょっと、観光なんてしないわよ。国軍に見つかったら厄介なことになる」
「観光なんて、そんな面倒くさいこと頼まれてもしないから」
「じゃあ何しに行くの」
「こっちにカルロさんがいるの」
「嘘でしょ? 何でアンタレス国に来てるのよ」
「説明するのも面倒くさいから、本人に聞いて」
筋金入りの面倒くさがり屋は、相変わらずぼーっとした面持ちのまま、シェリルの手を引きやる気なく歩を進めた。
お世辞にも繁盛しているとは言えない寂れた宿。その宿の一室でいかにも怪しげな一団が大量の銃を組み立てていると知ったら、宿主や宿泊客は何と思うだろう。
「何やってるんですかカルロさん……」
てきぱきと銃を分解したり組み立てたりしている仲間たちの中心で、カルロは優雅にお茶を飲んでいた。
「おやシェリル。早かったな。ジェイミー君のことはもういいのか?」
「ジェイミーに帰れと言われたんです。だから国を出ようとしてたのに、ここで何やってるんですか」
「春の風に乗って引っ越しでもしようかと思ってね。それにしてもジェイミー君はとことん損な性格だな。彼いま牢に入ってるみたいだぞ」
「え、ちょっと……何ですって?」
シェリルの頭の中には疑問符が飛び交っていた。どこから説明を求めればいいのか。困惑しまくっていると、部屋の扉が開きアメリアとダミアンが現れた。
「あらシェリル。お帰りなさい」
「あー寒い。もうすぐ春だなんて嘘だろ、絶対」
当然のような顔をしてシェリルの両脇を通りすぎる二人。ポカンと立ち尽くすシェリルに向かって、カルロが小さく手招きした。
「お前もこっちに座りなさい。ちゃんと説明してやるから」
説明を聞きたいような、聞きたくないような、複雑な心境だった。カルロの側に転がっている木箱に腰かけたシェリルは、とりあえず話を聞く姿勢を見せる。
「引っ越しって、冗談ですよね」
「いや、冗談じゃない。スプリング家はアケルナー国と手を切った。だから次の住み処をどこにしようか皆で考えてるところなんだよ」
「はぁ?」
さらっと告げられた事実に、シェリルは大きく目を見開いた。
スプリング家はおよそ三十五年間、アケルナー国に仕えてきた。議会の承認なく動き回ることが出来る秘密組織は、王家や軍が表だって干渉できない問題に柔軟に着手して、国の秩序や、王家の平穏を保ってきた。
アケルナー国はスプリング家の働きにおおむね満足していたが、一つだけ不満があった。それは、組織の維持に金がかかり過ぎるというものである。
諜報活動や暗殺など、組織が担う仕事自体にも金がかかるが、組織の噂を聞き付けた者たちから身を守るためだったり、姿を晦ますためだったり、スプリング家が日々安全に生活するためにも金は必要だった。
それでも三十年前は損失よりも利益の方が勝っていた。この頃はスプリング家という組織が大々的に活躍し、名を馳せた時代だった。金では買えない特別な組織を所有していると、アケルナー国はきちんと認識していた。
しかし、変化のときが訪れる。アケルナー国の強みである人身売買を、より手軽に行えるようにしようと国中で大規模な改革が行われたのだ。
それまで上流階級の特権と認識されていた奴隷は、改革以降、とても手軽なものになった。
商売人が従業員を買うことも、子供が遊び相手を買うことも、奴隷が奴隷を買うことだってもはや珍しいことではない。
権威の象徴であった奴隷が便利な道具として使い捨てられる時代が到来した。道具には人ほど金がかからない。質を量で補っても、スプリング家に支払う報酬には遠く及ばない。
スプリング家の担ってきた役割は、奴隷の売買が盛んになるほど失われていった。だがそんな状況でも年に何度かは仕事が来る。しかしスプリング家に支払う報酬を王家が惜しく思っていることは明らかだった。年々減っていく報酬にカルロは頭を悩ませていたが、とうとうスプリング家とアケルナー国の間に決定的な亀裂が入った。
ジェイミーの暗殺の失敗と、ローリーがエリック国王と接触することを防げなかったことを理由に、王家はスプリング家に税を納めることを要求してきたのである。
静かに話を聞いていたシェリルは、思わず眉をひそめた。
「税? どうしてそんなことを……」
「仕事を満足にこなせないなら、せめて国民の義務は果たせだとさ」
「でも、そんなの馬鹿げてます」
スプリング家の報酬は王家の財産から支払われている。それをまた税として納めるなんて、おかしな話だ。シェリルと同じことを思ったであろうカルロは、皮肉っぽく口の端を上げた。
「遠回しな報酬の削減だ。額を減らせば今度こそスプリング家と衝突しかねないと、一応、考えたんだろう。こんな姑息な方法で経費を削ろうとするような国とはもうやっていけない。組織を存続させるために手を組んだのに、アケルナー国のためにスプリング家が破産するなんて、馬鹿馬鹿しいだろ」
「じゃあ、アケルナー国を捨ててアンタレス国と手を組むんですか?」
わずかな期待を込めて尋ねれば、カルロはあっさりとシェリルの予想を否定した。
「前にも言っただろう。この国は未完成だ。俺たちはアンタレス国じゃ生きていけない」
「じゃあどうしてここに?」
「実はな、スプリング家は今、史上最高に金がない。というか借金まみれだ。必死に命を懸けてきた結果がこれじゃあ、あんまりだと思わないか?」
「……だから?」
「だから財産でも築こうかと思ってね」
「まさか、アンタレス国にたかるつもりなんですか?」
シェリルの考えをカルロは軽快に笑い飛ばした。
「ははは、シェリル。あのなぁ、カルロさんはそんなに単純じゃない。カルロさんは剥いても剥いても底が見えない、それはもう玉ねぎみたいに奥がふかーい男なんだ」
「つまり中身が無いってことですか?」
「今の例えは忘れていい。何が言いたいかというと、お前の言う通り俺たちはこの国で金を稼ぐつもりだが、ただ稼ぐだけじゃ面白くないだろう。ついでにちょっとした意趣返しでもしようと思ってね」
「意趣返し?」
シェリルとカルロの会話をかたわらで聞いていたアメリアが、声を上げる。
「アーノルドがそろそろ動き出すはずよ。彼が相当なボンクラじゃない限り、もうじきローリーに隙が生まれるわ」
「アーノルドって、シャウラ国の内通者の、アーノルド?」
シェリルが尋ねると、アメリアは無駄に艶っぽい笑顔で頷いた。
シャウラ国と密かに繋がっている、国軍の騎士、アーノルド。スプリング家が調べたところによると、現在王都には彼が引き入れたと思われるシャウラ国の殺し屋が数人、身を潜めているらしい。
「アーノルドは殺し屋たちを王宮に忍び込ませる機会を探ってるみたいだ。ローリーはまだ気付いてない。お前の言う通り、アーノルドに対しては盲目になってるのかもな」
ダミアンの言葉を聞いて、シェリルは釈然とせず顔をしかめた。
「数人の殺し屋だけでこの国を侵略するなんて、不可能じゃない?」
「殺し屋はあくまで殺し屋よ。彼らが狙っているのはローリーの命なの。彼の命を奪いさえすれば、侵略は可能になるとシャウラ国は考えてるはず」
神官見習いのアンディも、今アメリアが言ったことと同じようなことを言っていた。シャウラ国はローリーの命を狙っているが、シェリルがアンタレス国に留まっているため身動きが取れないのだと。
「じゃあ、アンタレス国が混乱に陥ってる隙に、盗みに入るってこと?」
「盗みなんて、そんな品のないことするわけないだろう」
計算式の答えを間違えた子供を叱るみたいな口調で、カルロは言った。シェリルは両手を上げて、降参する。
「分かりません。何をするつもりなんですか?」
「いいかシェリル。もし、万が一シャウラ国がローリーの命を奪うことに成功したとして、誰が一番得をすると思う?」
「それはもちろん、シャウラ国で……」
言いかけて、口を閉じる。
シャウラ国はアンタレス国を手に入れるためならどんなに無茶なことでもする国だ。その執念が功を奏し、十六年前、一時的とはいえアンタレス国を追い詰めた。しかししょせんは国民を手当たり次第戦場に送り込むことでしか戦力を保てない小国である。シャウラ国がアンタレス国を侵略すれば、次は別の国がシャウラ国を侵略することになる。
アケルナー国は、ローリーと直接対峙することを避けるためにシャウラ国と手を組んだ。ローリーが消えればもう怖いものはない。膨大な資源をシャウラ国のような小国にみすみす譲るわけがない。
カルロは手のひらの上で銃弾をいくつか転がしながら、漆黒の瞳を少しだけ物憂げに細めた。
「組織の存続のためとはいえ、数え切れない数の仲間たちを失った。最後には財産も国も失って、アケルナー国だけが美味しい思いをするなんて、そんなのつまらないだろう。だから思い知らせてやるのさ。スプリング家を見くびったことは、大きな間違いだったってことをな」
アメリアとダミアンも、カルロと同じ気持ちのようだった。シェリルは彼らほど苦難を経験していないから、アケルナー国に思い知らせてやりたいという気持ちがよく分からない。だからもし、カルロの意向に異を唱えるとしたらその理由はひとつしかない。
「私は、ジェイミーのためになることなら何でもします」
「……ブレないなぁ。安心しなさい。俺たちがしようとしていることは、きっとジェイミー君のためにもなることだ」
カルロは苦笑いしながらポケットを探り、首飾りを取り出した。
目の前にぶら下がる真っ赤なダイヤモンドを見て、シェリルはとっさに苦い表情を浮かべる。
「そういえば、ローリーに報酬をもらい損ねました。ジェイミーの問題を解決出来なかったので……」
「ああ、別に構わない。金貨よりも良いものが手に入る予定だから。これはお前からジェイミー君に返してやりなさい」
美しい輝きを放つさそりの心臓が、シェリルの手の中に落ちる。
よかった。やっとジェイミーにダイヤモンドを返すことができる。
ホッと胸を撫で下ろしてすぐ、シェリルは肝心なことを思い出した。
「ジェイミーが牢に入ってるって、本当なんですか?」
昨日の今日で何があったのだろう。自分のせいだろうかと不安にかられるシェリルに、ダミアンが軽い口調で声をかけた。
「一時的に捕らえられてるだけみたいだから、そう慌てる必要はないだろ」
「どうして一時的だって分かるのよ」
「情報通のアニーがそう言ってたんだ。彼女お前の言う通り本当に何でも知ってるな」
「……ちょっと、ダミアン。何であんたがアニーさんと話してるの?」
「食料の配達人ダニーはある日、王宮で道に迷った。困っているところを心優しい使用人アニーに助けられ、それ以来二人は親しい仲に。最近二人の間には恋が芽生えそうだとか、芽生えそうじゃないとか……」
「芽生えないわよ! もしアニーさんを弄んだりしたら、配達人のダニーは地獄を見ることになるわ!」
配達人のダニー、もといダミアンは、シェリルの忠告を意に介さずといった様子で、ふんと鼻をならした。
「お子ちゃまは黙ってろ。俺が王宮に出入りしてることにすら気付けなかった分際で、大人のあれこれに口を出す権利なんてないんだよ」
わなわなと震えるシェリルの肩を、アメリアがまぁまぁと叩く。
「安心しなさいシェリル。いざとなったら私がダミアンと交代するわ」
「そういう問題じゃないんだけど……」
ジェイミーを選ぶか仲間を選ぶかあんなに悩んだというのに、数分で会いに行ける距離に仲間たちが潜んでいたなんて。シェリルは全身の力が抜けるような気分だった。
気付けなかったことが悔しいのと同時に、また会えて嬉しいというのも正直な気持ちである。
アケルナー国という大きな支えを手放して、これからスプリング家はたくさんの困難に見舞われるのかもしれない。それでも、彼らと一緒ならきっと何でも成し遂げられるはずだと、根拠のない自信が沸き上がってくるのを、シェリルは確かに感じていた。