105.割り切れない気持ち
アケルナー国とシャウラ国。二つの国と緊張状態にあるアンタレス国は、国境の警備を常になく厳重なものにしていた。
入国することはおろか出国することも一苦労という状況で、どのようにシェリルを逃亡させるか。考えあぐねるジェイミーに、この手のことには慣れているから大丈夫だと、当人は気丈に言ってのけた。
結局ジェイミーは、出来るだけの路銀を無理やりシェリルに押し付けて国軍の敷地の外まで彼女を見送った。
シェリルを自由にさせておくようにとローリーが命じているおかげか、日が暮れたにも関わらず本部を出ようとする二人を、見咎める者はいなかった。
とはいえ、曲がりなりにもジェイミーは軍人である。おまけに身分を偽り国王に逆らった軍人である。
そんな男がこそこそと敵国の人間を建物の外に連れ出そうとしているのだから、それを目にした者がその行動を疑問に思うことは自明の理と言える。
シェリルを連れ出すジェイミーの姿を目に留めたのが、共に過酷な訓練をこなしてきた軍学校の同期だったことは、ジェイミーにとって本当に運がいいことだった。
現在衛兵隊に身を置くその男は、職務に忠実であると同時に友人のことを慮る優しさも持ち合わせていた。
だから彼は、ジェイミーがシェリルを逃がそうとしているように見えたことを自身の上司である衛兵隊長ではなく、ジェイミーに不審感を抱いている軍の上層部でもなく、騎士隊の隊長にこっそりと報告したのである。
軍を辞める覚悟がジェイミーにはあった。しかし隊長はやっぱり、部下を見捨てたりはしなかった。
シェリルを逃亡させたことをジェイミーの口から直接聞き出した隊長は、今言ったことと同じことを憲兵に申告しろと命じた。
憲兵に捕らえられた場合、予算を投じてまで裁く必要があるのかどうか調査される期間というものが設けられる。その期間品行方正にしていれば、運がよければ減給や謹慎といった処罰を受け入れるだけで釈放され、軍法会議も免れる。
もし隊長がジェイミーの罪を黙認しても、遅かれ早かれシェリルがいなくなったことに誰かが気づく。その結果上層部や貴族院が真っ先にジェイミーを疑うことは明白だった。結局捕らえられることになるのだから、反省していることをいち早く示すことが最善だと、隊長は判断したのだ。
一週間後。
調査は終了し、ジェイミーはいくつかの処罰を言い渡されただけで釈放されることになった。
決め手は、自ら罪を告白したことと、隊長や副隊長、それから騎士隊の仲間たちの証言である。
反省する意思があることや、軍学校時代から真面目に国のために尽くしてきたことが評価され、一ヵ月監視がつくことと減給を条件に晴れて自由の身となったのだった。
長いようで短い監獄生活を終えたジェイミーは、隊長の説教をしおらしく甘受していた。
「心からありがたく思えよ。もし軍法会議の末に除隊処分なんてことになってたら、お前は国軍という唯一の後ろ盾すら失って敵対している貴族連中に好き放題叩き潰されてたんだからな」
「はい……」
「お前が身分を偽っていたことに関しても、アレース公爵と話し合って折り合いをつけたから二倍感謝しろ。ハデス伯爵と血が繋がっていないことを正式に認めるなら、裁判を起こすことはないそうだ。爵位は継げなくなるが罪人になるよりマシだろう」
「はい……」
「これからは俺のしもべとなって働け。馬車馬のように。文句があるか?」
「ありません」
隊長のしもべとなったジェイミーは、さっそく大量の仕事を仰せつかった。外国の書物の翻訳という、なぜ騎士隊にこんな仕事が持ち込まれたのかその経緯が謎すぎる作業を黙々とこなす。
本当なら、ジェイミーの行動を副隊長が一ヵ月間監視するはずだったのだが、彼はジェイミーのお守りをしていられるほど暇じゃない。というわけで、現在ジェイミーの隣には副隊長の代理としてニックが居座っている。これを心遣いととるか嫌がらせととるかは、意見の分かれるところだ。
「労働者階級の世界へようこそ。庶民としての心構えをこの俺が直々に伝授してやるから、心して聞くように」
せっせと労働に励むジェイミーに、ニックがちょっかいを出してきた。
「俺はウィレット家の養子ってことになるから、一応まだ、ぎりぎり上流階級なんだけど……」
「細かいことは気にするな。庶民の心構えその一。上手くいかないことがあったらとりあえず世の中のせいにすること」
「それは庶民じゃなくてお前の心構えだろ」
「心構えその二。面倒くさい仕事は全部ジェイミーに押し付けること」
「どういう気持ちで言ってんの? それ」
ここ最近目まぐるしく変化していたジェイミーの日常は、シェリルと出会う前の頃のように戻りつつあった。しかしいくら環境が元に戻ったように思えても、ジェイミーの人生観はすっかり塗り替えられてしまっていた。以前の自分では考えられないことばかりしでかしたが、こんな風に後先を考えられなくなるほどに人を好きになることは、きっともう無いような気がする。
静かに感傷に浸っているジェイミーを見て、ニックは面倒くさそうな顔をした。
「念のため教えとくが、シェリルちゃんはまだ見つかってないから。ひょっとしたらもう国内にはいないのかもな」
「上手く逃げてるといいんだけど。一人で逃走させるなんて、やっぱり危険だったかな……」
「全然懲りてねぇなお前」
ニックは呆れ果てた様子でソファーの背もたれにどさっと体を預けた。それから何かを思案したあと、再び口を開く。
「例えばさ、シェリルちゃんは滝の上から放り投げても自力で這い上がってくるだろ。でもお前は川に落ちただけで、本当は泳げるくせに海までふらふら流されるだろうな。まぁ、そういうことだよ」
「どういうことだよ」
「生き方がまるっきり違うんだから、一緒になるなんて土台無理な話だったってことだよ」
「簡単に言ってくれるなぁ……」
そう簡単に割り切れれば苦労はしないと嘆いて見せれば、ニックは不機嫌に眉根を寄せた。
「なんだよ。自分ばっかり不幸みたいな顔しやがって。言っとくが俺だって立ち直れないと思うくらいの失恋をしたことくらいあるんだからな」
「……そうなのか?」
「そうだよ。プロポーズしてフラれた経験なんか無いだろ、お前」
ジェイミーは思わずニックの顔を凝視した。
「プロポーズしてフラれたのか?」
「そうだよ」
「使用人のアニーさんに?」
「……そうだけど、何で分かるんだよ」
自分から打ち明けたくせに、ニックはどこか居心地が悪そうである。親友の意外な過去を知り、ジェイミーの好奇心は大いに刺激された。
「やっぱり、女癖が原因なのか?」
「ちげーよ。アニーは王家に仕える侍女になるのが夢なんだ。使用人は結婚出来ないものなんだろ」
「出来なくは無いだろうけど、結婚生活は無いも同然だろうな」
「同じこと言われてフラれた。まぁつまり、相手が秘密組織の人間じゃなくてもそう簡単に上手くいくわけじゃないってことさ」
「お前まさか、アニーさんの近くで働きたくて軍学校に入学したのか?」
「人の話聞いてる? 恥を忍んで励ましてやってるのに何なのお前」
ニックが本気でキレる予感がしたので、大人しく口をつぐみ翻訳の作業に戻る。
相手が秘密組織の人間じゃなくてもそう簡単に上手くいくわけじゃない、というニックの意見は、妙にジェイミーの心に響いた。
確かに、同じ国に生まれた同じ階級の婚約者とも全然上手くいかなかった。一緒になることに何の差し障りもないように見えるリリーとウィルでさえ、ローリーが未婚であるせいで、権力争いを避けるためとかなんとか言われてなかなか結婚出来ずにいる。
そう考えると、ジェイミーとシェリルが上手くいく確率なんて、果てしなくゼロに近いのではないだろうか。
「俺たち一生独り身かもな」
ポツリと呟くジェイミーにニックは驚愕の表情を向けた。
「お前ってやつは……。なんてことを言い出すんだ」
「考えてもみろ。俺もお前もウィルもリリーも、結婚したい相手がいるのに誰も望みを叶えられてない。一人くらい上手くいってもよさそうなものだろ。この先もずっとこんな状態が続くような気がしてこないか」
「お前らはそうなるかもしれないが俺を巻き込むな。人生の楽しみと言われてることはひと通り経験すると決めてるんだから」
「それはそれで、苦労も倍増しそうな気がするけど……」
領主という将来は消えてしまったわけだし、独身生活を謳歌することも悪くないかもしれないと、ジェイミーはうっすら考えた。そんな風に気楽に構えながら、シェリルの笑顔を思い浮かべるたびに彼女との未来を想像してしまうことが、少々苦しくもあった。
早く忘れたいが、一生忘れたくない。相反する気持ちはやはり、そう簡単に割り切れるものではないのだろう。