103.オレンジと星屑
訓練場の端の方にある庭でシェリルは一人考え込んでいた。視線の先に咲いている花が冷や汗を流してしまいそうなほどに瞬きひとつせず、低木の影に身を潜めながらぼんやりと、仲間のところに帰るべきか、帰らざるべきか。
明日もし晴れたら、帰ろうかな。雪が降ったら、帰らない。などと適当なことを考えていると、遠くの方から聞き慣れた声が飛んできた。
声のした方に目をやると、本部と軍学校を繋ぐ渡り廊下をジェイミーが走っていくのが見えた。付いてくるなと叫んでいる。そしてその後ろをニックが追いかけている。さらにその後ろを、ウィルがやる気なさげにとぼとぼと歩いている。
何をやっているのだろう。
あれこれ考えることが面倒になってしまったシェリルは、すぐさま立ち上がりジェイミーが消えていった方を目指して駆け出した。
曲がったり登ったり降りたり、最終的にジェイミーは軍学校の二階にある空っぽの教室に身を隠した。なぜシェリルがそのことを知っているのかというと、建物の壁をよじ登り窓から教室を覗いているからである。
窓を叩くと、扉の隙間から廊下を覗いていたジェイミーが怪訝な顔で振り向いた。シェリルを見て数回瞬きしたあと、ぎょっと目を見開く。
「ジェイミー、あのー」
声をかけようとしたそのとき、壁の装飾にひっかけていた足がズルっとすべった。次の瞬間には両手で窓枠にぶら下がる格好になっていて、あわや大惨事である。
ヒヤリとする間もなく、勢いよく窓が開く音がしてジェイミーに腕を掴まれた。
「寿命が縮むわ!」
「あ、あの、ジェイミー。ここで何してるの?」
「こっちの台詞だよ!」
あれよあれよと部屋の中に引っ張り込まれ無事生還したシェリル。本当に寿命が縮んでしまったのか、ジェイミーはぐったりと脱力している。
「ありがとう。助かったわ」
ご機嫌うかがいしてみるが、あまり効果は無いようだ。ジェイミーは虚ろな顔をシェリルに向けて言った。
「で、どうしたんだ。何かあったのか?」
「何もないけど、ジェイミーがニックとウィルに追いかけられてるのが見えたからなんとなく気になって……」
「気になっただけで壁をよじ登っちゃうの?」
もはや苦笑いを返すしかないという様子のジェイミーである。
無性に恥ずかしくなってしまったシェリルは、急ぎ別の、もっと有意義な用件を考えた。
「リリーがまだ怒ってるかどうかも、聞きたくて」
苦し紛れに持ち出した話題に自分で顔をしかめる。自ら墓穴を掘るような話を振ってしまった。もっと愉快な話題はなかったものか。
案の定、ガランとした教室は重苦しい沈黙に包まれた。窓から差し込む夕日のせいで、二人の間に流れる空気はよりいっそう感傷的なものとなる。
後悔に苛まれているシェリルの顔を、ジェイミーは申し訳なさそうな表情で覗き込んできた。
「あのときはごめん。俺のためにこの国に戻ってきてくれたのに。殴るなんて」
「仕方ないわ。取り返しのつかないことをしてしまったから」
「ウィレット家の問題は身から出た錆なんだよ。リリーはまだ状況を飲み込めてないから混乱してるんだ。あれは八つ当たりだった。本当に悪かったと思ってる」
この話は今すぐ切り上げるのが得策だな、とシェリルは思った。なにしろこのままでは謝り倒されそうな雰囲気である。
シェリルなど、ニックの頭を石で殴ったのだ。白魚のような手にぺちんと叩かれたくらいでここまで謝られては決まりが悪い。
「気にしてないから大丈夫。それよりジェイミー、私今すごく暇なの。何か困ってることがあったら遠慮なく言って。仕事の手伝いでも、何でもするわよ」
空気を変えようと、シェリルは拳を握って自分の胸をどんと叩いて見せた。しかしジェイミーは真面目な表情を崩したりはしなかった。
「……実は、シェリルにひとつ、頼みたいことがあるんだ」
またまた話題の選択を間違えてしまったかもしれないと、シェリルは後悔する。ジェイミーがとても深刻そうな空気を醸し出しているからだ。飼っていた鳥が逃げてしまったから捕まえて欲しいとか、間違いなくそんなような頼みではないだろう。
「あんまり難しい頼みは聞けないかなぁ、なんて……」
「そんなに難しいことじゃない。前にも話したけど、シェリルは仲間のところに帰るべきだと思う。国を出ることには協力するから、これ以上アンタレス国には関わらないで欲しいんだ」
有無を言わせぬ雰囲気を纏うジェイミーを前にして、シェリルは「意外に頑固なんだなぁ」などとのんきに感心していた。
「前にも言ったと思うけど、報酬が無いとダイヤモンドを返せないわ」
「前にも言ったと思うけど、返さなくていいから。手間はかかると思うけど、上手くやれば金貨三千枚なんて目じゃない金に換えられる。カルロって人に手切れ金だって伝えておいてよ」
カルロはそれで納得するだろうがシェリルは納得出来なかった。ジェイミーは軽い感じで言っているが、あれはそんなに簡単に手放していいものじゃない。
「焦ることないわジェイミー。報酬が手に入るのが一年後でも、私は構わない。この国で暮らすのは楽しいし、そんな風に思い詰めなくても……」
「そういうことじゃないんだよ」
苛立ちを含んだ声に、シェリルは無意識に口をつぐんだ。
ジェイミーは何かをごまかすようにうつむいたあと、窓の外に視線を移した。橙色に染まった彼の瞳は、何を見ているのか、何も見ていないのか。視線はゆっくりと移動して、最終的にシェリルの方へと戻ってきた。
「正直に言うけど……」
重々しく開かれたジェイミーの口は、今この瞬間にも告げるべき言葉を決めかねているようだった。しかし続く言葉はきちんと、淀みなく、シェリルの耳に飛び込んできた。
「迷惑なんだ。悪いと思って、隠してたけど」
微妙に視線を逸らしながら、ジェイミーは言った。まるで独り言を呟いているみたいな態度だったので、その言葉は余計にシェリルの心にまっすぐ響いた。
「迷惑?」
「俺の力になりたいって言うけどさ、知り合って間もない奴にそんなこと言われても迷惑なんだ。個人的なことに干渉されるのも、本当はずっと気分が悪かった」
シェリルの頭の中は霧が立ち込めたみたいに一瞬で真っ白になった。ジェイミーがそんな不満を抱えていたなんて思いもしなかった。しかし頭のすみの方で「そりゃそうだ」と納得している自分もいる。
ジェイミーの役に立って嬉しいのはシェリルだけで、ジェイミー自身がどう思うかなんて、ちゃんと考えてこなかったのだから。
「分かってるよ、善意でこの国にいてくれてるんだって。でもありがた迷惑なんだ。恋人でもあるまいし、そこまで親身になってもらっても気味が悪いばっかりだ」
気をつかいつつも不満をぶつけてくるジェイミーに対して、シェリルはショックを受けるよりも先にホッとしていた。そして、そんな自分に心底驚いた。
ジェイミーはシェリルが側にいることが迷惑なのだと言った。ダイヤモンドを手放すこともいとわない程に。これ以上関わって欲しくないと思っている。
それなら仕方がない。ジェイミーのためにも仲間のもとに帰るしかない。
ようやく帰れる。
普段であれば気付けたはずのことに気づけなかったのは、一応それなりに、追い詰められていたからかもしれない。
ジェイミーの表情が辛そうだったとか。言葉に全然心がこもっていなかったとか。明らかにシェリルのためを思ってとってつけたような、嘘みたいだとか。
分かりやすいヒントをシェリルは都合よく見逃した。もうジェイミーを恋慕う気持ちに苦しまなくていいという喜びに気をとられて。身を縛るような感情は全て、この国にそっくりそのまま置いていけばいい。
「だからさ、帰ってくれよ頼むから。これ以上振り回されるのもうんざりで――」
絶え間なく不満を口にしていたジェイミーが突然言葉を飲み込み、目を見張った。
どうしたの、と尋ねようとしたシェリルは、喉がつまって上手く声が出ないことに気づく。ジェイミーの表情はひどく狼狽えたようなものに変化していった。
「それはちょっと、勘弁して……」
そんなことを言いながら、ためらいがちに手を伸ばしてくる。彼の指が目元を拭った瞬間、シェリルは自分が泣いていることをようやく自覚した。
何か言おうと思っても言葉にならない。涙が次から次へと溢れてきて、しゃくりあげる始末である。
「あの、ごめん。言い過ぎた」
困窮という表現がぴったりな様子のジェイミーは、ためらいまくった末に、シェリルの後頭部に手を添えて抱き寄せてくれた。
気の毒なことに、ジェイミーは自分のせいでシェリルが泣いているのだと思っているらしい。しかしシェリルは泣きじゃくる様相に反し、内心はとても冷静だった。
「帰りたくない」
未練がましい言葉は、考える隙もなく口をついて出てきた。
どれだけの時間、互いに沈黙していたのか。我がもの顔で空を支配していた橙色は、宝石をちりばめたような星空に取って代わられてしまって、シェリルの涙はジェイミーが着ている軍服に全て吸いとられてしまった。
これ以上粘っても仕方がないことは何となく理解できる。潔く笑顔で別れを告げようと距離をとろうとした瞬間、ジェイミーの腕に力がこもった。
「また会えるよ。そんな気がする」
柔らかい声は不思議な説得力を秘めていた。確信に満ちた言葉はこう続く。
「それまでどうか、元気で」
さよならと言わないジェイミーの優しさに、悲しみがすうっと溶けていくような気がした。慰めようと頭に添えられた手も、微かな息づかいも、今だけは全部シェリルのものだ。
心を決めて顔を上げる。窓の外に光る星屑が視界の端できらきらと瞬いて、無邪気に笑っているように見えた。




