102.言えない言葉
「おい、腰抜け」
騎士隊執務室。
執務机に向かい軍学校の生徒が提出したレポートを採点していたジェイミーは、突然飛んできた暴言に顔を上げた。きょろきょろと辺りを見回したあと、正面に立っているニックに視線を戻す。
「え、今の俺に言ったの?」
「そうだよ。シェリルちゃんをほったらかして何を悠長に仕事してんだ」
「ほったらかしてないよ。悠長でもないし」
目を泳がせながら言っても全く説得力は無いが、実際ジェイミーはアケルナー国を出発した日から毎日、シェリルに声をかけるようにしていた。困ったことはないか、怪我の具合はどうか、などなど。
ただ隊長と副隊長が自分のせいで多忙を極めているので、仕事を肩代わりするのに忙しく長時間話をする暇がない、という言い訳はニックには通用せず全ての言葉を言い終わる前に頭を叩かれた。
「寝食を共にするくらいの気合いを見せろよ。またスティーブがシェリルちゃんのベッドに潜り込んだらどうするんだ」
「やめろよ! 考えないようにしてんのに!」
すかさず耳を塞いだジェイミーにニックは呆れた視線を向ける。それからひょいと執務机に乗り上げ足を組み、皮肉っぽく口の端を上げた。
「いや、冗談じゃなく。スティーブは本気でそこまで考えてるって」
スティーブはジェイミーと違い、上層部の期待を裏切ったりはしないだろう。任務を途中で投げ出すなんてこともしないはずだ。
わずか一日の間にキスを迫り夜道で押し倒しベッドに忍び込むことまでやってのける男が、そう何日も手をこまねいているわけがないことはジェイミーも十分理解していた。
「さすがのスティーブも無理矢理乱暴したりはしないだろ」
「敵地で冷遇されてるシェリルちゃんが、スティーブに優しくされてあっさり身を任せるとは思わないわけ?」
ニックの考えに、長い間わだかまっている不快な感情がじわじわとかさを増す。最近はすっかり、スティーブの姿を見かけるだけで苛立つようになってしまった。
スティーブは悪くない。あいつは仕事をしているだけだと何度自分に言い聞かせても効果はない。
「俺はてっきり、シェリルちゃんがアンタレス国にいる間はお前が側についててやるのかと思ってたけど」
無論、そうするつもりであった。今でもそうしたいと思っている。しかしジェイミーは早々に気づいてしまったのだ。自分がそれほど清廉な人間ではないということに。
「……魔が差すんだよ」
「はぁ?」
「魔が差すんだよ! 近くにいると!」
やけくそなジェイミーの告白にニックはポカンと口を開けた。唖然とした表情から、哀れむような表情にゆっくりと変化する。
「お前は……何の修行をしてんの?」
ジェイミーにも分からない。
何しろ女性に手を出せなくて困ったことがこれまでの人生で数えるほどもない。だから今の気持ちを何と説明したものか、上手く表現できなかった。
「お前には分からないよ。分かってもらっても困るけど」
「おいおい、周りに流されまくりのあの頃のジェイミーはどこへ行ってしまったんだ。お前は今やシェリルちゃんに何をやっても許されるんだぞ。もたもたしてたらスティーブに美味しいところ全部持ってかれて終わりだけどな」
「本当にやめろよ、そういうの」
ジェイミーはレポートの採点を放り出し、両手で頭を抱えうなだれた。
やっぱりシェリルは無理矢理にでも仲間のもとに帰すべきだった。
しかし彼女を突き放すことなんかはなから出来る気がしないのだから、自分に落ち度はないんじゃないだろうか。だから誘いをかけてしまっても仕方がない、というような悪魔の誘惑を振り払うこと約二ヵ月。
アケルナー国では本当によく踏みとどまったと思う。
悩みに悩んでシェリルを仲間のもとに帰すことを決め、もう二度と会えないかもしれないからデートのようなことをした。しかし二人きりになってしまえば決心は面白いほど簡単に揺らぐ。
最悪なのは、ジェイミーが何をしてもシェリルが抵抗しないことである。抱き寄せた瞬間拳でもかまされれば、それ以上何かしようなんて絶対に考えなかった。それが、借りてきた猫のように大人しくなるものだから、もっと先に進みたいと期待する気持ちが芽生えてしまったのだ。
あのときはっきり「これ以上関わってくれるな」と言えば良かった。どうして側に置こうなどと考えてしまったのか。
「お前さぁ、本気でシェリルちゃんをスプリング家に返すつもりなの?」
「シェリルは帰る気でいる。だから俺が協力してやらないと」
「あのカルロって奴はお前がシェリルちゃんに惚れてることに気づいてるぜ。だから小遣い稼ぎにアンタレス国を利用してるんだ。今回無事に帰してやったとして、金に困ったらまた同じことを繰り返すかもしれないぞ」
「ダイヤモンドを譲れば手を切ってくれるだろ」
「わっかんねぇなぁ。耳を切り落とそうとするような奴らより、お前といた方がシェリルちゃんは絶対幸せだよ」
――ジェイミー、伯爵の息子になればきっと幸せになれる――
もう顔も思い出せない、父だった人の声がふいに甦った。
この階級社会で、上流階級の人間として生きることは確かに幸せなことだった。側でニックが苦労しているところを見て理解した。父が自分を手放したのは、愛情ゆえだったということを。
母親とリリーのために、それからリリーの父親のために、立派にやり遂げれば、いつか父にも会いに行けるだろう。
そう思ってそれなりに努力した十数年は、今、泡と消えようとしている。母を助けるという、父と交わした約束はどうやら果たせなかった。この情けない結果を土産にどうして故郷に帰ることが出来るだろう。
シェリルに同じ思いはさせられない。自分は家族を捨てるつもりなどないくせに、シェリルには仲間を捨てろなどと、言えるはずがない。
ジェイミーがそう打ち明けると、ニックは面倒くさそうにがしがしと頭をかいた。
「じゃあとっとと帰してやれよ。いつまでも決断を引き延ばしてるからお互いにどんどん消耗してくんだろ」
「全くその通りだ。こんなことしてる場合じゃない」
「いや待て。マジに受けとるなよ今のはただの嫌味だよ」
勢いよく立ち上がったジェイミーをニックは焦りながら押し止める。しかしジェイミーはすでに扉の方に足を運んでいた。もう二度と会えないのだと思えばこそ、シェリルと話をすることが憂鬱であったが、心を決めなければいけない。
そのとき、コンコンと扉を叩く音が響いた。ジェイミーが返事をすると、扉の向こうからウィルが現れた。
「うわ、二人ともどうしたの」
「どうもこうもねぇよ。ジェイミーが迷走してるんだ」
「ああ、シェリルの話?」
どうせシェリルの話だろ、とウィルの顔に書いてある。ジェイミーは首を縦に振ったあと、勇ましく部屋の外に足を踏み出した。なぜかニックとウィルが付いてきた。
ジェイミーは歩みを止めることなく両隣に並ぶ二人を交互に見やる。
「何で付いてくるんだよ」
「お前シェリルちゃんが絡むとやけに行動的になるよな。そのせいでこれまで散々振り回されたろ? 今まで被ってきた迷惑の数々を思い出せ。そして考え直せ」
「確かに勘弁して欲しいと思うことはあったけど、でも無鉄砲なところも好きなんだよ。もう俺は駄目だ。多分この先ずっとこんな感じだ」
「諦めんな! おいウィル、お前も何とか言ってやれ」
ウィルはニックほど危機感を持ってはいないようだった。ただ言いたいことはいくつかあるというような雰囲気である。
「もうシェリルに好きだって言っちゃえば? 一度本音で話し合った方がいいよ」
「言うだけ言って気が済めば苦労はないんだよ」
いっそ想いを伝えてしまえば楽だろうが、そのあときっと、答えを求めてしまうだろう。はっきりと拒絶されなければその場で迫ってしまうだろうし、手を出せば二度と手放せなくなるだろう。
こんなことを考える自分が、ジェイミーはどこか恐ろしくもあった。これまでのようにシェリルと適度な距離を保つ自信があれば、想いを伝えることも出来たはずなのに。
人は変わる。気持ちも変化する。シェリルの気持ちを優先させる気がある今のうちに、彼女のためになることをしなければ。
ジェイミーは決意を新たに、友人たちの説得を聞き流しながら廊下を進んだ。