99.雨上がりの早鐘
唐突な雨は、アケルナー国ではよくある現象だ。しかしそれが起こるのは一年のうちの半分だけである。残りの半分は晴れの日が続き、雨は滅多に降らない。つまり市場にいる人々にとって、現在降っている雨は全く予想外な天からの贈り物であった。
この激しい雨は、三十分ほど降り続いたのちぱったりと止んでしまうのが普通である。風が強くなったと同時に近くの建物に逃げ込むなどすれば、平穏無事にやり過ごせる。
しかし、道のど真ん中で一瞬でも降られてしまったら、もうおしまいだ。滝のような雨に十秒打たれようが三十分打たれようが、結果はそう変わらないからだ。
市場にいる人々は一瞬で悟った。今から何をしようと手遅れだということを。それはシェリルとジェイミーも同じだった。打ち付ける雨にありったけの気力を削ぎ落とされてしまった。
二人で向かおうとしていた店はもうすぐそこだ。このまま店まで行ってしまおうとシェリルが提案すると、激変した空模様に呆気に取られていたジェイミーは、心ここにあらずといった様子で頷いた。
「信じられない。あんなに晴れてたのに……」
窓から外を覗きながら、感心したように呟くジェイミー。
店の奥から出てきた老婦人はずぶ濡れのシェリルとジェイミーを見た瞬間、あらあらとのんきな声を出してタオルを手渡してくれた。
「あらまぁ、シェリルちゃんたら。こんな色男どこで拾ってきたの?」
すみに置けないねぇ、とひやかされて、シェリルは耳まで真っ赤になる。
「本物の珊瑚を見たいって言うから、案内しただけ」
「そうなの? じゃあとびっきりのを見せてあげる。シェリルちゃんの顔を立てて、特別にね」
器用に片目をつぶって見せた老婦人は、一旦店の奥に消えた。
彼女は数十年も前から、たった一人でこの宝石店を営んでいる。その昔、強盗の被害に遭って困っていたところをカルロが助けたとかで、スプリング家とは長い親交があるのだ。
「耳、大丈夫?」
ジェイミーが気遣わしげに尋ねてくる。
そういえば、傷口を濡らさないようアメリアに言われていたんだった。
平気だと言おうと顔を上げたシェリルは、そのままギシリと固まった。ジェイミーの顔が信じられないほど近くにあったからだ。縫った傷を見ようと身を屈めたのだろう。はからずも息がかかりそうなほどの距離で向き合う格好となり、二人ともしばらくの間、瞬きすら出来ず互いの瞳に見入っていた。
老婦人が戻ってくる気配がしたので、シェリルは急いで視線をそらした。
「これが加工する前で、これが加工したあと。綺麗でしょう。残念ながら輸入品だけどね。アケルナー国ではもう、ほとんど珊瑚は取れないのよ」
長方形の台に並んだ珊瑚はビロードの絨毯の上でつやつやと誇らしそうに光を反射している。
老婦人の説明を聞きながら赤や白の珊瑚を珍しげに眺めているジェイミーの隣で、シェリルは密かに動揺していた。
今になって、アメリアとダミアンの忠告が身に染みてくる。
例えば二人が言うように、ジェイミーがシェリルのことを口説こうとしているのだとして。何をされても拒めない自信があるが、本気にしない自信もあった。ジェイミーが自分のことを恋愛対象として見るなんて、そんなこと全く想像できないからだ。
でもいざ距離をつめられると、冷静には考えられなくなる。
手を繋ぐだけでこんなに嬉しくなってしまうのだ。たとえ嘘でも好意を口にされたら、真に受けてしまうかもしれない。
今の関係で満足できなくなることが怖い。二度と離れたくないと思ってしまったら、どうしよう。ジェイミーと一緒にいたいがために、自分から仲間を裏切ることを提案するなんてことになったら、一体どうすればいいんだろう。
先程までの雨が嘘のようにぱったりと止み、空はカラッと晴れている。
ぬかるみの上を注意深く進みながら、ジェイミーは不満げな顔をしていた。
「遠慮することないのに」
「遠慮なんかしてないわ。本当に欲しくなかったの」
先程訪れた宝石店で、ジェイミーはシェリルに髪飾りを買ってくれようとした。というのも、珊瑚を見せるついでと言って老婦人が見せてくれた真珠の髪飾りに、シェリルが少しだけ興味を示してしまったからだ。
贈り物など受け取ったら、ますます逆らえなくなってしまう。そう思って必死に申し出を断った。幸いジェイミーは押しが強くないので、すぐに引き下がってくれたが納得はしていないようだった。
「せっかくのチャンスを逃したな。カモにするには絶好の男が目の前にいるっていうのに」
「カモにする相手は生かさず殺さずが鉄則なのよ。ニックにたかられてるジェイミーは不適格ね。親友のせいで破産する運命だもの」
「そうなったらウィルにたかるから大丈夫だよ」
「無理よ。リリーの目が光ってる」
「ああ、確かに。破産するのは俺だけか」
渋い顔をするジェイミーがおかしくて、シェリルはつい声を上げて笑ってしまった。するとジェイミーはとても嬉しそうな顔をした。
「やっぱり、髪飾りはいらないかな」
「どうして?」
「そのままで十分、綺麗だから」
なんてことを言ってくれるんだ。シェリルはすぐさまどこかに逃げ込みたい衝動にかられた。がしかし、行きと同じく手を握られているので、逃げも隠れも出来ない。もう一度雨でも降ってくれないだろうか。そうすれば照れていることをごまかせるのに。
そんなことを願っているシェリルに冷や水を浴びせたのは、他ならない、ジェイミーだった。
彼は笑顔のままこう言った。このまま船には戻らずに、仲間のところに帰るべきだと。
今のうちに逃亡すれば身を隠すことは十分に可能なはずだ。ダイヤモンドを盗んだときみたいにスプリング家という組織など存在しなかったことにすればいい。そうすればもう二度と、アンタレス国のために利用されることもない。
人混みの中にいるせいで、聞き間違えたのかもしれない。シェリルはジェイミーの腕を引っ張って、人通りの少ない路地に移動した。
「笑えない」
ありったけの苛立ちをこめてジェイミーに詰め寄る。ジェイミーはまるで子猫の威嚇でもあしらうみたいに、平然とシェリルを見下ろした。
「笑わせようとして言ってるんじゃないから」
「そうは聞こえない。まだ実感がわいてないんでしょうけど、あなたは今大変な状況なのよ。今ここで私を逃がしたりしたら、どうなると思う?」
「どうなるかなんて、関係ないだろ。俺の問題なんだから」
「関係ある。私のせいであなたの人生、めちゃくちゃじゃない」
無意識に出てきた言葉に、思わず泣きそうになった。
ダイヤモンドを盗まなければ、ハデス伯爵と血が繋がっていないことが明るみに出ることはなかった。闘技場に連れていかなければ、カルロに殺されかけることはなかった。駆け落ちした少女たちを助けなければ。あの日、廊下でバケツなんてぶつけなければ。
全部シェリルが招いたことだ。だからちゃんと始末をつけなければいけないのだ。
そう伝えようとしたとき、ジェイミーの手がシェリルの肩に伸びた。なんだろう、と思った次の瞬間には強く抱き締められていて、何が起こったのかとっさに理解できなかったシェリルは、されるがままジェイミーの腕の中にすっぽりと収まることとなった。
早鐘を打っているのが、自分の心臓なのかジェイミーの心臓なのか動揺しすぎて判断がつかない。なすすべなく息を潜めていると、囁くほどに小さな声が降ってきた。
「シェリルと出会えて、すごく嬉しかった。だから自分のせいなんて、言わないでくれ」
雨を吸った布を介してゆっくりと体温が伝わってくる。湿った感触は不思議と不快ではなかった。広い胸に、安心感すら覚える。
ジェイミーがこんなに大きくて温かい人だったなんて、今まで気付かなかった。どちらかと言えば頼りない人だと思っていたのに。あっさり抱き込まれている自分は、とてもちっぽけだ。だからジェイミーはシェリルを頼りたいと思えないのかもしれない。
それでも。
「このままだと、カルロさんはダイヤモンドを返してくれないわ」
「いいよ。金にするなり、好きにすればいい」
「ジェイミー、私、あなたの力になりたいの」
離してくれる気配がないので、仕方なく腕の中で会話を続ける。頭上から困窮したような声が返ってきた。
「これ以上一緒にいるのはあんまりよくないと思うんだけど」
「もう騒ぎに巻き込んだり振り回したりしないわ。約束する」
「いや、そういうことじゃなくて……」
何かが気に食わないらしい。意外に気難しいのか。こうなったらもう無理矢理押しきるしかない。
「どうしてもだめ? 絶対に?」
顔色をうかがうと、ジェイミーはとても険しい表情を浮かべていた。
しばらく二人で睨み合う。
ゆっくりと、ためらうみたいに、ジェイミーの顔がシェリルの首元に近づいた。それから首筋に唇が触れる感触がした。タンポポの綿毛が落ちてきたみたいな、優しいキスだった。
シェリルは硬直する。なんだろう今のは。降参したということなのか。
混乱して頭が回らないシェリルをよそに、ジェイミーはガックリとうなだれてため息をついていた。
「……帰ろうか。このままじゃ風邪ひくし」
帰ろうと言いながら再びぎゅうと抱き締めてくる。
「あの、ジェイミー、動けないんだけど……」
「待って、もう少しだけ」
騒がしい鼓動は、それからしばらくの間、静まることはなかった。