9.騎士隊の本当の本当の(以下略)
――やってしまった。
シェリルは矢を掴んだまま固まった。目の前には顔に"困惑"という単語を張りつけた人々がいて、見開いた瞳をシェリルに向けている。ジェイミーだけは手元のナイフを見つめていた。あのときシェリルがナイフを投げたのだと気づいたようだ。
今やこの状況に気づいていないのは、シェリルに抱きついて泣いているアニーだけである。
シェリルは頭を懸命に働かせて、これからどうするべきか考えた。たまたま矢を掴めたなんて言っても、信じて貰えるはずはない。彼らはそこまで馬鹿じゃないだろう。何よりジェイミーがナイフとシェリルの顔を交互に見ている。完全にバレている。命運は尽きた。もはや打つ手はない。
いやいやちょっと待てと、頭の中でもう一人のシェリルが声を上げた。お前は何か悪いことをしたのか、何を絶望する必要があるのだと尋ねてくる。
瞬間、厚く覆っていた雲の間に光が差した。そうだその通りだ。自分はアニーの命を救っただけじゃないか。もう隠れて動く必要もない。強気に攻めるのみである。押して押して押しまくれば、なんとかなるに違いない。
「アニーさん、このまま座ってて貰えますか?」
シェリルはアニーの肩を掴み、穏やかな口調で言った。アニーはきょとんとした顔で頷いた。地面に座り込んだアニーは、ようやく場の空気がおかしいことに気づく。
シェリルはゆっくり立ち上がると、騎士隊が取り囲んだままのトマスの方へ足を踏み出した。瞬間、まるで催眠が解けたみたいにその場の全員が我に帰る。トマスは条件反射のように再び矢を放った。シェリルは身を屈めてそれを避け、矢は食料庫の入り口を抜け廊下の壁に突き刺さった。アニーが小さく悲鳴をあげる。それが合図となり、シェリルは勢いよく駆け出した。
「貸せ!」
トマスは隣に立っていた騎士から剣を奪い取ろうとしたが、シェリルがトマスの目前に到達する方が早かった。無意識にのけぞったトマスにシェリルが乗り上げる。結果、仰向けに倒れ込んだトマスにシェリルが馬乗りになる形となった。
「だ、誰だお前」
動揺した様子で、トマスは呟いた。シェリルは手に持っている矢の先端をトマスの喉に突き付ける。
「それは私のセリフよ。あなた誰。スプリング家なんて嘘はもう通用しないから」
先程と様子の違うシェリルに、トマスは困惑して言葉を失っている。誰一人として状況を飲み込めていない中、隊長が全員の気持ちを代弁した。
「なんだ。何をどうすればこんな展開になるんだ」
何が起こったかは分からないが何をすべきかは心得ていた隊長は、シェリルの後ろ首に剣を突き付けた。シェリルはわずらわしげに振り返る。
「何するのよ」
「いや、お前が何するのよ。俺の一般常識に当てはめるとどうやらお前はただの使用人じゃないな」
「ただの使用人じゃなくても剣を向けられる筋合いはないわ。私はアニーさんを助ける以外に何もしてないのよ。早く保護してあげてよ」
食料庫前の廊下に呆然と座り込んでいるアニーを指して、シェリルは言った。隊長はアニーを保護するよう数人に指示を出し、再びシェリルに向き直る。
「で、誰なんだお前は」
「私よりも、こいつの正体を明かすのが先」
シェリルはそう言ってトマスを睨み付けた。トマスはトマスでシェリルを睨み付けているので、まるで話が進まない。先に口を開いたら負けと言うような雰囲気すら漂っている。
「あのなぁ、そうやって睨み合ってる間にも限りある人生は過ぎていくんだよ。もうどっちでもいいから正体とやらを明かしてくれないか。どのみち二人とも逃げられないぞ」
隊長がため息混じりに語りかける。
口火を切ったのは、シェリルだった。
「スプリング家って話、嘘なんでしょ」
確信を持ってシェリルは断言する。トマスはわずかに表情をこわばらせたが、すぐに落ち着きを取り戻してみせた。
「残念ながら本当だ。信じなくても、かまわないが」
二人のやり取りを聞きつつ、隊員たちは部屋にある食材をあさったりとおのおの好きなことをしていた。いろいろなことが起こりすぎて完璧に緊張が解けてしまったようだ。
シェリルは余裕綽々でトマスを見下ろす。
「目星はついてるの。私の予想では、あなたの名前はオーガスト・マクドネル」
トマスは非常に複雑そうな表情でシェリルを見上げている。名前を言い当てられたという反応ではない。シェリルは驚き目を見開いて、首を傾げた。
「違うの? それじゃあ、レズリー・モートン。それか、ブレンダン・ボーデン。それともまさか、コリン・オフィーリ?」
手当たり次第に名前を言い当てようとするシェリル。隊長は気だるげに首を鳴らした。
「日が暮れるまで続けるつもりか?」
「あの、隊長。どうやらでたらめな名前を言ってる訳じゃないみたいですよ」
ジェイミーの言葉に、今日の夕飯のメニューに思いを馳せていた隊員たちが意識を向ける。
トマスの表情を見れば、ジェイミーの言葉はすぐに理解できた。トマスの顔色は真っ青で、今にも震え出しそうになっている。そんなトマスの表情から一瞬も目を離さず、シェリルは次々と名前を口にした。
「アビエル・カルヴァート、ジャスパー・ミレット、コリン・アデス、バート・コールソン、イーノック……」
そこまで言って、シェリルは口角を上げた。トマスの表情がわずかにひきつったのだ。
「バート・コールソン?」
「な……」
トマスは目を一杯に開いたまま、シェリルを穴が開くほど凝視した。シェリルが名前を言い当てたのだと誰の目にも明らかだが、それでもトマスは何とか平静を取り戻そうとしている。
「な、名前なんて、数えきれないほど持ってる。俺はスプリング家の人間だ!」
「それは嘘ね」
そう言ってシェリルは顔を上げた。未だシェリルの後ろ首に剣を向けたままの隊長の方へ顔を向ける。
「良い知らせと悪い知らせがあるんだけど」
「悪い知らせから」
隊長が威圧感を込めて促すと、シェリルは大して気にする様子もなく肩をすくめた。
「この男の本名は、バート・コールソン。もちろん、アケルナー国のスプリング家なんかじゃない。シャウラ国が雇った殺し屋よ」
瞬間、食料庫に緊張が走った。
「シャウラ国だって?」
ジェイミーが呟いた。シェリルが頷くのを見て、部屋の空気ががらりと変わる。隊長は表情を強ばらせつつも、しっかりとした口調でシェリルに尋ねた。
「根拠はあるのか」
シェリルはトマスを指差した。
「この反応を見れば一目瞭然でしょ。図星を指されたって全身で表現してるじゃない」
「演技かもしれない。お前ら本当はグルなんじゃないのか」
疑り深く言った隊長に、シェリルは勘弁してくれとかぶりを振る。
「冗談じゃない! こいつが現れたせいで私はすごく迷惑してるのよ」
「迷惑してるのは俺の方だ。黙って聞いていれば適当な事ばかり言いやがって」
未だに矢尻を向けられたままのトマスが憎々しげに吐き捨てた。シェリルは矢を持つ手に力を入れて、トマスを黙らせる。
「適当なこと? よく聞いて、シャウラ国の殺し屋さん。私の本名はシェリル・スプリング。アケルナー国が所有するスプリング家の一員なの」
「……はぁ?」
トマスは顎が外れるのではないかというくらいにポカンと口をあけた。ジェイミーや隊長もトマスと同様の反応である。シェリルは構わず言葉を続けた。
「奇遇よね。あなたもスプリング家の一員なんでしょ? でも私、あなたのことは見たことも聞いたこともない」
シェリルの言葉をよくよく飲み込んだトマスは、ゆっくりと口角を上げて乾いた笑いをこぼした。
「はは、参ったな。この女、正気じゃないぞ」
トマスは近くに立っている騎士たちに向かって言った。シェリルは正気じゃないという言葉にカチンと来て、眼差しを鋭くする。
「失礼ね。偽物のくせに」
トマスはますます可笑しいという顔をして、まるで酒浸りの人間を相手にするみたいにシェリルを諭そうとした。
「スプリング家について実際に調べたことはあるのか? あれは暇な奴らが考えた都合のいいおとぎ話だ。現実に存在する証拠なんて、いくら探したって、どこにもなかった」
「あらあら。皆聞いた? この男自滅したわ」
シェリルが得意げな顔でジェイミーたちに言った。トマスはすでにスプリング家を装うことを諦めているのか、慌てる様子はない。
「自滅しているのはお前の方だぞ。どこの誰かは知らないが、選択を誤ったな」
「失礼ね。私はあんたと違って嘘はついてない」
「二人ともそこまで」
隊長がうんざりという顔で、シェリルとトマスの間に剣をかざした。言い争っていた二人は口をつぐむ。
「詳しい話は牢で聞く」
隊長はそう言って、いつの間にか騎士の一人が持ってきていた鉄枷をシェリルの腕に嵌めようとした。
「あ、ちょっと! まだ話は終わってないってば!」
「暴れるな!」
どうにかこうにかシェリルとトマスを拘束したジェイミーたち。騎士隊の長い戦いはようやく幕を閉じたのであった。