欠格者の烙印(中編)
おっとり刀で消防隊が駆けつけてきたときには、俺たちはもう現場から逃走していた。
江戸川区農業協同組合の事務所を不法占拠して『進駐軍』を詐称していた半島ヤクザは、文字通り壊滅。
そして俺は、初めて『乳母の断罪』を目の当たりにして、その恐ろしさに肝を冷やしていた。
何事も無かったかのように、俺の隣で歩いている小柄な少女。
気が強そうな険がある表情だが、美少女だ。
しかし彼女が軍刀を振るうと音もなく鋼鉄は両断され、飛来する拳銃の弾は『氣』だけでぐにゃりと軌道を変えてしまった。
俺の出る幕などなかった。勿論、念のため待機していた狙撃手も。
超絶の武技も恐ろしいが、最も怖かったのは乳母見習いの少女、巴と名乗った彼女の心のありよう。
相手を『悪』と判断した瞬間に、慈悲もなく、後悔もなく、斬ったのだ。
まるで、何かの作業でもあるかのように。
表情一つ変えることなく。
まぁ『乳母』という存在は、そのためにあるのだから当然といえば当然なのだが、可憐な外見とのあまりの落差に俺は衝撃を受けてしまった。
珍しいのは、巴が示現流を遣ったこと。
四百年もの間、徳川幕府に付いて『鬼』を狩っていた関係上、いわゆる幕府系の剣術を遣う乳母が多かったのである。
直心影流とか甲源一刀流とか心形刀流とか柳生新陰流とか小野派一刀流などだ。
幕末の一時期、討幕派の志士とやらが使った北辰一刀流、神道無念流、鏡新明智流、薩摩の示現流等は、討つべき『鬼』が遣う傾向があったので、使用を避ける傾向があった。
示現流にも分派があり、幕末の薩摩藩士、中村半次郎……通称「人斬り半次郎」……が遣ったのは野太刀示現流という。巴が遣ったのは、やはり示現流の分派で薬丸示現流らしい。
乳母の武技として『示現流』という選択も珍しいが、更にその分派というのも不可解である。
使用武器が、官給品の大量生産品の軍刀というのも珍しい。
名のある刀工が造った一振には、それだけで『氣』が籠る。
己の『氣』を刃に乗せて必殺の一撃を放つ『乳母』は、いわく因縁がある名刀を使役するもの。
家督を譲った弟の忠が、俺の式神『雷獣』と相性がいい備前長船の系列の一刀『山姥切国広』を寄贈してくれており、それを貸すと言ったのだが、断られた。
「この無銘の軍刀は、ある方の遺品。想いが込められた刀なのです」
それが、巴の回答。
目を見てわかった。これは、この少女の恋人のものなのだ。
世間から隔絶された純粋培養みたいな『乳母』と、どうやって出合ったのか謎だが。
それにしても、人と想いを通わせる『乳母』など、規格外もいいところだ。
だが、先祖伝来の誓約を破った『欠格者』には、コンビを組むならお似合いかも知れない。
つまり、俺はこの奇妙な『乳母』、巴を気に入ってしまったのである。
カストリ工場に戻ると、また佐竹が困った顔をして俺を待っていた。
「また、女学生さんです。帰れと言ったのですが、そのまま居座ってしまいまして……」
死んで当然の不逞の輩とはいえ、大量殺人を見てきたばかりである。
これ以上の厄介事は御免こうむりたいところなのだが。
だが、困り果てた佐竹を見ていると、無下にも出来ない。
「わかった」
と、俺が言うと、佐竹はほっとしたような顔をする。
俺の工場には、寮があり、広い食堂もある。
笑い声は、食堂の方から聞こえた。
俺たちは米兵による捕虜虐待の現場『食肉工場』で、深い心の傷を負った。
こんな風に笑い声が弾けるのは珍しい。
「何事っすかね?」
いつの間にか、俺の隣に立っている 木苗 助九郎 が、言う。
一キロメートル先のドングリを撃ち抜く……と、言われる部隊の首席狙撃手だった男だ。
我々の後方支援についていたのは、この男だったらしい。
革のケースを肩に担いでいる。
中に入っているのは、念入りに調整された『三十八式歩兵銃・狙撃仕様』だろう。
普通の三十八式歩兵銃よりやや銃身が長く、スコープをセットする受け金がついている銃だ。
「さあな」
ため息をついて、寮と工場の間にある食堂に向かう。
巴が興味のない顔で、木苗はコイツ特有の不敵な野良猫を思わせる人を小ばかにしたような笑みのまま、俺についてくる。
食堂からは良い匂いがしていた。
ガタピシ鳴る引き戸あけると、何かが焼ける香ばしい匂い。それに味噌の香りがした。
「あれまぁ、午馬さん? えらい良い男だで」
素っ頓狂な声。珍しい事に、従業員の野郎どもがくすくす笑いをしている。
モンペ姿に割烹着、頭にあねさんかぶりで豆絞りの手拭いを巻いた少女が、並んでいる従業員に、『ほうとう』らしき料理を振る舞っているところだった。半紙に、平べったい焼き色のついた饅頭みたいなものがならべられている。多分、これは『おやき』だ。
声の主は、全体的にシャープな印象の巴とは全く正反対の顔の造作だったが、可愛らしい娘さんだった。
好奇心いっぱいのくりくりと大きな眼が俺に向けられていた。小ぶりな鼻。微笑を刻んだ唇はぽってりと厚く、少女というよりは、純朴な田舎の少年といった風情である。
「あ、いけね、いけね、あたしったら無作法なことで」
慌てた様子で、あねさんかぶりの手拭いを、彼女が毟り取る。
手拭いの中にたくし込まれていた、左右に編んだ三つ編みの髪がはらりとこぼれた。
こほんと、一つ咳払いをすると、彼女は……
「午馬殿がお御留守だったので、勝手ながらお邪魔しました。私の名前は『物部 綾子』と申します。『あれ』の回収を担当いたします」
……と、自己紹介をした。さっきは、信州訛りだったが、今回は標準語だ。
「物部」
巴が小さな声でつぶやく。
当麻家や午馬家と並ぶ、古い古い鬼やらいの家系『御五家』の一角が物部家だ。
権力と結ぶ他の四家と違い、物部家は信州の山奥で徹底した独立主義を採っており、調査機関も実行部隊も独自のものだ。
魔剣『鬼包丁』回収、封印に物部家が動いているという情報は、巴から聞かされていたが、俺はてっきり物部の実行部隊『物部の兵』が来るのだと思っていた。
まさか、物部姓を名乗る『一門衆』が動くとは……。
これで、当麻家の名代『乳母』、欠格者に堕したとはいえ一度は午馬家の当主だった俺、加えて物部家の一門衆と、この日ノ本を霊的に守護する一族の最高峰が三つも揃った事になる。
それほど『鬼包丁』の逃亡が一大事だということ。
「台所をお借りして『ほうとう』と『おやき』を作りました。どうぞ、どうぞ」
純朴そうな顔をほころばせて、物部 綾子 が、ひらりと笑った。
長野の郷土料理である「ほうとう」と「おやき」は、旨かった。
物部の一門衆である綾子は、俺たちの胃袋をしっかりと掴んでしまったらしい。
物部一族といえば、様々な薬効のある動植物を複雑な工程で調合し、異形の魔物や鬼すらも苦悶する毒薬を作ることが出来ると聞く。
木苗の「この汁はやたらに旨い。調味料は何ですか?」という質問に綾子は「秘伝の調味料」と回答していたが、それを聞いて俺は吐きそうになってしまった。
物部の秘薬とか、しゃれにならん。
乳母見習いの巴は、全く気にならない様で、無表情のまま「ほうとう」をすすり「おやき」にパクついていた。
周囲の者に緊張感を強いる気配がある巴に対し、綾子はふわりと暖かい風が吹くような雰囲気だった。
傷を負った男たちが、思わず表情を綻ばすほどに。
相手を怯えさせないように……と、特に女性相手だと、焼け爛れた顔を隠すようにしている佐竹ですら綾子を中心とした会話の列に加わっていた。
いつの間にか、俺の部屋が巴と綾子の滞在場所に決められ、男たちが様々に二人の少女の世話を焼く。
巴には女王にかしづく様に。
綾子には慈母を敬うかの様に。
俺は毛布一つで、工場の執務室に追いやられ、ここの古ぼけたソファで眠る羽目になった。
唯一の楽しみである大きな浴槽での入浴も、彼女らの使用時間が優先され、棒を持った護衛がつく有様を見て、俺は頭が痛くなった。
「さっそく、今夜から始めますらい。東京の精密な地図と方位磁石を用意願います」
そう言い残して、綾子が風呂場の脱衣所に消える。
地図を何に使うのか、聞こうと思ったのだが、門番よろしく仁王立ちしている当番兵に行手を遮られる。
「午馬中尉といえども、この先は通れません」
だと。小娘に簡単に転がされやがって、情けない連中だ。
湯上りの少女二人が、サイダーを片手に、机に広げられた地図の前に立っていた。
サイダーはクエン酸と重曹と水と砂糖を混合して作った自家製で、薬科大学卒の野口という男が従業員用に作って井戸で冷やしてあるのだ。
佐竹が、この二人がいる執務室を覗こうとしていた、若い連中を追い払い、やっと静かになったところだ。
俺に嫉妬の眼を向ける馬鹿どもは、この二人がいかに恐ろしい存在なのか、知らない。
「替わりたや」
などといった声も聞こえたが、替われるものなら替わってほしい。
「酸っぱくて、塩が仄かにきいて、甘くて、おいしいねぇ、おいしいねぇ」
綾子が上機嫌で言う。
彼女は、洗い髪で寝間着代わりに持参したらしい浴衣が濡れてしまわないよう、背中まである長い髪を結い上げ、タオルで包んでいた。白いうなじと、浴衣を押し上げる豊かな胸。まぁ、若い連中には目の毒か。
「そうだな」
地図を睨みつつ、瓶からサイダーをラッパ飲みする巴が、平坦な声で応じる。
こっちは、キチンとセーラー服に着替え、喪章を思わせるスカーフもきっちりと結び、ストッキングまで穿いている。左手には、あの軍刀が入った布包。彼女は、片時も軍刀を手放さない。
「そんじゃ、はじめますらい、ウェップ」
残りのサイダーを一気に飲み干し、小さくゲップをして、綾子が腕まくりをする。
方位磁石を置き、磁北線を定め、地図に方角を合わせる。
「ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり ゆらゆらと ふるべ」
綾子が半眼になり、地図の上に手をかざす。唱えられたのは、古神道の『ひふみ祓詞』。
物部一族は古神道を術の基にしているというが、その通りだった。
すると見よ、彼女の柔らかそうな手の甲に、大匙二杯ほどの金粉が湧き立ち、指の股に向かって流れ落ちてゆくではないか。
四条に別れた金粉の流れは、彼女の手の下で絡み合い、組紐状に編まれてゆく。
俺は『物部の兵』と合同作戦をしたことがあり、正体不明の金粉を鎖状に編む『物部の金鎖』を見せてもらったことがある。
だが、その兵が遣った術は、手の表面にうっすらと金粉が浮かび、髪の毛より細い鎖を編んだだけだった。
形状の複雑さといい、発生する金粉の量といい、綾子は桁違いだ。
しかも円錐形の錘まで、組紐の先に形成されている。
「探してもらいましょ」
そう言って、綾子が笑う。
俺には、その無邪気な笑みが、恐ろしいモノに見えてきた。
円錐形の錘がついた金色の組紐は、まるで意思があるかのように、円を描くように振れる。
綾子の手は微動だにしていない。
巴は特に驚くこともなく、円錐の尖った先を見ていた。
何処を指し示すのか? それしか興味はないらしい。
地図全体を俯瞰するかのように、大きく動いていた円錐が、楕円軌道を描くようになり、それに沿って、綾子が手をかざす場所を動かしてゆく。
円錐の振れは次第に小さくなり、不可視の指がそれを止めたかのように、ピタリと一点で止まる。
その場所は、皇居と東京駅の中間。
皇居の近くということで空襲を免れ、焼け残ったオフィスビル『第一生命館』だった。
「General Headquarters 鬼包丁の標的は、いわゆるGHQですね」
しゅうしゅうと、綾子の手から組紐と円錐形の錘が消えてゆく。
きれいなクィーンズ・イングリッシュの発音で、彼女は標的を予測した。
物部以外の一族は、警察機構と結んで大勢の調査機関を動かして『鬼』を追い詰める。
だが、物部だけは『星見衆』という占術のみを磨き上げた集団を有し、占術によって『鬼』を追う。
今、綾子が見せたのは、謎多き物部系退魔術の一端か。
当麻系退魔術とは異質だ。物部は、なにやら呪術的な要素が強い。
彼らとの合同作戦の際、現場が険悪になったのは、この方法論の違いによる。
―― 忠の野郎、本家に類を及ぼさないために、俺を使ったな
欠格者なら、問題発生時に「あれは、当家とは無関係」とすることが出来る。
乳母見習いなどという、異例の戦力導入も、同様の理由だろう。
―― なるほど、俺たちは『捨て駒』か
気の進まない任務だったが、急に闘志が湧いてきた。
いいぜ、お高く留まったやつばら。意地ってやつを見せてやろうじゃないか。
目を上げると、巴が俺を見ていた。
そして、ふっと薄く笑う。まるで、
―― それでいい
……と、肯定されたかの様だった。
東京は怨嗟の声に満ちている。
GHQは国連の機関であり、正式には『連合国軍最高司令官総司令部』という。
米兵が中心で、少数英兵、豪兵がいた。
米兵による暴行事件は非常に多く、占領下のたった七年間で、米兵による民間人殺害は二千五百人余、暴行傷害事案は三千件を超える。婦女暴行事案は、発覚している案件だけでも二万件に及び、これらの多くが「ジャップは殴っても殺しても強姦しても無罪」というクソ米兵のクソ不文律に守られ、犯人が裁かれることはない。
これを、半島ヤクザや大陸マフィアが真似しているのだから、手が付けられない有様だ。
だから怨嗟の声が満ちる。
憎しみが憎しみを呼ぶ。
古来より、呪詛や『鬼』は、虐げられた弱者を苗床にして蔓延するものだ。
「標的が判ったのなら、敵の立場に立って襲撃を予測しよう。まずは、情報収集だ」
俺は『鬼』を追い、降魔の行を成す者。
脈々と伝えられてきた午馬の血が、久しぶりに疼いていた。
俺は偶然など信じない。
今、この時期に『鬼包丁』が逃亡したのには、何か理由がある。
皇居の畔にある、我々の負け戦の象徴で、日常と異なる何かがあるはすなのだ。
綾子は占術で標的を定めた段階で、情報収集における自分の役割は終わったと思っているのか、工場の厨房の手伝いを買って出ている。
巴は、情報収集は自分の役割ではないと決めているらしく、ひたすら剣技を磨く作業を繰り返していた。
タイプが異なる美少女が二人、工場に滞在しているとあって、工場内の空気が浮ついていた。
「色気づきやがって、馬鹿ども」
と、思わなくもないが、異性を意識する程度にはここでの生活も安定してきたということで、地獄のような捕虜虐待の経験も、徐々に折り合いをつけてきたということなのだろう。
深い切り傷も、やがて瘡蓋に覆われ、再び肉が盛り上がるように。
俺は……俺はまだ、心は戦場にいる。
許されざる穢れ。
寄る辺なき者。
それが俺だ。
明確な敵が示され「追え!」と、放たれるのが楽しい。
力は強いが、器用さがない『雷獣』を放ち、GHQ深くに潜入する。
機密を覗く。
障害は簡単に『排除』した。
俺はGHQを守るために動いているのではない。
GHQを霊的に防御するために、ナヴァホ族などの呪術師集団、通称『風聴隊』の罠や抵抗があったのだ。
俺が、情報収集全般を受け持つことになってしまっていた。
それは別にかまわなかった。
いかに剣技が素晴らしくても、いかに超絶の呪術を使おうとも、戦場の組み立てや戦術の企画・立案・実行は出来ない。
やれる者がやれる事を成せばいい。
俺単独での情報収集なので確度がイマイチだが『鬼包丁』の標的らしき物は見えてきた。
ヒントは『鬼包丁』を盗み出した不逞米兵にあった。
不逞米兵は、『鬼包丁』の魔性に憑かれ、錯乱状態で射殺されたが、その際この男の食道からみつかった、小さく畳まれたポスター……
『酒に酔っぱらったジャップどもの突撃の様を見よ。アメリカ海兵隊の優秀な兵士たちの実弾演習の様子を見よ。今晩オールナイト上演。入場無料、さぁお友達を連れていらっしゃい』
……だった。
これは、サイパン島防衛戦の際に、サイパン島守備隊が絶望的な玉砕戦を決意した事を、捕虜から情報を得た米軍が作った悪意あるジョーク・ポスター。
不逞米兵射殺をしたのは、米軍の憲兵隊だが、それに日本人の警察官も協力してる。
その警察官は、事件後姿を消した。
不逞米兵射殺時、ひょっとしたら『鬼包丁』に憑かれたのではないか? と、俺は思ったのである。
当麻の人脈を使って、人事情報も入手してある。
その警察官の名は、仙道 九十九。年齢は三十歳。直心影流の免許皆伝の腕前。
警官の逮捕術指導教官をしていた男らしい。
仙道の弟はサイパンで戦死している。
そして、三日後サイパンで海兵隊を指揮していた『吠える狂人』こと、ジョン・スミス中将がアメリカへの帰国の途上、GHQに寄ることになっていた。
一日滞在し、現地視察も行うようだ。
例の悪意あるジョーク・ポスターだが、このジョン・スミスが大量に刷らせて配ったという。
「これは、殺害予告ではないのか?」
サイパンでの捕虜虐待や民間人虐殺は酸鼻を極めた。
その憎悪の念に『鬼包丁』が反応したのではないのだろうか。
サイパンから硫黄島など、激戦の上陸作戦の最前線に立ち続けた英雄がジョン・スミス。勇ましい仇名は伊達ではない。
その『英雄』の暗殺事件など、東京の最悪な治安が更に悪くなる。
憎悪は憎悪を呼び、ただでさえ無抵抗の民間人に加えられる卑劣な米兵どもの暴力はエスカレートするだろう。
暴力に晒された市民の憎悪もまた、濃く深くなってゆく。
標的は目処がついた。
だが、最前線で米兵の暴虐を見てきた身には、何か複雑な気分ではある。
心のどこかに、仙道 九十九 に ジョン・スミス を討たせてやりたいという気が無いといえばウソになる。
唸りつつ、河原に面した工場の門扉に背を付け、クソ不味いクソ煙草のラッキー・ストライクを咥える。
オイルライターで火をつけた。
「お嬢様方の髪に、タバコの臭いが移っては、一大事である」
と、敷地内での喫煙は禁止になってしまった。実に面倒くさい。
「貴方も『鬼やらい』の者なら、迷いは禁物と判っておりましょう」
不意に声がかかる。
見なくてもわかる。当麻の乳母見習いの巴だ。
気配を察知できないのはいつもの事なので、今や驚かない。
俺が衰えたのではなく、この少女が特別なのだ。
「俺は俗人なのでね。ご立派であられます乳母様とは違いますぜ」
返す口調が辛辣になるのは、迷いが図星だから。
それを察したか、巴がふふんと鼻で笑う。
「乳母は、単なる現象です。単なる武器です。武器を操る意志が『鬼』を斬るのです」
彼女は、いつでもズバリと本筋に斬り込んで来る。まるで、薬丸示現流のように。
「仙道 九十九 を討つ。それが、午馬の役目だからね」
気配で、彼女が頷いたのがわかった。
夏の夕方。
空には入道雲。
白い軌跡を曳いて、三機の戦闘機が飛んでゆく。
とっさに隠れたくなる衝動に駆られなくなったのは、何時からだ?
俺もまた、新しい時代に順応してきているのだろうか。




