6歳は素直、96歳は嫉妬深い
一人の少年が街を歩いていた。清潔な真っ青のトレーナー、短く切られたつやのある髪、日を受けて輝く黄金色の目。見るからに素直で元気に育ったと分かる少年だった。突然、その少年の前で老人が崩れ落ちるように倒れた。
遠目でも脂ぎっているのが分かる薄い白髪頭、汚れて黄ばんだ布切れのような服、鼻を塞ぎたくなるような異臭。みすぼらしいという言葉を形にしたような老人だった。街ゆく人々は、露骨に嫌そうな顔をして、また別の人は見なかった振りをして震える膝で何とか立ち上がろうとする老人をあからさまに避けて歩いた。そんな中、優しいその少年はそっとしゃがんで肩を貸した。老人は少年の肩を借りてやっとのことで立ち上がると、伸びきった白いひげの中で優しく微笑んだ。
「ありがとう、坊や」
「どういたしまして!」
「助けてくれたお礼に坊やにいいものをやろう」
「いいもの?」
少年はきょとんとした顔で老人を見あげる。
「何でも願いが叶う力だ」
「何でも?」
「あぁ」
少年はぱっと顔を輝かせる。
「ただし――、一つ願いを叶える度、その時の年齢分の時間を坊やは失う」
「どういうこと?」
「坊やは今何歳だい?」
「えっとね、6歳だよ!」
少年は手で6を示して見せる。
「そうだね、簡単に言えば、今坊やが願いを叶えたら6年後の世界に、もう一度願いを叶えたら12年後の世界に行ってしまうということだ。それでもこの力が欲しいかい?」
「うん!」
少年は元気よく頷いた。少年にとって願いが叶うというお伽話のような力は、7年という実感の湧かない歳月なんて目に入らないほどに魅力的で、興味を引かれるものだった。老人は優しく微笑んで少年の頭を撫でた。
「よし、これで坊やの願いは何でも叶うぞ。叶えたいことがあったら心の中で強く願ってごらん」
「ありがとう、おじいちゃん!」
少年はよく通る声でそう言って、軽い足取りでその場を去った。
歩いていると、公園の隅でうずくまっている少女が少年の視界に入った。優しい少年は少女のもとへ向かい、どうしたの、と尋ねた。少女はそっと顔を上げる。どうやら泣いているようで、目の周りを真っ赤にして顔中を濡らしていた。
「あのね、うさぎさんがね、死んじゃったの」
少女はヒクヒクと嗚咽を漏らしながら呟いた。それだけ言うと少女は肩を小刻みに震わせてまた泣き出す。少女の前には小さな土の山ができていて、その隣には土で汚れたオレンジ色のスコップが転がっていた。
「またうさぎさんに会いたい?」
少年が少女にそう問い掛けると、少女は赤く腫れた目で少年を見上げ、こくん、と力無く頷いた。優しいその少年は、老人に言われたように心の中で強く願った。うさぎが生き返りますように、と。すると突然、少女の前の土の山がもぞもぞと動いて、真っ白な毛がちらりと覗いた。少女は驚いたように目を見開いて、土を掻き分けてその塊を抱き上げる。軽く土を被ったそれは、数回ぱちぱちと瞬きをして、土を払うように体を振った。それは間違いなく生きたうさぎだった。少女の顔が一瞬にしてほころぶ。そして大切そうにそのうさぎを抱きしめて頬擦りをした。
「ありがとう!」
少女の笑顔が嬉しくて、少年も微笑んだ。少年は少女に別れを告げて歩きだした。すると突然、少年の視界が真っ暗になった。眠りに落ちる時のような感覚だった。
少年は目を覚ました。真っ白な文字で一杯の黒板と、その前で声を荒げる教師が目に映った。周りを見渡すと、セーラー服と学ランを着た生徒たちがそれぞれの机に向かい、教師の話に熱心に耳を傾けていた。自分の体に視線を落としてみれば周りの男子生徒と同じ学ランを身につけていた。ああ、そうだ。あれから6年たったのだ。自分は中学生で、今、中学校で授業を受けている。記憶が戻り、状況を理解すると少年はふう、とため息をついた。
あまりにも退屈な授業を他の生徒たちのように熱心に受ける気にはなれなかったので、少年は頬杖をつきながら周りを見回していた。すると、たまたま振り向いた一人の女子と丁度目が合った。さらさらの長い髪に、小さい鼻と口、それとは対象的にぱっちりとした目。その目に見つめられて、少年の心臓はトクン、と強く鼓動を打った。それを悟られないように、と少年は露骨に不機嫌な顔をしてみせる。すると彼女は眉を吊り上げて顔をそらすようにつん、と前を向いた。少年は焦る。嫌われてしまったのではないか。そんな疑念で胸がもやもやしていてもたってもいられなかった。気づくと少年は胸の中で、「彼女に嫌われませんように」、と強く願っていた。
すると突然、彼女が振り向いた。彼女の顔に浮かべられた輝かしいほどの笑みに、少年の鼓動は早まった。彼女の口がわずかに動いている。少年がそれを注意して見ると「すき」、と彼女の口は動いて伝えようとしているようだった。とたんに少年の顔は紅潮する。彼女も頬を染めてはにかんだ。言葉に表せないような幸せだった。しばらく彼女に見惚れていると、またしても少年の意識は暗闇にとんだ。
目を覚ます。コーヒーの臭い。パソコンのキーを叩く音と、わずかな人の声。そっと目を開いて周りを見渡す。パソコンのモニターにかじりついている人、書類をコピーする人、コーヒーを運ぶ人、それぞれがそれぞれ忙しそうに駆け回っていた。もやのかかっていた意識がはっきりとし、少年、いや、もう青年といったほうがよいのであろう彼はここが自分の勤めている会社であることを思い出した。自分は12歳から倍になり、そう、24歳だ。入社して2年がたち、ようやく仕事にも慣れてきたところだった。
「おい!」
突然の背後からの怒声に背筋が伸びる。恐る恐る振り向くと、そこには眉間に何十ものしわを寄せ、怒りを露わにした自分の上司が立っていた。
「何でしょうか……?」
「この忙しい時期に居眠りとはどういうことだ!」
上司はそう叫ぶようにそう言って、手に持っていた書類を青年に投げつけた。青年は反射的に目を固く閉じる。いつの間にか周りはしんと静まり返っていて、書類が地面に落ちる音がやけに大きく聞こえた。青年はそっと目を開ける。
「しかも何なんだこれは、間違いだらけでとても使えたものじゃない!」
「すみません!」
青年は平謝りする。
「お前が本当に使えない奴だと上にも報告するからな、お前、これから自分がどうなるかよく考えておけよ」
上司はそれだけ言い残し、ふん、と大きく鼻から息を吐き出して青年のデスクを離れた。青年は呆然としてしばらく床に散らばった書類を拾うことすらできなかった。周りはまた先ほどと同じわずかな喧騒を取り戻していた。上司に説教を受けたことはこれが初めてではなかった。しかし、先ほどのあれは説教というよりも、ただの怒りのようで。自分はどうなってしまうのだろう。クビか? 昇進が見送られるのか? そう考えると青年は立ちあがることができなかった。ああ、そうだ。今あの力を使えば──。青年の頭にその考えが浮かんだのとほぼ同時に、青年は「仕事が上手くいきますように」と強く願った。
その瞬間にわずかな音と共にドアが開いた。振り向くと、そこには綺麗にスーツを着こなした一人の初老の男性が立っていた。周りが一瞬にしてざわつく。彼は、平社員の青年はめったに目にしないようなこの会社の重役であった。彼は青年のデスクに速足で近づく。そして、青年の前で足を止め、満面の笑みを顔に浮かべた。
「君の出した企画書が予想以上好評でね。ありがとう。君のような社員を持てて私は幸せだ」
彼はそう言って、もう一度ほほ笑んだ。青年はこれで懲戒処分は免れるだろう、とほっとすると同時に、いや、それ以上に、あふれんばかりの達成感をおぼえた。仕事が楽しい、もっと成功したい、そんな気持ちで青年の胸は一杯になっていた。重役と別れ、青年が意気揚々として自分のデスクに向かうと、その瞬間に視界がぱっと暗転した。
目を開ける。目の前には不機嫌そうな顔をして片手に携帯をいじる少女と、小太りの中年の女性がそれぞれ食事をしていた。そうだ、目の前にいる二人は自分の娘と妻である。自分は24歳のまた倍になって今48歳であるはずだ。食卓に会話は一切なく、食器と箸がぶつかる音と、わずかな咀嚼の音、そしてテレビのバラエティ番組の司会者の声だけが狭い部屋に響いていた。テレビから流れる黄色い笑い声が耳に障り、チャンネルを変えようとリモコンを手に取る。その瞬間、娘が舌打ちをするのが聞こえた。
「は? まじ無いんだけど。きもっ」
娘はそれだけ言い捨てると、当てつけのようにをがしゃんと音を立てて食器を机に置き、すたすたと自分の部屋に戻って行った。ドアを荒々しく閉める音が遠くで響いた。妻はそれを顔をあげて見ようとすることすらしないで、ただ黙々と箸を進めていた。思わずため息がこぼれた。一家団欒の食事だというのにこの有様である。
あれほど愛していた妻への想いも妻の容姿の衰退と共に枯れ果て、娘には虫のように邪険に扱われ避けられる日々。おまけにあれほど充実していた仕事にもやりがいを感じなくなっていた。ただ毎日が退屈で退屈でしかたがなかった。いつからこうなってしまったのだろう。過去に戻って、もう一度あの輝かしい若き日々に戻りたい。人生において一番大切なものは、若者だけが持つ活力であると身を持って感じていた。後先考えずに幾つもの願いを叶えてしまったせいで自分はこんなにも早く年老いてしまった。後悔しかなかった。願いはただ一つだった。気がつけば、48年の前の世界に戻りたい、そして人生をやり直したい、と強く願っていた。その瞬間、世界が闇に包まれた。
車の音、大音量で流れる音楽、人々の声。どうやら騒がしい街の中にいるようだった。恐る恐る目を開ける。予想通り自分は大通りの中心に立っていた。落ちていた雑誌を拾って日付を確認する。丁度48年前の年を知らせる数字が目に飛び込んできた。歓喜に震えた。
その時、雑誌に添えていた自分の手が目に入った。乾燥してひび割れ、所々汚らしい染みで変色した、枯木のような手だった。それが6歳の少年のものではなく、96歳の老人のものであることは一目瞭然だった。48年の前の世界に戻る、という願いを言葉の通りにだけ叶えて、自分の歳はまた倍になったようだった。老人は絶望した。雑誌は手から滑り落ちていた。自分の人生はなんと短くて、意味のないものだったのか。ああ、そうだ、あれは罠だったのだ。あの薄汚くて臭い老人は魔法使いなんかではなく、悪魔だったのだ。あの男のせいだ。あの男のせいで自分の人生は台なしになってしまったのだ。憎い。憎い憎い憎い憎い。あの老人も、街行く幸せそうな人も、この世界も、全てが憎い。この憤りを自分はどこにぶつければいいのだろう。痛いほどに悔やんでも時は戻らなかった。老人は力任せに足元の小石を蹴り飛ばした。小石は弱々しく数メートルだけ転がり、そして止まった。
その時、ふと、老人の脳裏にある考えが浮かんだ。老人はニヤリと意地汚い笑みを顔に浮かべる。老眼のせいでぼやけた瞳に、軽やかな足取りで歩く青いトレーナーの少年が目に映った。
老人は、その少年の前でわざとらしく倒れてみせた。