「レモン水売りの分際で魔法学院に口を出すな」と追放されましたが、王都の井戸三百十二本を十年浄めていたのはわたくしですので、どうぞご自由に濁った水をお飲みくださいませ
「レモン水売りの分際で、魔法学院に口を出すな」
王立魔法学院、第一議事堂。
三十二人の教授が並ぶ半円卓の中心で、筆頭教授ヴィクトール・ラングレーがわたくしを指差しました。
金の髪。琥珀の瞳。微笑みを崩さないまま人を刺す、社交界の花形。
わたくしは袖を捲った作業着のまま、議事堂の床石の上に立っております。手は水仕事で荒れ、爪の間には第二百八番井戸の砂が残っております。
「本日をもって、王都井戸巡回制度は廃止とする。今後の王都水質管理は、私の《広域浄化》が一括して担う。——給水雑務係、リディア・ウェルナー。君の職は、消滅した」
「……左様でございますか」
笑い声が、さざなみのように広がりました。
「毎朝、桶を担いで井戸を回る? 十年も? 魔法の時代に、なんと滑稽な」
「まあ、リディアさん。お水を売るなんて、たくましくていらっしゃること。銅貨二枚でしたかしら?」
傍聴席から、鈴を転がすような声。
白金の巻き髪に菫色の瞳、聖女候補エルミナ・ラングレー。ヴィクトール様の異母妹君です。
「はい、二枚でございます。レモン込みで」
「……ふふ、正直な方」
「衛生的にも問題があるな」ヴィクトール様が続けます。「素手で水に触れるなど、野蛮だ」
「素手で触らなければ、濁度は測れませんので」
「だくど?」
「……いえ。ご存じないなら、結構でございます」
——前世の記憶が、静かに首を振りました。
(水道局浄水課、勤続十二年。会議で正論を言って通ったことは、ただの一度もなかったな)
わたくしは前世、日本という国の地方公務員でした。四十一歳、配管点検中の事故で死にました。最期に見たのは、噴き出す濁水と、非常灯の緑。
目が覚めたら、この世界の没落男爵家の三女でした。
生まれ持ったギフトは《浄化》。
——飲用可能な水質基準まで不純物を分解し、その水質を記録として七日間保持する。
戦闘には一切使えません。魔物も斬れません。派手な光も出ません。
ですがわたくしには、前世の知識がありました。
水は、測って、記録して、初めて管理できる。
「反論はあるかね、ウェルナー嬢」
ヴィクトール様が、優雅に首を傾げます。
「ございます。《広域浄化》の持続時間は三時間。それから、地下水脈に魔素が高濃度で溶け込んでいる場合、効果は——」
「黙れ」
微笑みが、わずかに歪みました。
「……はい」
「平民同然の雑務係が、魔法理論を語るな。三百十二本の井戸など、私が朝の散歩ついでに浄めてやる」
三百十二本。
わたくしは、少しだけ目を細めました。
「三百十二本。——数だけは、正しく覚えていらっしゃるのですね」
「何だと?」
わたくしは深く息を吸い、それから、いつもより一段柔らかい声で言いました。
怒れば怒るほど、声が柔らかくなる。前世からの、悪い癖です。
「そうですか」
「——では、どうぞ。ご自由に、濁った水をお飲みくださいませ」
議事堂が、静まりました。
わたくしは背を向け、扉へ歩きます。作業靴の底が、床石を鳴らしました。
扉の前で、一度だけ振り返ります。
「ああ、ひとつだけ。第八十九番井戸は、昨年の秋から湧出量が四割落ちております。上流の地層で、何かが起きております。放置すれば、二年以内に涸れます」
「だから何だ」
「いえ。……申し送りです。それだけでございます」
公務員というのは、そういう生き物ですので。
◇
「姐さん! 姐さん、大変だ、あいつら——帳面! 姐さんの帳面、全部持ってった!」
下町の倉庫へ駆け込んできたのは、助手のノラでした。赤毛のそばかす娘、十六歳。声が大きいのが唯一にして最大の長所です。
倉庫の棚は、空でした。
十年分。三百十二冊。
一本の井戸につき一冊。毎朝五時、濁度・臭気・湧出量・水温——この世界に計器がありませんので、前世の知識で職人に作らせたガラス管と試薬紙で測った数字が、びっしりと書き込まれていた帳面。
「そうですか」
「そうですかって、姐さん! 中庭で燃やすってさ! 『旧時代の紙屑を清算する』とか言って!」
「燃えますね、紙は」
「姐さん!! 十年分だよ! 三百十二冊!」
わたくしは空の棚をひとつ、指でなぞりました。埃が、線になりました。
それから、ゆっくり振り返ります。
「ノラ。三日前の夜、わたくしはあなたに何を頼みましたか」
ノラが、ぽかん、と口を開けました。
そばかすの下が、みるみる赤くなります。
「……写し。姐さんの帳面の、写し」
「どこへ預けましたか」
「こ、公文書館。第七区。ハーヴェイ局長んとこで、受領印、もらって」
「何冊ですか」
「さ、三百十二冊、全部!」
「上出来です」
ノラが、膝から崩れました。
「姐さん……あんた、知ってたのかい。こうなるって」
「まさか。……ただ、念のためです」
「嘘だ。姐さん、毎年やってた。十年、ずっと」
——ばれておりましたか。
わたくしは肩をすくめました。
「……地味な実務は、必ずいつか『非効率だ』と言って切られます。切るのはたいてい、実務を一日もやったことのない人間です」
前世で嫌というほど学んだことです。
予算査定。事業仕分け。「魔法」が「システム」に変わるだけで、言われる台詞は同じでした。
『非効率です』『旧態依然です』『人力で回すなど時代遅れです』
そして数年後、必ず誰かが青い顔で言うのです。『あの台帳、どこにありますか』と。
「ですから記録は、二重に残します。原本は手元に、写しは制度の内側に。——ノラ、濁度用のガラス管は持っていますね」
「持ってます! 姐さんがくれたやつ、肌身離さず!」
「では、明日から、あなたが測りなさい」
「え……あ、あたしが?」
「わたくしは追放されました。ですが、あなたは追放されていません。測って、書きなさい。誰にも見せなくて構いません。ただ、書き続けなさい」
ノラが、わたくしの袖を掴みました。
「……姐さんは。姐さんは、どこ行くんだい」
窓の外を見ました。夕暮れの王都。三百十二本の井戸が、それぞれの路地で、静かに水を湛えている。
十年、毎朝五時に回った道です。
「……北へ」
「北?」
「井戸の縁で、震えていた方がいらっしゃいます。その方に、ひとつ、お返ししなければならない借りがあるのです」
ノラは、井戸の縁に膝を抱えるみたいに、うずくまりました。
「……あたし、姐さんの荷物、持ちますから」
「ノラ」
「いつでも、持ちますから。だから……いなくなんないで」
わたくしは、その赤い頭に、荒れた手を置きました。
「ええ。——帳面は、燃えません」
「え?」
「あなたが覚えている限り、燃えません。公務員というのは、そういう生き物ですので」
◇
その人と初めて会ったのは、六年前の、第百七十四番井戸の前でした。
夜明け前。まだ空が藍色の時刻。
井戸端に、男が三角座りをしていました。
銀髪。六尺二寸の巨躯。軍服の背に、氷狼の紋章。
北方公爵セオドル・アッシュフィールド——戦場で単騎三千の魔物を退けた、『氷狼将軍』。
その英雄が、井戸桶を前に、がたがたと震えておりました。
「……この井戸は、安全か」
掠れた声でした。
わたくしは荷から帳面を出し、該当頁を開きました。
「第百七十四番井戸。本日午前五時十二分測定。濁度〇・二、異臭なし、湧出量平常。昨日、一昨日、三日前も同数値。——飲めます」
沈黙。
「……根拠は」
「この十年、わたくしが毎朝測っております。三千六百五十回分、そこに書いてございます」
「……十年」
「はい。お読みになりますか」
「……読ませてくれ」
将軍は、震える手で帳面を受け取りました。膝に載せて、数字の羅列を、上から下まで、ゆっくり読みました。
何度も。何度も。
それから、桶に口をつけました。
三秒、硬直して。
飲みました。
「……十九年ぶりだ」
「左様でございますか」
「それだけか」
「はい。明日も、同じ数字をお持ちします」
将軍は、井戸端で、声を殺して泣きました。
幼い頃、毒を混ぜられた井戸水で、母君と弟君を喪ったのだと、後で聞きました。以来、透明な液体を口にできなかったと。
わたくしは何も言わず、レモンを一つ切って、桶に浮かべました。
「レモンを一つ、浮かべておきます。酸は、水の味を少しだけ優しくいたしますので」
◇
そして、今。
北の国境砦。石壁の応接室。
「……リディア嬢。君を、追放したと聞いた」
「耳が早うございますね、閣下」
セオドル様は、胸元から古いレモン水の空瓶を取り出し、机に置きました。
「この瓶を、まだ持っている。六年、持っている」
「割れますよ、瓶は」
「割れたら、飲めなくなる」
真顔でした。この方はいつも真顔です。
「……真顔でおっしゃいますね」
「私の領地に来てほしい。北方公爵領には井戸が九十四本ある。すべて君に任せたい。給金は——」
「お断りいたします」
「……」
将軍が、氷像のように固まりました。
「閣下?」
「そ、そうか。……いや、そうだな。当然だ。私は君の帳面を、その、私の生涯の蔵書に加えたいと、そういう、つまり」
「閣下」
「……すまない、言い直す」
「いえ、そちらではなく。——お断りするのは、『まだ』でございます」
「……まだ?」
「王都に、置いてきた仕事がございます。こちらの地図をご覧くださいませ」
わたくしは机に地図を広げました。王都の地形図。前世の等高線の記法で、十年かけて書き足したものです。
赤い印が、三百十二個。そのうち十七個に、二重丸。
「赤い印が……三百十二。そのうち十七に、二重丸がついているな」
「王都の水源は、北の山系からの地下水脈です。この十七本は、水脈の主幹に直結しております。——ヴィクトール様の《広域浄化》は、半径五百メートル、持続三時間。そして、高濃度の魔素を含む地下水には、効きません」
「……効かない?」
「この十七本が、まさにそれでございます。地表の水だけ浄めても、下から濁りが上がってまいります。三日で濁り、七日で腐り、九日目には」
「……九日目には」
「疫病が出ます」
応接室の空気が、凍りました。
「止められるのか」
「わたくし一人では、無理です」
「なら、私が剣を——」
「閣下。ひとつ、お願いがございます」
「言え。何でもしよう」
わたくしは深く一礼しました。
「北方公爵家の名で、王都水道管理局に、『水質台帳の閲覧および照合』を正式に申請してくださいませ」
「……それだけか?」
「それだけです。紙は、剣より強うございますよ。少なくとも、わたくしの戦場では」
セオドル様は、しばらくわたくしを見つめ、それから深く頷きました。
「……わかった。リディア嬢」
「はい」
「君は、水を信じさせてくれた人だ。——今度は、王都に信じさせてやれ」
◇
一日目。
「見たまえ、諸君! 半径五百メートル、一瞬で澄み渡った! これが魔法の時代だ!」
王都中央広場。光の輪が広がり、噴水も井戸も、一瞬で澄み渡りました。
市民は喝采しました。
三時間後、水は元に戻りました。
「……三時間で戻っただと? そんな馬鹿な。もう一度だ」
二日目。
彼は五度、浄化を放ちました。
王都は東西四キロ。半径五百メートルの円では、八回打ってようやく全域に届きます。そして一度打つごとに、三時間。
「東西四キロ……八回打って、一回三時間。……計算が、合わない」
三日目。
「第三十番が白濁? 浄めたばかりだぞ! 第八十九番も? 第百七十四番も?!」
地下水脈の主幹に直結した、十七本。
ヴィクトールは井戸を覗き込み、もう一度《広域浄化》を放ちました。
「……澄んだ。よし——なぜだ。三十秒で、また濁る。下から、上がってくる……」
井戸端に、赤毛の娘がしゃがんでおりました。
ガラス管を光にかざし、帳面に鉛筆を走らせながら。
「浄化直後、濁度〇・一。三十秒後、一・八。九十秒後、三・四。……はい、これで二十二回目、っと」
「貴様、何を書いている!」
「測って、書いてるだけです。——姐さんに、そう言われたんで」
五日目。
彼は倒れました。一日に十一回の広域浄化は、人間の魔力量を超えていました。目を覚ますと、また井戸へ走りました。
七日目。
水が、匂い始めました。
下町の女たちが、桶を持って列に並び、そして鼻を押さえて引き返しました。
「レモン水の姐さんは、どこ行ったんだい」
「学院が追い出したって」
「……誰が?」
九日目。
熱を出した子どもが、七人運び込まれました。
「お兄様。市民が、水が臭うと申しております。下町で、子どもが七人も熱を——」
「黙れ! 私は一日十一回浄化した! これ以上、何をしろというのだ!」
翌日には、二十三人。
その中に、ラングレー侯爵家の下働きの少年がおりました。十一歳。エルミナ様が可愛がっていた、ミロという名の子です。
「……ミロ。ミロ、しっかりなさい」
「……お水を、ください」
「……お水を? ええ、ええ、今すぐ持ってまいります。待っていて」
エルミナ・ラングレーは、生まれて初めて、自分で水を汲みに行きました。
白金の巻き髪を邪魔そうに押さえ、絹の靴で井戸端まで歩き、桶を落とし、縄を引き。
引き上げた水を見て。
震えました。
「……なに、これ。灰色……油膜のような、虹色が……こんな、ものを」
手が、止まりました。
「飲ませられない。……わたくしは、この子に、水一杯」
◇
同じ頃。
ヴィクトール・ラングレーは、学院中庭の焼却跡に膝をついていました。
黒い灰。焼け残った紙の端。
「灰だ。……『第八十九番井戸 湧出量 前年比』……そこから先が、炭になっている」
彼は立ち上がり、掠れた声で叫びました。
「写しは。写しは、ないのか! あの女の帳面の、写しは!」
誰も答えませんでした。
その時、議事堂の扉が開きました。
腰の曲がった老人が、杖をつき、書類の束を抱えて入ってきました。
王都水道管理局長、ハーヴェイ・ストーン。六十八歳。三十年前に井戸台帳制度を作り、『地味だ』と予算を削られ続けた、窓際の老官吏。
「……北方公爵家より、正式な閲覧申請が出ております」
「……何の、話だ」
「公文書館第七区。保管番号、七の四十一番から、七の三百五十二番まで」
「……まさか」
老人は老眼鏡を押し上げ、ゆっくりと言いました。
「王都井戸水質台帳。三百十二冊。十年分。——すべて、現存しております」
ヴィクトールの顔から、血が引きました。
「燃やした。私は、あれを、燃やした——!」
「燃やしたのは原本です」
扉の向こうから、威勢のいい声が飛び込んできました。
赤毛のそばかす娘が、腰に手を当てて仁王立ちしていました。
「姐さんの帳面、三百十二冊全部、あたしが写しました!」
「……貴様、字が読めないと」
「三年前まではね! 姐さんが、数字と記号だけ教えてくれたんだよ! 毎年! 一冊ずつ! 十年分! 公文書館に預けて、受領印もらって!」
「……なぜ、そんなことを」
「姐さんが、『念のため』って言うからさ」
「……念の、ため」
ノラが、まっすぐに指を突きつけました。
「あんたら、十年前から、こうなるって読まれてたんだよ。——姐さんはね、あんたらのこと、一度も信じてなかったんだ!」
◇
臨時水害対策評議会。
王立魔法学院、第一議事堂。九日前、わたくしが追放された、あの部屋です。
半円卓。三十二人の教授。
違うのは、上座に王室水務監と、北方公爵セオドル・アッシュフィールドが座っていること。
そして、中心に立っているのが、わたくしであることです。
作業着のままで。袖を捲ったままで。
「臨時水害対策評議会を開始する。王室水務監、よろしいか」
セオドル様の低い声が、石壁に響きました。
「リディア・ウェルナー。北方公爵家の推挙により、貴殿に発言を許す」
ハーヴェイ局長が、震える手で書類を掲げます。
「恐れ入ります。——まず、事実を三点、申し上げます」
わたくしは一礼し、局長が運んできた台車を振り返りました。
帳面が、三百十二冊。積み上げると、人の背丈を超えます。
一冊目を開きました。
「第一点。三日前から濁った井戸は十七本。その十七本は、すべて北山系地下水脈の主幹に直結しております」
地図を広げます。赤い二重丸。
「……そんな水脈図など、誰が測った」
ヴィクトール様の声でした。
九日前の、あの滑らかな声ではありません。
「わたくしが。十年分の毎日の湧出量と、雨量との相関でございます。地表の水源とは、動き方が違うのです」
「相関? 計算だと?」
「はい。十年分の毎日の数字がございますので、平均も、偏差も、出ます」
二冊目を開きます。
「——第二点。ヴィクトール・ラングレー教授の《広域浄化》は、この十七本には効きません」
議事堂がざわめきました。
「侮辱だ! 私は王国最高の浄化術者だぞ!」
「根拠を述べます。三日目、四日目、五日目。教授は同じ井戸を、計二十二回浄化なさいました」
ノラが帳面を掲げ、身を乗り出しました。
「全部測りました! 浄化直後の濁度、〇・一。三十秒後、一・八。九十秒後、三・四。——二十二回、全部おんなじ曲線です!」
「そ、それは測定の誤りで——」
「二十二回、同じ誤りをいたしましたか」
わたくしは、柔らかく微笑みました。
「……」
「教授。《広域浄化》は、高濃度魔素を含む地下水に効かない。——ご存じでしたね?」
「知らん! 論文にそんな記述は——」
「論文には書いておられません」
わたくしは頷きます。
「ですが六年前の学内報告書に、一行だけ記載がございます。『深層水に対する適用は今後の課題』。公文書館第九区、保管番号九の百二十三」
ヴィクトールの唇が、震えました。
「……なぜ、そんなものを」
「読んだからでございます」
三冊目を開きました。
「——第三点。第八十九番井戸。わたくしは九日前、この議事堂で申し上げました。『昨年秋から湧出量が四割落ちている。上流の地層で何かが起きている』と」
「……申し送り、と」
「その井戸が、今回の濁りの起点でございます。地層のずれで、深層の魔素水が上がってきております。——これは、浄化では止まりません。井戸を塞ぎ、迂回坑を掘る以外にございません」
「そんなことが……なぜ、わかる」
「十年、毎朝測っておりましたので」
静寂。
そこへ、ハーヴェイ局長が、杖をついて立ち上がりました。
白髭を撫で、老眼鏡を外して。
「……諸君。三十年前、わしが井戸台帳制度を作った時、この議事堂で言われたことを覚えておる」
杖の先が、床石を叩きました。
「『地味だ』『非効率だ』『魔法の時代に紙とは』。——予算は毎年削られた。わしは諦めかけた。十年前、十三の小娘が役所に来るまではな」
彼は、わたくしを見ました。
「『第四十番井戸、湧出量が先月比で二割減です。上流で何かが起きています』。——わしは訊いた。『お嬢さん、君は何ができる?』」
「『水を、測って、浄めて、記録できます』」
わたくしは、あの日と同じ言葉を返しました。
「『ならやってみろ。台帳は空白だ、好きなだけ埋めろ』——埋まっとる。十年で、みっちりとな」
老人は、三百十二冊を杖で示しました。
そして、議事堂全体を見渡し、はっきりと言いました。
「記録はな、嘘をつかんのだ。魔法は消える。声は忘れられる。だが、書かれた数字だけは、十年経っても同じことを言う」
「——その数字が今、諸君に告げておる。『この街の水は、この娘が守っていた』とな」
誰も、何も言いませんでした。
わたくしは、ヴィクトール・ラングレーを見ました。
金の髪は乱れ、琥珀の瞳は落ち窪み、あの完璧な微笑は、どこにもありませんでした。
九日間、毎朝五百メートルを浄めて回り、三時間ごとに倒れた男の顔でした。
「……教授。なぜ、認められなかったのですか」
彼は、ゆっくりと顔を上げました。
「……平民の母の、庶子だ」
掠れた声でした。
「存じております」
「十八年、あの家で言われ続けた。『お前は努力で這い上がった、卑しい子だ』と。——だから、地道に積み上げた人間を、認めるわけにはいかなかった。認めたら、私は」
指が、震えていました。
「……ただの、卑しい子になる」
わたくしが引き取ると、彼は目を伏せました。
「……そうだ」
「そうですか」
わたくしは、深く一礼しました。
「リディア嬢、私は——」
「ですが、それはあなたの事情でございます。王都の水とは、何の関係もございません」
「……」
顔を上げ、九日前と同じ声で申し上げました。
一段、柔らかく。
「——どうぞ、ご自由に、濁った水をお飲みくださいませ」
議事堂の窓から、朝の光が差していました。
「……午前五時十二分。窓から光が差しとるな」
ハーヴェイ局長が呟きます。
「はい。わたくしが十年間、井戸端に立っていた時刻でございます」
◇
その日のうちに、三通の書類が動きました。
「三通、用意した。一通目、ヴィクトール・ラングレー職務停止命令書。二通目、水道管理局直轄水質管理官、リディア・ウェルナー任命状」
「……局長。お手が震えておいでです」
「六十八だ。放っておけ。……三通目、井戸巡回体制の恒久制度化契約書。何か加えることは」
「一条、書き加えます」
わたくしは羽根ペンを取りました。
『本制度は、いかなる魔法技術の進展によっても廃止されないものとする。ただし、十年分の代替記録を提出した場合を除く』
「……随分と、根に持つな」
「制度と申します」
わたくしは丁寧にお辞儀しました。
「十年後、わたくしが死んでも、この一文は残ります。それが紙の仕事でございます」
◇
井戸の復旧には、四十一日かかりました。
第八十九番井戸を封鎖し、迂回坑を掘り、十七本の深層水路を切り離す。北方公爵領から工兵が二百名、セオドル様の名で派遣されました。
「姐さん! 迂回坑、貫通しました! 四十一日目! 十七本、全部切り離し完了!」
「ご苦労様です。……ノラ。新しい帳面の、最初の頁を開きなさい」
「え……何を、書くんですか」
「四人の、お名前です」
ノラの手が、止まりました。
「……姐さん」
「わたくしの帳面が、九日で追いつかなかった数字です。消えないように、書きます」
疫病で亡くなった方は、四人。
四人です。
少ない、と誰かが言いました。
わたくしは、そう思いません。
記録とは、そういうものです。救えた数を誇るためではなく、救えなかった数を忘れないために残すのです。
◇
第百七十四番井戸の縁で、レモンを切っていた時のことです。
絹の靴が、砂利を踏む音がしました。
「……リディアさん」
エルミナ・ラングレー。
白金の巻き髪は解け、菫色の瞳は腫れ、ドレスの裾は泥で汚れていました。
あの完璧な淑女の微笑は、ありませんでした。
彼女は、わたくしの前に、膝をつきました。石の上に、じかに。
「エルミナ様。石の上に、じかに膝をつくものではございませんよ。ドレスが汚れます」
「……教えてくださいませ。わたくしは、何本の井戸を、どう測ればよろしいのでしょう」
「ミロくんは」
「……助かりました。三日、熱が続いて、でも」
「よろしゅうございました」
彼女の肩が、震えました。
「あの子に、飲ませる水が、ありませんでした。わたくしは聖女候補と呼ばれて、白い服を着て、微笑んでいただけで——水一杯、用意できませんでした」
「……」
「知っておりました。兄の魔法に限界があることを。知っていて、黙っておりました。家の名のために。……わたくしが、殺しかけたのです」
わたくしは、レモンを切る手を止めました。
荷袋から帳面を一冊、取り出します。表紙に、『一七四』と書いてあります。
「エルミナ様」
「はい」
「これを一冊、お貸しします。表紙に『一七四』と書いてございます」
「……お貸しくださるの?」
「読み方をお教えします。濁度の測り方、臭気の判定、湧出量の記録法。難しくはありません。数字を書くだけです」
「……はい」
「ただし——これを返しに来るまで、三年かかります」
「三年……」
「毎朝五時です。雨でも雪でも、祭りの日でも、熱があっても。一日休めば、その日の数字は永遠に空白になります。空白は、十年後に誰かを殺します」
エルミナ様は、泥のついた手で、帳面を受け取りました。
両手で。
「……承知いたしました。三年後に、お返しに参ります」
「では、ガラス管をお渡しします。割らないでくださいませ。高いので」
「……はい。……ふふ、はい」
彼女は泣きながら、笑いました。
生まれて初めて、令嬢の微笑ではない顔で。
◇
「リディア嬢」
井戸端に、もう一つ影が落ちました。
銀髪。六尺二寸。氷狼の紋章。
「閣下。またその瓶を握っておいでですね」
「……補充を、頼みたい」
「六年ぶりのご注文でございますね。銅貨二枚でございます」
「言い値でいい」
「では、銅貨二枚で。——レモンを、浮かべますね」
わたくしは瓶に水を注ぎ、薄く切ったレモンを一枚、落としました。
彼は受け取り、三秒、硬直して——
飲みました。
手は、震えませんでした。
「今日は、震えませんでしたね」
「三秒だけだ。癖は抜けん。——リディア嬢」
「はい」
「北方公爵領には、井戸が九十四本ある」
「存じております」
「……君の帳面を、私の生涯の蔵書に」
「閣下」
「——すまない、言い直す」
「どうぞ」
彼は、空瓶を握りしめて、深く息を吸いました。
氷狼将軍が、三千の魔物を前にしても吸わなかったであろう、深い息を。
「君と、同じ朝に、同じ井戸を見て回る人生がほしい。九十四本でも、三百十二本でも、四百六本でも構わない」
「……午前五時ですよ」
「知っている。六年前から、知っている」
わたくしは、自分の手を見ました。
日焼けして、爪の間に砂が入って、令嬢としては致命的な手を。
「手が荒れております。日焼けして、爪の間に砂が入って、令嬢としては致命的な手でございます」
「その手が、私に水を飲ませた」
——ああ。
前世でも今世でも、わたくしの仕事を褒めた人間は、片手で数えるほどしかおりません。
そのうちの一人が、今、目の前で空瓶を握っています。
わたくしは、その荒れた手を差し出しました。
「……では、こちらの条件でよろしければ」
「言ってくれ」
「——記録は、二重に残すこと」
「……ふ。承知した」
氷狼将軍が、初めて、笑いました。
「あら。閣下、笑うこともおできになるのですね」
◇
王立魔法学院、第一議事堂の壁に、一枚の銘板が掛けられたのは、翌年の春です。
『王都井戸巡回制度 恒久条項
本制度は、いかなる魔法技術の進展によっても廃止されない』
その下に、小さく一行。
『——記録は、嘘をつかない』
銘板の前を、毎朝五時に通り過ぎる人影が、一つ。
赤毛のそばかす娘が、ガラス管を片手に、井戸へ走っていきます。
「第一番井戸、午前五時零分! 濁度〇・一! 異臭なし! ——姐さん、見ててくださいよ、あたし、今日も空白作りませんから!」
声だけは、相変わらず大きいのです。




