勇者よ、荒野へ帰れ
魔王を倒してから十五年。
私は王都で騎士団長をしていた。
昔は勇者と呼ばれ、聖剣を持って世界中を旅していたが、今では朝から書類を読み、昼には騎士たちの訓練を見て、夕方になると国王へ報告に行く。
戦うことはほとんどなくなった。
それでも、勇者として世界を救ったという肩書きは、ずっと私について回った。
「団長、こちらに署名をお願いします」
「はい」
「午後は国境警備隊との会議です」
「わかった」
「それと、王都南門の補修について――」
「それも今日?」
「今日です」
私は机の上に積まれた書類を見て、少しため息をついた。
魔王と戦っていたころの方が、体は大変だった。
でも、今の方が別の意味で疲れる。
「団長?」
「何でもない」
そう答えた時だった。
部屋の扉が開き、部下の一人が入ってきた。
「失礼します。西部の地図について確認していただきたいことがあります」
「西部?」
「はい」
差し出された地図を受け取る。
王国の西側。
乾いた土地が広がる、昔から人の少ない地域だ。
私は何気なく地図を眺めた。
そして、手が止まった。
「……ラグナ村は?」
「はい?」
「ここにあった村だ」
指で地図の一点を示す。
そこには何も書かれていなかった。
「ラグナ村、ですか?」
「私の故郷だ」
部下は困った顔をした。
「少々お待ちください」
彼は別の資料を取り出し、何枚かめくった。
「……ありました」
「どうなってる?」
「十年前から人口が減り始め、六年前に村としての登録が消えています」
私は意味がわからなかった。
「消えた?」
「住民がいなくなったようです」
「魔物に襲われたのか?」
「その記録はありません」
「盗賊?」
「それもありません」
「じゃあ、どうして」
部下は申し訳なさそうに首を振った。
「理由までは、こちらには残っていません」
私は地図を見つめた。
ラグナ村。
私が生まれ育った村。
十七歳まで暮らし、勇者に選ばれて旅立った場所。
魔王を倒したあと、一度だけ帰ったことがある。
その時は、まだ皆がいた。
村長も。
近所のおばさんも。
幼なじみも。
みんな笑っていた。
「世界を救った勇者様が帰ってきた!」
そう言って、大騒ぎしてくれた。
その村が、なくなった。
私はその日の午後の会議を全部キャンセルした。
「一週間、休みをいただきたいです」
国王にそう言うと、かなり驚かれた。
「お前が休みを?」
「はい」
「珍しいな」
「私もそう思います」
「理由は?」
「故郷へ帰ります」
国王は少し黙った。
「ラグナ村か」
「ご存じでしたか」
「最近、地方の整理をしていて名が出た。住民がいなくなったと聞いた」
「どうして誰も教えてくれなかったんです?」
「お前に言えば、仕事を放ってでも行くだろうと思った」
「今、まさに行こうとしてます」
「そうだな」
国王は少しだけ笑った。
そのあと、真面目な顔になる。
「行ってこい」
「ありがとうございます」
「ただし、一週間で戻ってこい」
「努力します」
「努力じゃなく戻ってこい」
「はい」
王都からラグナ村までは、馬で八日かかった。
昔なら六日で着いた。
年を取ったのかもしれない。
四十を過ぎた今では、昔みたいに無理をすると腰にくる。
それでも、道は覚えていた。
最後の町を抜ける。
そこから先は、ずっと荒野だった。
草は少ない。
木もほとんどない。
乾いた風が吹き、遠くの空まで何もない。
(こんなに何もなかったっけ)
昔は気にならなかった。
ここが世界の全部だと思っていたから。
でも世界中を旅した今ならわかる。
ラグナ村は、本当に厳しい土地にあった。
夕方。
ようやく村が見えた。
私は馬を止めた。
「……嘘だろ」
家は残っていた。
でも、人がいない。
屋根が崩れた家。
扉が外れた家。
雑草に埋もれた道。
昔、子供たちが遊んでいた広場には、砂が積もっていた。
村の中央にあった井戸も、ふたが外れている。
音がない。
風の音だけだった。
「誰かいないのか!」
声を上げる。
返事はない。
馬から降り、村の中を歩いた。
自分が住んでいた家も残っていた。
壁が少し崩れていたが、間違いない。
扉を開ける。
中には何もなかった。
家具も。
食器も。
家族の写真も。
全部なくなっていた。
「……遅かったのか」
その時だった。
「誰だ」
背後から声がした。
振り返る。
杖をついた老人が立っていた。
白い髪。
深いしわ。
でも、顔には見覚えがあった。
「じいさん?」
「……レオン?」
村長だった。
昔よりずっと小さく見えた。
「本当にレオンか」
「はい」
「勇者様が帰ってきたか」
「その呼び方、まだ覚えてたんですね」
「忘れるか」
老人は笑った。
でも、その笑顔は少し寂しかった。
村長の家だけは、まだ人が住める状態だった。
私は中へ入り、昔と同じ木の椅子に座った。
「みんなは?」
村長はすぐには答えなかった。
湯を沸かし、古い茶葉を入れる。
そのあと、ゆっくり口を開いた。
「出ていったよ」
「どうして」
「ここじゃ、生きていけなくなった」
「何があったんです?」
「何もなかった」
「何も?」
「それが一番きつかった」
村長は窓の外を見る。
「魔王がいたころは、国もこの辺りを気にしていた。西の街道は軍が使っていたし、兵も来た。商人も通った」
「でも戦争が終わった」
「ああ」
「それで?」
「軍が来なくなった。商人も減った。井戸の水も少なくなった。若い連中は仕事を探して町へ出た」
私は黙って聞いた。
「畑も年々悪くなった。雨が少なくなったからな」
「国に支援を求めなかったんですか?」
「何度も頼んだ」
「返事は?」
「来たよ」
村長は笑った。
「『検討する』ってな」
胸が痛んだ。
その言葉を、私は何度も会議で使ったことがある。
「それで、一人ずつ出ていった」
「家族は?」
「みんな町へ行ったよ」
「じいさんは?」
「ここで死ぬつもりだった」
「そんなこと言わないでください」
「もう九十近い」
「まだ生きてるでしょう」
「勇者様は相変わらずだな」
「だから勇者様はやめてください」
村長は少し笑った。
「レオン」
「はい」
「お前は悪くない」
「……何も言ってないですよ」
「顔に書いてある」
私は視線を落とした。
「世界を救ったのに」
「うん」
「故郷一つ、救えてなかった」
「それは違う」
「何が違うんです?」
「お前は魔王を倒した。あれで多くの人が助かった。それは本当だ」
「でも」
「でも、世界を救ったからって、全部が良くなるわけじゃない」
村長は静かに言った。
「戦争が終わっても、腹は減る。井戸も枯れる。道も壊れる」
「……」
「勇者が全部やる必要なんてない」
十五年前も、同じようなことを言われた気がする。
私はいつも、全部自分で何とかしようとしていた。
「でも」
「今度は?」
「少しくらい、やってもいいですか」
村長がこちらを見る。
「何を」
「村を戻す」
老人はしばらく黙っていた。
「一週間で?」
「……たぶん無理です」
「王様に怒られるぞ」
「あとで謝ります」
村長は声を上げて笑った。
次の日。
私は井戸を調べた。
完全に枯れていた。
「これじゃ人は戻れないな」
昔、南の砂漠で水を探したことがある。
魔王軍に追われて、三日間まともに水を飲めなかった。
その時、砂漠に住む人たちから地下水の探し方を教わった。
地面の傾き。
草の種類。
石の色。
いくつかの場所を見て回る。
「ここだ」
「何が?」
「下に水がある」
村長が疑わしそうに見る。
「本当か?」
「たぶん」
「たぶんか」
「掘ればわかります」
「誰が掘るんだ」
私は剣を抜いた。
「まさか」
「これしか道具がないので」
「聖剣で井戸を掘る勇者なんて聞いたことないぞ」
「これは普通の剣です」
「そういう問題じゃない」
結局、途中で剣は曲がった。
「……だめですね」
「当たり前だ」
私は町まで戻って、つるはしとスコップを買った。
三日間、穴を掘った。
四日目。
水が出た。
「出た!」
泥だらけになりながら、私は叫んだ。
村長が走ってくる。
「本当に出たのか!」
「はい!」
最初は濁っていた。
でも、少しずつきれいな水になった。
村長は両手ですくって飲んだ。
「冷たいな」
「ですね」
その顔を見た瞬間、魔王を倒した時よりうれしかった。
少しだけ。
次は道だった。
町から村までの道は、ほとんど消えかけていた。
私は王都へ手紙を書いた。
『ラグナ村までの街道整備をお願いします』
三日後、返事が来た。
『検討する』
「……」
手紙を握ったまま固まる。
村長が横からのぞく。
「懐かしいだろ」
「笑えないです」
私はもう一度書いた。
『騎士団長命令。西部警備のため、街道整備が必要です』
翌日。
『承認』
「職権乱用じゃないか?」
「国防です」
「本当か?」
「半分くらい」
村長は笑った。
その後、工事の人たちが来た。
道が直り始めると、商人も少しずつ戻ってきた。
私は村を出ていった人たちへ手紙を書いた。
『井戸の水が戻りました』
『道も直ります』
『帰りたい人がいたら、いつでもどうぞ』
返事はすぐには来なかった。
当然だ。
みんな町で新しい生活を始めている。
戻る理由なんてないかもしれない。
それでも、一か月後。
一台の馬車が村へ来た。
降りてきたのは、三十代の夫婦と子供二人だった。
「レオン?」
男の顔に見覚えがあった。
「トーマ?」
「久しぶり」
昔、近所に住んでいた少年だった。
「手紙、読んだよ」
「戻ってきたのか?」
「試しに」
「試し?」
「町の家はまだ残してる。無理なら戻る」
「それでいい」
私は笑った。
「無理に残る必要はない」
トーマも笑った。
「昔のお前なら『絶対何とかする』って言ってたな」
「少し大人になった」
「四十過ぎてるからな」
「そこは言うな」
さらに二か月。
家族が三組戻ってきた。
若い夫婦もいた。
畑をやりたいという人も来た。
昔の村人だけではない。
町で暮らしにくくなった人たちが、安い土地を求めて移ってきた。
村長は驚いていた。
「知らない人ばかりだな」
「嫌ですか?」
「いや」
子供たちが広場を走っている。
「村ってのは、人がいれば村だからな」
「そうですね」
昔と同じ村ではない。
それでいい。
なくなったものを、そのまま元に戻すことはできない。
でも、新しく作ることはできる。
王都からは何度も帰還命令が来た。
『一週間と言ったはずだ』
『もう二か月だ』
『騎士団長がいないので副団長が泣いている』
最後の手紙には、
『いい加減、一度帰ってこい』
とだけ書かれていた。
私は仕方なく王都へ戻った。
「二か月半」
国王が言った。
「はい」
「一週間と言ったな」
「はい」
「何か言うことは?」
「申し訳ありませんでした」
「本当に?」
「半分くらい」
「お前な」
国王は頭を抱えた。
私は少し迷ってから言った。
「陛下」
「何だ」
「騎士団長を辞めたいです」
国王が顔を上げた。
「本気か?」
「はい」
「村に戻るのか」
「しばらくは」
「世界を救った勇者が、村人になるのか」
「悪くないでしょう」
国王はしばらく考えた。
やがて、ため息をつく。
「後任を決めるまで三か月」
「はい」
「それまでは働け」
「わかりました」
「そのあと好きにしろ」
「ありがとうございます」
「ただし、たまには王都に来い」
「努力します」
「またそれか」
半年後。
私はラグナ村へ戻った。
今度は、騎士団長ではない。
ただのレオンとして。
村には十二世帯が暮らしていた。
昔より少ない。
でも、人の声がある。
畑には新しい作物が植えられていた。
道には商人の馬車が通る。
井戸のそばでは子供たちが遊んでいる。
「レオン!」
トーマの娘が走ってきた。
「大変!」
「どうした?」
「ヤギが逃げた!」
「どこへ?」
「あっち!」
「わかった」
私は走った。
五十近いので、すぐ息が切れた。
「待て!」
ヤギは待ってくれなかった。
昔、魔王軍を追いかけていた時より必死だった。
ようやく捕まえたころには、泥だらけになっていた。
「勇者様も大変だな」
村長が笑う。
「勇者様はやめてください」
「じゃあ村人レオン」
「それでいいです」
私はヤギの縄を持ちながら、村を見た。
世界を救う旅は、もう終わった。
でも、暮らしは終わらない。
井戸が枯れれば掘る。
道が壊れれば直す。
腹が減れば畑を耕す。
誰かが困っていれば、できる範囲で助ける。
魔王を倒すより地味で、歴史の本には載らない。
それでも、私はこっちの方が好きだった。
勇者よ、荒野へ帰れ。
世界を救ったその先で、自分が生きる場所をもう一度作るために。




