9.「……やくに、たてたかな」
荷物になるからと渋っていた革袋を肩にかけ、服も二つに増えたアレスは森で休息している。
地図は高くないが、銀貨数枚するらしく渋った結果迷子になった。
町も道なりにあるとは限らないようで、分かれ道から獣道へ変わり気づいたら森の中である。
木の生い茂る森でも日が暮れてきていることは分かった。
この世界に来てから野宿の経験はないアレスだが、相変わらずの精神力でまったく動じていない。
「……風呂に入れないのが辛いところだ」
のんびりしたことを言っていると、頭に冷たい何かが当たる。空を見上げると雲はない晴天なのに、ポタッと顔に雫が当たり流れていった。
あっと思ったのも束の間で、ザーッと降り注ぐ雨に先行して移動する幼女が見つけた洞窟へ避難する。
頭から濡れてしまった二人はすぐに服を脱ぎ始めた。
下着だけになった状態で、幼女へ指示して小さな炎を吐かせようとしたら壁が壊れて外が見える。
「……小さな炎は無理そうだな。それに、洞窟内は火を焚くなとあったか」
宿屋の店主に餞別と貰った【初心者向け野宿】の本で書いてあったことを思い出した。
少しだけ煙臭さを感じて、雨に濡れない入り口で立ってやり過ごす。
水に濡れても少ししたら乾くほどの季節だったことで、そこまで寒さは感じず革袋からタオルを取り出して拭いた。
革袋に入っていた予備の服は濡れていなかったため、すぐ着替えると止まない雨を睨みつける。
次第に辺りも暗くなってきて、初めての野宿が確定した。
ただ、何も出来ることはなく初心者の本に雨のときの野宿方法も書かれていない。
「……この本、使えないな」
降り止まない雨の中、暇な時間を本で紛らわせ【緑色の鉱物】という、興味深いページを読んでいたときだった。不意に服の袖を摘まれる。誰かは一人しかおらず、顔を上げるアレスに奥を指さした。
まだ日の出ていたときは気づかなかった、緑色の光で溢れている。野宿の本で、今しがた出てきたページを読み直した。
『緑色の鉱物がある洞窟は注意しろ。緑岩熊がいる――』
雨で掻き消される足音。向けられる殺意によって気配を感じると、ゆっくり黒い影が現れる。
緑色の鉱物によって現れた姿は、軽く三メートルを超えていた。暗がりに光る赤い瞳。背中に緑色の鉱物を纏った黒い毛皮で覆われた獰猛な魔物だった。
獲物を目の前にして本能か口からよだれを垂らしている。
アレスはもちろん、幼女も怖がる様子なく魔物を観察していた。
本に詳細はなく、指示を出すより早く幼女がアレスの前へ出る。幼女に守られるのは滑稽だが、利害の一致と元々人間じゃないアレスも気にしていない。
チラッと背後を振り返り、未だに降る雨へ向く。
「……仕方ねぇ。雨の中を突っ切って町を目指すしかねぇな」
本音が口から漏れるアレスの言葉を合図と読み取った幼女は、大きく息を吸い込んで思い切り吐き出した。
竜巻のような業火が魔物に命中した直後、幼女を抱えて洞窟の外へ走り出す。
迷子になったことをすっかり忘れているアレスの背後で、大きな音が鳴った。
地響きと共に魔物の唸りが木霊する。人間の姿だが、身体能力と体力のあるアレスは追いかけてくる魔物を振り返らず走った。
肩に抱えられた幼女は一心に魔物を見つめて、再び大きく息を吸い込んで炎を吐き出す。
降り注ぐ雨でも消えない炎は、魔物の顔面を直撃した。二発目を食らった魔物の動きは明らかに鈍っている。
アレスが森を抜けた瞬間、崖の上だったことが判明した。急に止まることは出来ず、雨で滑る足も気にすることなく、そのまま人間離れした跳躍で駆け下りると、負傷した魔物も追いかけてくる。
「――しつこい野郎だぜ」
崖を降りていくと思いがけず目的地の町が見えてきた。
このまま行くと騒ぎになることだけはアレスでも分かる。
濡れた地面を軽く踏みしめて、町の入り口へ降り立った。
魔物は森の木をなぎ倒して、崖を変形させながら一直線で迫ってくる。
「――殺れ」
アレスと魔物の距離が人一人分くらいになって、視線が重なり振り上げられる鋭い爪のついた太い腕。
先ほど以上に思い切り空気を吸い込む幼女は勢い良く炎を吹き出した。
パリンという背中を覆っている鉱物の割れる音がして、振り上げられた腕が直前で体ごと沈む。
弱点は本体じゃなく、鉱物の方だったことが分かり幼女を降ろした。
当然、幼女の炎と魔物が沈んで地面を揺るがす音で町の自警団が走ってくる。
雨の降り注ぐ中、横たわる魔物は口から舌を出して絶命していた――。
事情聴取を経て、風呂に入りたいと言って紹介された穴場へ向かう。宿屋に風呂はなく、代わりに温泉があるらしい。
地面から湧き出た自然のお湯で、効能も聞かされた。
そちらにはまったく興味のないアレスだったが、幼女を連れて男湯へ行くと客からの視線が刺さる。
「……まったく、人間は面倒な生き物だ」
幼女を一人で女湯に行かせようとすると、ブンブン首を横へ振った。
すぐにでも温かくて気持ちの良い風呂へ入りたいアレスは幼女を威圧する。
ちょうど横を通りすぎた女の親子連れが、白熱する空気に圧倒されながらも幼女を見てくれると申し出てくれた。
幼女も渋々と言った顔で、女に手を握られて女湯へ消えていく。
久しぶりに一人となったアレスは、周囲の視線も気にすることなく服を脱いで浴室へ入った。
アレスは紛れもなく男顔だが、同性でも振り返る魅力を振りまいている。
元神なだけあって、信仰や崇拝に近いかもしれない。
体を洗ってから宿の風呂とは明らかに違う広い湯船に足を入れる。瞬間、足から痺れるような熱を感じたが、そのまま体を入れた。
「ハァァ……」
自然と口から漏れた声が浴室に響く。
最初だけで、他の客もアレスを気にすることなく気持ちよさそうだった。
いつも以上にゆっくりしてしまったあと、幼女のことを思い出して男湯から出る。
共有スペースの長椅子で壁に背をつけて丸くなっていた幼女は、アレスに気づくと明るい顔で駆け寄ってきた。
待ってくれていた親子連れへアレスの代わりに頭を下げる幼女と、宿屋に向かって歩きだす。
少しだけ不貞腐れて見える幼女に声をかけようとしたとき、急な突風が吹いた。
気づくと、綺麗に整えてもらった幼女の髪はボサボサで、巻き上げられた葉っぱがついている。
「……忘れていたような不運の呪いも、手数が豊富だな」
葉っぱを取っていく中、驚くと思考が停止するのか、再び動かなくなった幼女を連れて宿屋へ向かった。




