尾張花は詩をおくる
夜、ビルの屋上に青年が立っている。
煌びやかな夜景が眼下に広がっていても、彼の胸には何も残っていない。
フェンスを乗り越え、足元に吹き抜ける風を感じる。
深く息を吸い、何度か呼吸を繰り返す。
音が夜に溶ける。
身体が揺れる。
そのまま、灯りの海に溶けるように青年は飛び降りた。
* * *
目を開けると、青年は車の後部座席にいた。
窓の外は真夜中の都市の闇。
街灯が遠くに瞬いては過ぎ去っていく。
頭がぼんやりとして、身体の感覚があいまいだ。
前のシートには小さな運転手情報のプレート。
【QBタクシー 尾張花】
写真には自分より若く見える女性が映っていた。
助手席裏のモニターは、黒いまま沈黙している。
青年は首を伸ばして車内を見回す。
黄色い車体がカーブミラーの隅に映った。
「……あの」
震える声が、静かな車内に滲んだ。
* * *
「どうかされましたか?」
運転手の声は不思議と柔らかく、青年の胸の奥を撫でるようだった。
「僕は……確かに、あのビルから飛び降りたはずなんですが」
「ええ。お客様はお亡くなりになりました」
花はバックミラー越しに、にこりと笑ってみせる。
青年は少し目を伏せて息を整えると、わずかに肩を落とした。
「……じゃあ、ここは死後の世界ってやつですか?」
「そうとも言えますし、そうじゃないとも言えます」
青年は薄く笑った。
「はは……どういうことです?」
「私は亡くなった方の魂を運ぶ運転手です。これからお客様を、彼岸へとお送りします」
青年は小さく頷いた。
「なるほど……途中ってことか。良かった……」
「良かった?」
花の声がわずかに弾む。
「ええ……僕は、死にたかったんです」
青年は途切れ途切れに、ぼそりと独白を始める。
親のこと、仕事のこと、愛されなかった自分のこと。
言葉は詩のように滲み、花はただ静かにハンドルを握り続けた。
しばらくして、タクシーは速度を落とし、路肩に停まる。
「お客様、相乗りは大丈夫ですか?」
窓の外にハザードランプが点滅し、暗がりに誰かの影が立っていた。
青年は迷わず頷いた。
自分と同じ誰かが、きっと乗ってくるのだろうと。
* * *
スーツ姿の男が後部座席に乗り込んできた。
青年は自分の服装を見下ろす。
同じくスーツ姿。
薄暗い車内で、男の顔はよく見えない。
「……あの、ここは……?」
震えた声に、花は振り返らずに言った。
「私は亡くなった方の魂を運ぶ運転手です。これからお客様を、彼岸へとお送りします」
男の声がかすれた。
「死んだ……? なんで……?」
青年は、男の震え方に息を詰める。
自分と違って、望んだ死ではない。
男は絞るように吐き出した。
「……妻と子どもがいて、家を建てて……これからだったんだ……」
青年は言葉を失い、背筋に氷を這わせた。
男の声が、かすかに掠れたまま落ちる。
「……私は、どうして死んだ?」
車内が静まった。
しばらくして、花が静かに告げた。
「ビルから飛び降りた男性が、あなたの頭上に落ちてきたのです。不慮の事故でした」
青年の喉がひくりと鳴った。
言葉はもう、何も出なかった。
* * *
男は項垂れて、声を殺して泣いているように見えた。
青年は膝の上で握った手をほどけないまま、震える唇を開いた。
「……すみません」
花は何も言わずに、車を停めた。
ハザードが灯り、タクシーのメーターが切られる。
「到着しました。こちらを受付でお渡しください。精算されますので」
プリンター音が小さく鳴り、花は青年に一枚の紙を手渡した。
ドアが開き、青年は外へ降りた。
暗かった夜道が、白く白く光を帯びていく。
手の中の紙を覗き込む。
そこには、地獄行の切符。
罪状:殺人一名。
裏から、滲んだ文字が透けて見えた。
そこには、短い詩が刻まれていた。
縁に立ち 解き放たれた その糸は
永久に絡まる 終の縁なり