その病の名は
不思議だった。
私は先ほどまで妻と共に居たはずなのに、今は独りで公園のベンチに座っている。
今、この瞬間まで確かに話していた妻の声を覚えているのに。
奇妙だった。
子供たちが遊ぶには狭すぎる公園に居る私はスーツを着ていた。
一昨年亡くなった妻が丁寧に大切に保管してくれていたスーツは間の抜けたこの状況に似つかわしくないほどに深く重い黒色で息苦しささえ感じてしまうほどだった。
この状況がわからなかった。
私の首には名札がつけられている。
そこには私の名前が小学生や老人でも読めるほど大きく丸々とした字体で書かれていた。
くるりと名札を裏返すと、表面とは対照的に細々とした文字で住所が記されていたが、そこは私の家の住所ではなかった。
心細さを覚えた。
自分が今、スーツを身に纏っている以外には何も持っていなかったから。
そんな中でポケットをいじくると小銭が何枚か出てきた。
不安だった。
私は立ち上がり近くにあった自動販売機に向かい、ひりひりと乾いてしまった喉を潤そうと小銭を何枚か入れた。
しかし、いくらボタンを押しても飲み物は出てこない。
苛立ちながら殴りつけるように片っ端からボタンを押していくと、心臓を打ったような音が一つして自動販売機から一番安い缶コーヒーが落ちてきた。
私はそれを拾うと先ほどのベンチへ戻る。
怖かった。
少しだけ。
ここがどこかわからないから。
家に戻りたかった。
今すぐにでも。
しかし、その方法が分からない。
缶コーヒーを開ける音が少しだけ気持ちを楽にしてくれた。
分からないことばかりの現状で、この音だけが自分にとっての日常である気がした。
一口、コーヒーを飲む。
無糖だった。
私はミルクを入れるのが好きだが、妻はブラックのままの方が好みだという。
今度、この缶コーヒーを渡してやろうと私はふと思った。
落ち着いた。
少しだけ。
家へ帰る道は分からなかったが、考えてみれば誰かに聞けばいい。
そう思った。
不安な心に黒々とした水の苦みが広がる。
それが何か分からないまま、私はぽかんと空を見上げていた。
仕事柄、認知症の方とお会いすることが多いです。
未だ、全容が解明されていない病気ですし、どのような世界を見ているのかは分かりません。
ですが、なんとなしにこのような世界が見えるのではないかな、と思います。