血の檻
窓のない部屋。締め切ったドア。四隅に置かれた火のついたロウソク。
壁一面の血。
それはもう時間が経って、黒ずんでいる。
床一面にはなにかの肉片のようなものが転がっている。踏みつけてみると思ったよりも弾力性を感じる。
壁に広がる血よりもずっとずっと新しいもののようだ。
どこかからか花の香りがする。なんだろう。どこかで嗅いだことがある、と思考を巡らす。でも思い出せない。
ただ確実に知っている花の香りだ。
その花の香りと血肉の据えた悪臭と混ざりあって更に異常な空間たらしめている。
でも、イヤじゃない。
イヤじゃない??こんな空間が?
でもこれはやはり、私の居場所だから。私の生まれ育った場所だから。
なんだか少し落ち着かない気持ちになったので、いつも右の耳あたりにしている髪飾りに手を伸ばし、そっと触れた。
それは3センチほどの蝶の飾りで、髪飾りとしては小さめだ。高級感があるわけでもなく、その辺の雑貨店で買ったような安っぽい見た目をしている。
でも彼女はそれをとても大切にしていた。
彼女の心の拠り所なのだ。
私は暇つぶしに床に転がる肉片を優しく踏み潰して回る。
一歩、二歩、三歩。
つま先を使って潰してみたり、かかとにゆっくりと体重をかけて潰してみたり、いろんな方法を試してみる。
でもこんなこともいい加減飽きた。肉片ならもう腐るほど踏み潰してきたのだ。
面白くはない。
所詮はただの何かの死体の破片、なんの反応も返っては来ない。
反応がほしい。
それなら生きていればいいんだ。生きた人間をここに連れてこよう。
人間を誘拐するのでも、魔法陣から召喚するのでも、ホムンクルスでも、なんでもいい。生きて、意識を持ち、反応するならば...。
そういえば私はここにいつからいるのか?
私にだって親はいるはずだ。でも思い出せない。
そもそも私は勝手にここを生まれ育った場所だと思っているけれど、それも本当なのか?
そんなことを考えているとなんだか苛立ってきたので、床の肉片を勢いよく踏み潰す。
ぐしゃりと肉片は飛び散り、私の手に血がついてしまった。
自分の手についてしまった手を眺めているうちに、なんだか踏み潰した肉片にひどく興味がわいてきた。
平べったくなってしまった肉片を手に取り、じっくりと観察する。
うやうやしく口元に近づけ、ペロリと舐めてみた。塩気、鉄の味・・・あとはいろいろ。なんだかコクがあって、あとは血なまぐさい。
急に汚らわしく思えてきたので手に持っていた肉片をそこらへんに勢いよく捨てた。床に叩きつけられた肉片はびちゃっと音を立てた。
いけない、手が血まみれになってしまった。
赤黒い血で染まった壁に両手を強く押し付けた。
新鮮な血は赤い。まるで手形をとったように壁にはきれいに私の手の形が浮かび上がった。
それを見て少しだけホッとし、笑みがこぼれた。
ふと視線を感じて振り返る。
そこにはいやらしくニヤニヤとした30代前半くらいに見える細身で端正な顔立ちの男性がいた。
「ククク」男性は何も言わず、ただ笑った。
私はこいつが嫌いだ。睨みつけるが、彼にとってそんなことどうでもいいようだ。
「またやっているんだ」
私は何も言わない。ただ目をそらさず、にらみ続ける。
「ねえ、君にとってここはなに?暇をつぶすための場所、なの?」
無音。ロウソクの火が揺らめく。
「君にいい話を持ってきたんだよ、ねえ、そんな顔しないでよ」
ニヒルな笑みを浮かべている。生まれた時からそんな表情ばかりしてきたんだろうか?あまりにもその表情は彼に馴染んでいる。
「僕が 指示する方法で ちゃんと人を1人 殺せたなら この部屋から 出してあげる。」
彼はひたすら勝手に意味のわからない話を進めてゆく。
出してあげる、とはなんなのか?私は自分の意志でここにいる。
まるでそれじゃあ閉じ込められてるみたいじゃないか。
だいたい人を殺すって、まるで普通のことのように話しているけれどなんなのだろう?どういうつもりなのかさっぱりわからない。
だって 私は 人を 殺したことなんて ない から。
当たり前のことだ。
ただ私は、なんとなくそういう言われ方をすると不安になってくる弱いところがある。
私は 人を 殺したことが あるのか???
いや、ない。
殺していたら今ここにはいないだろう。
誰かを殺して、それを隠し通せるほどの行動力、思考力、意志、そのどれもが自分には欠けていると私には思えるから。
それに何より 私には 人を殺した 記憶 が ない。
それが何よりの証明じゃないか。
彼にできるだけ気取られないように胸を落ち着ける。
本当は隠し事なんて得意じゃない。
それでも私は彼のことが大嫌いだから、なんとか少しでも私の考えてることなんて見抜かれたくないとムリに気を張る。
「頑固だね。いい話だと思ったんだけれどなあ。」彼はわざとらしい口調で語りながら宙を見つめる。
その後私を真っ直ぐ見つめて彼はこう言った。
「ねえ、 君 は このまま で いいの?」
その目は鋭く、何もかも見通されているんじゃないかと思えるほどのものだ。
それにしても「このまま」とはどういうことなんだろう。
このまま、このまま、このまま、このまま、このまま、このまま、このまま、このまま、このまま。
そのワードがひどく引っかかる。でもなぜ引っかかるのか、そこまではわからない。
「まあいいさ、なんにも答えてくれないのはいつものことだからね。詳しい条件を書いた紙を君に渡しておくよ。気乗りしたらやってみてくれ」
そいつは軽い足取りで私に近づいてきて、二つ折りにされたメモ用紙を私の服の胸ポケットに入れた。
そいつがぐっともう一歩踏み込んできて、私の耳元で行った。
「君はやる。絶対やるよ。どれだけ嫌だと思っても、 絶対にやり遂げる。」
すっと彼は身を引くと踵を返して離れてゆく。
私の心臓はバクバクと太鼓のように大きく鳴り、冷や汗がだらだらと流れていた。
目を、上げられない。彼を見るのが怖い。イヤだ。
それでも大きく息を吸い込み、勇気を振り絞って彼を見つめようとした。が、もうそこには誰もいなかった。
ただ彼のいた雰囲気がそこには残っている。気分が悪い。
私は先程つけた両手の跡の下に体育座りをしてもたれかかり、腐臭の中に漂う花の香りにできるだけ意識を集中させて、息を吐きながらゆっくりと目を閉じた。