いのちだいじに
多少とも面白いと思って頂ける点があれば幸いです。
いのちをだいじに、命あっての物種、死んだらお仕舞い。現実世界ではどんなボンクラ、ポンコツ、与太郎でも正しく理解している真理です。ホモ・サピエンスが生まれて、農耕を始めて、文明ができ、有史以来大抵の法治国家において定められた、盗むなかれ、姦淫するなかれ、と並んであるであろう、殺すなかれ。
あたりまえのことにもかかわらず、どうして殺してはいけないの、どうして命は大事なの、と改めて聞かれると答えに困ってしまうキラーな問題でもあります。幸い私の周りにはそのような不遜なことを聞いてくる子供はいないので助かっていますがw 人の命は大切で、殺してはいけないのに、罪を犯した人は死刑にしてもいいの。
私個人の考えとしては、シリアルキラーなんぞ絞首刑でいいと思ってますし、馬鹿げた話ですが、現実それが殺人の抑止力にもなり得る、とも思ってます。私自身そういう状況で、必要なら、ためらいなく人でも殺すと思います。法律でも正当防衛だけは認められていますしね。
でも、日本であっても殺人者が死刑とは限りません。海外でも死刑に反対する考えの方は多いです。法律はどんな人間にも等しく適用される建前です。権利もまた然り。で、あれば、殺人者であっても生きる権利はあるでしょう。仮にあなたが真摯に話をしてみて、例え凶悪な犯罪者であったとしても、殺されて当然だ、と思える人物ばかりではないでしょう。
目には目を、歯には歯を、というのはシンプルで、フェアかもしれない刑法ですが、うちの子供が殺されたからあいつも殺してくれ、というのは感情的には理解できますし、書いてる私こそ真っ先に、自分の手で殺ってそうですが、現代法治国家としては野蛮でイカれてるんでしょうね。
どうして命が大切か、というのを理屈で言えば、要するに失われてしまえば何人も直すことも購うこともできないから、ということになりそうです。死んだものを蘇らせることは誰にもできませんし、誰かを殺してしまった場合、誰も責任取れない訳です。だから、殺人者は言う訳ですねw 俺(私)はやってない。
直せない、作れない、購えないから命は大事、とはいっても、空しく響きそうな言葉です。ファンタジーの世界だったら蘇生魔法・復活魔法・時間跳躍あり、ゲームの世界だったらセーブあり、と、そういう価値観とはズレた世界です。
命の話でも思うのは、やはりその社会や文化の価値観です。仏教系の私学では、例のウサギが焚き火に飛び込む話(飢えた老人に化けた神様に、クマとキツネは得物を取ってきて上げた。ウサギは狩ができず、上げるものもないので、火の中に飛び込んでウサギの丸焼きになった。ウサギを哀れんだ神様の力で、ウサギは星になりましたとさ)を聞かされることがあるらしく、全く理解できなかった、ウサギはどう考えてもおかしい、と、卒業生が笑ってました。これはインド古来土着の思想らしく、自ら食べられるのは尊いことだ、という価値観があるみたいです。ミノタウロスの皿みたいですね。
日本の場合思うのは「水に流す」という感覚と「命の軽さ」です。さらに言うと、階級は緩い部分もありましたが、「農奴」ルーツの人口が多い、ということも関係あるかもしれません。刑罰が罪の割には軽く、仕込んで社会に戻すという感覚と、比較的あっさり罪人を殺して海外から顰蹙を買っている感じです
結局どうして命は大事なの、と聞かれて答える答えは理屈としてはさっきのであってると思うんですが、私自身聞いても屁理屈、という感じしかしませんw 私も伝える、わかってもらう、というのがいかに難しいか、ということは思い知らされてはいます。私ごときの筆力ではこの程度のことすら成し得ませんが、少し書いてみます。
例えば子供が金魚を飼っているとします。軽く両手で持てる小さな金魚鉢で。金魚はわりと弱い生き物で、水が悪かったり、食べるものがなくて弱るとすぐに死んでしまいます。食べ残したエサや排泄物で小さな鉢の水はすぐに汚れてしまいますから、水も換えないといけません。でも水道水にはバクテリアや雑菌が湧かないように、小さな生き物に有害な塩素が匂うほど添加されています。塩素を抜くのに汲み置きもしないといけません。金魚といえどエサやり水換えが必須で、それなりに手間はかかります。金魚の世話がその子の日課になります。世話をして毎日みていれば自然と愛着も湧きます。なんなら名前をつけましょう。
ある冬の日、金魚はエサもあまり食べず底の方でおとなしく過ごしています。玄関に置いていた金魚鉢ですが、その子が水換えで水をこぼし、毎度毎度汚すので、業を煮やしたその子の母親は外へ移動させるように言います。移動させる途中で子供は金魚鉢を落として割ってしまいます。あわてて汲み置きの水を入れたバケツに金魚を入れますが、金魚は水面に浮いてきて、しばらく動いたり止まったりを繰り返し、ついに動かなくなります。もしかしたらまだ息を吹き返すかもしれないと思い、そのままにしておきますが、次第にふやけていきます。母親には庭に埋めてきなさい、と言われます。子供は金魚のお墓を作った後に、自分の部屋へ行ってベッドで泣きます。
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生き物というのは他の生き物を犠牲にして生きています。喰わずに生きられるのは植物ぐらいのモンです。・・・いや、特殊な環境下では食虫植物なんてのもいましたね。人体も7年経てば脳細胞以外は全部入れ替わっていると言われています。でも、脳細胞は増殖こそしませんが、その保持する内容は結局ソフトウェアでしょう。今や多くの人が、電脳世界の何たるかを経験としてもわかっています。データや記憶なんてコピーしまくれることを知っています。トカゲの尻尾切り、という驚異的なテクニックがあります。私達は食料としての他の生き物だけでなく、同族や、自分自身の幾多の細胞をも犠牲にして、それでもなお生きている訳です。
想像してみてください。あなたはあなたの細胞の一つ、もしくは指・腕・足、尻尾、体の一器官です。あなたが生きるために、細胞のひとつ、器官のひとつでしかないあなたは今回、死に、滅びるしかありません。
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金魚は脆弱な生き物です。世話する子供が水換え・エサやりをサボっていた、一生懸命世話していたけれども金魚鉢を割ってしまった、それだけでも死んでしまうかもしれません。 ・・・でも、私達も、その金魚とそんなに違う訳でもないんです。
・・・この世界・宇宙はある子供の小さな、小さなアクアリウム、ビオトープでした。いずれは皆滅びるちっぽけな命が無数に暮らしています。子供が近くでうっかりくしゃみでもしたら吹き飛んで、運んでいる時落っことしたら割れて飛び散り、一瞬で全滅します。私達は必死でお願いします。神様、どうかくしゃみをしないで下さい、鉢を落とさないで下さい。どうか、どうかお慈悲を。
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生命は自分自身、生活圏、地球、宇宙と広がっています。逆に、ミクロな世界に目を向ければ、何でもないところにとんでもない数の生き物がいることでしょう。それがある一つの普遍的な価値なんですが、逆にそれに比類する価値を定義することは難しい、とさえ言えます。命というのか世界観なのかわかりませんが、そういう主題を描こうとしていたという意味でも、物語的には他にもっといいのがありそうですが、火の鳥は傑作だ、と勝手に思っています。殺人者だらけのマンガですけどねw
こういうのは書かないようにしようと思ってたんですが、ついつい書いてしまいました。せいぜいエッセイまでで、私小説は書くまいと思っていますし、お話はフィクションであるべき、とも思ってます。最低限の統一感として、物語ではあるべき、ということに今はしてます