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右のこぶしを引き絞った岩灯の王は、激しく大地を踏み鳴らしながらまっしぐらに男に迫ってくる。
男は姿勢を低く保ったまま、軽く握った右手を脇に引いて応じた。
間合いへ踏み込んだ岩灯の王がこぶしを突き出すのと同じくして、男は地を蹴り一直線に跳び上がると固く握りしめたこぶしを繰り出した。
大気を震わすような轟音とともに互いのこぶしが砕け散る。
血煙と粉塵が視界を遮る中、すぐ真下に迫る強烈な殺気に男は反射的に右足を踏み下ろした。
男の右足が潰れるのと同時に岩灯の王の左膝が砕ける。
蹴り上げられた衝撃で男の身体は空中高くに投げ出されてしまうが、左脚が使えなくなった岩灯の王は自分の身体を支えられずに背中からその場に倒れ込んだ。
岩灯の王が体勢を立て直す前にその巨体の腹部に着地した男は、未だ剣の突き立つ胸の中心へ向かって脇目も振らずに駆け出した。近寄るなり無事な左手を振り上げると、そのまま剣の柄頭へ思い切り叩きつける。
当然、打ちつけた左こぶしは潰れて大量の血が飛び散るが、男はそんなことなど構わないとばかりに、今度はすでに潰れている右のこぶしを振り下ろした。
こぶしが柄頭に打ちつけられるたびに、岩灯の王の巨大な胴体は大きく跳ね上がり、胸の中心から亀裂が少しずつ広がっていく。
反撃の隙すら与えないように絶え間なく殴打を浴びせていき、やがて男の両手が原形を留めないほどに押し潰れたころ、岩灯の王の胸部に打ち込まれた〈火神の剣〉は、その根元近くまで深々と突き刺さっていた。
男はひしゃげた両手で挟むようにして柄を押さえると、そこにあらん限りの魔力を一気に流し込んだ。
「燃やし滅ぼせ!!」
岩灯の王が動きの止まった男を振り落とそうと左手を伸ばしたとき、その巨大な胸の中心で激しい閃光が生じた。刹那の間にすべてが光の中に飲み込まれ、世界が白く染め上げられたかのような錯覚を起こさせる。
やがて、男の視界が明瞭さを取り戻したとき、周辺の光景は大きく変貌していた。
岩盤の広がる穴底はまるで焦土のように黒ずみ、熱を帯びた地面の所々が赤く明滅している。周囲を囲んでいた通路の下層は先程の爆風で吹き飛んでおり、瓦礫の山と化していた。
男がかろうじて顔を前に向けると、そこには白煙を濛々と上げながらもゆっくりと立ち上がる岩灯の王の姿があった。
巨大な身体の至る所に裂け目が入り、胸の中心にあいた大きな穴の下側には、溶けて流れ出たものと思われる粘質のある石が未だに赤い光を放っている。全身は今にも崩れそうなほどの損傷を受けているものの、男との戦闘で壊れたはずの右手や左脚は軽く動かせる程度には修復されているようだった。
(ちっ。頑丈なやつめ)
のっそりとした動きで近づいてくる岩灯の王を見上げ、男は内心で悪態をつく。
剣身の大部分は岩灯の王の胸部に埋め込んでいたとはいえ、至近距離で爆発を浴びた男もまた、その影響で相当の深手を負っていた。
爆発は男の身体を容易く引き裂き、抉ったような傷をいくつも刻んでいる。間近で受けた手足は特にひどく、その大半が消し飛んでいた。
十分に距離を詰めた岩灯の王はこぶしを握りしめると、身体を捻りながら左肘を大きく後ろに引いて力を溜めていく。
男は肩口にわずかに残った腕で無理やりに上体を起こしたが、もはや抗う術など残っていなかった。けれども、気持ちだけは負けないとばかりにギロリとにらみつける。
岩灯の王はそんな男の姿を冷ややかに見下ろすと、限界まで引き絞ったこぶしを勢いよく突き出した。
これまで以上の速度をもって繰り出される恐るべき一撃を前にして、なおも闘志を絶やさない男の心を表すように、突如青黒い炎が男の身体から燃え上がると、見る間にその身を包んでいく。
こぶしの先が炎まで達すると、突然弾かれたように横へと逸れ、男のすぐそばの地面を土くれの如く打ち砕いていった。
炎が消えていく中で、失ったはずの右腕を真横に振り切る男の姿が見えてきた。右手の甲からは血が流れていたが、傷口から炎が上がるや否や、まるでその傷を運び去るかのように掻き消えていく。
蘇灯の王の権能によるものだ。
男は青黒い炎が消え切る前にその場で身を沈めると、瞬間的に高まった魔力のすべてを込めて、全力で地を蹴り飛び出した。地響きを立てて、爆発的な推進力によって高速で跳び上がる様は砲撃を思わせるものだ。
元いた地面は陥没し、蹴りつけた側である男の右足は反動に耐え切れずに破裂する。
血風を纏って流星の如く宙を駆ける男へ向けて、岩灯の王は咄嗟に右のこぶしを振るうものの、その手はむなしく空を切った。
一足飛びに岩灯の王の胸の大穴へ飛び込んだ男は、大きく身を捻って左こぶしを限界まで後ろに引くと、跳躍の勢いをも利用した渾身の力でもって、大穴の最奥部目がけて思い切り殴りつけた。
耳をつんざく打撃音とともに、岩灯の王の巨体が宙に浮かんで、背中から地面へ叩きつけられる。その姿はさながら小山がひっくり返るかのようだ。
岩灯の王の身体は地面にぶつかって小さく跳ね上がるも、そのままなんの抵抗もなく、音を立てて崩れ落ちていった。
(……やった、のか)
岩灯の王からやや離れた位置に落下した男は、右手でどうにか身体を起こすと、片膝をついた状態で前方を見やった。その様相はまさしく満身創痍であり、先程の突撃の際に潰れた片側の手足は、もはや使い物にならない有様であった。
とはいえ、それも当然の結果といえるだろう。
つまり、先程の攻撃こそが男にとって文字通りの決死の一撃だったからである。今、男が負っている負傷は、蘇灯の王の権能による強制的な魔力放出さえも利用して、おのれの限界以上の力を引き出した代償なのだ。
しばらく様子を窺っていたものの、相手が動くような気配はない。
男は警戒を保ちつつも、片足を引きずりながら近くに転がっていた〈火神の剣〉を拾い、それを支えにして立ち上がった。そのときである。
岩灯の王の残骸の一部が吹っ飛び、瓦礫の下から石の甲冑を身に着けた何者かが姿を現した。
その身長は高く、非常にがっしりとした体型をしている。網目状の模様を施された土気色の甲冑はかなり使い古されたもののようではあるが、特殊な素材を使っているらしく、芯に届くような傷や歪みは一切見受けられない。
しかし、それよりも気にかかるのは、武器の類いを一切持ち合わせていないことだ。
(やつが岩灯の王の正体か)
甲冑姿の岩灯の王は、瓦礫の上から地面に降りると、男に向かって歩き始めた。
対する男は、足先のない右脚の傷口を地面に押しつけるようにして、両足で立ち構える。
けれども、すでに死力を尽くした男には、気力も体力も残っていなかった。権能を維持するための魔力も底を突き、その姿は元の小柄な身体に戻っている。
こうして立っていること自体が奇跡といえるだろう。
やがて、両者の距離が二十歩程度になったとき、岩灯の王は不意に右腕を真横に伸ばした。すると、右手の真下にあたる地面が盛り上がり、そこから黒い棒状の物体が飛び出してきた。
まるで吸い付くように岩灯の王の右手の中に収まったのは、闇よりも深い漆黒の石剣だ。黒き剣が放つ禍々しい気配に、男は本能的な忌避感を覚える。
それが、男自身や内に宿す灯火の王……のみならず、神々さえも殺し得るような摂理を超えた力を有していることを感じ取ったからだ。
間合いの一歩手前の位置で岩灯の王が立ち止まる。
互いに向かい合い、男の視線と甲冑の奥の視線が静かにぶつかった。
そして、どちらからともなく剣を振り上げると、当然の如く、岩灯の王の黒剣の方が数瞬速く打ち下ろされた。
黒剣が額に当たろうかという寸前、剣を振り下ろそうと体重をかけた男の右脚が踏ん張りをきかせられずにズルッと滑り、男の身体が横向きに倒れかかる。
しかし、超絶的な力を秘めた黒剣は、男の胴体を容易く両断してしまう。
ところが、そのときにちょうど半ばまで振るっていた〈火神の剣〉が、偶然にも岩灯の王の首に当たり、神剣たる切れ味を発揮して甲冑ごと斬り裂いていく。
そのまま岩灯の王の首を刎ねるのと同時に、二つに分かれた男の身体がボトリと地面に落ちた。
そうして、地面に倒れた男の意識が薄れかけたときである。
これまで感じたこともない強烈な痛みが全身を駆け巡った。それはまるで、身体を内側から食い破られて、掻き回されるかのような感覚だ。
原因は黒剣に斬られたことなのだろうが、男にはどうすることもできなかった。
気を失うことも許されず、苦痛に耐えかねて身を悶えさせては、苦悶の声を漏らし続けた。
しばらくしても痛みは治まらず、身体の奥深くまで食い込んだ激痛は男の魂さえも蝕んでいく。
ところが、永遠に続くかに思われたそれは、予期せぬ方向へと変化を見せた。
身体の表面から徐々に痛みの性質が変わっていき、侵食され蝕まれる感覚から焼き焦がされる感覚に変質したのだ。
ぼんやりと霞む視界が最後に映したのは、おのれを包む赤い揺らめきであった。