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翌朝、日が昇るとともに男は石の山に向かって歩いていく。
持ち物は腰に提げた剣と、その反対側に吊るした小袋の二つだけだ。
弓矢の矢筒には低位ではあるが恩寵がついており、道中の魔物に対して非常に有効な武器なのだが、灯火の王自体にはあまり効き目がなく、荷物にもなるため置いてきている。
入口を潜るとすぐに階段があり、男が足を踏み入れるとほぼ同時に眼前の暗闇が明るく照らされた。
咄嗟に剣を抜いて構える男であったが、それ以上に何かが起きる気配はない。
光源へと目を向ければ、それは階段入口の両脇に備えられた石台の真上の空間にて、不自然にも浮かびながら周囲を照らす火の塊だった。おそらくこの何の変哲もないように見える石台こそが、空中で燃える火を灯すための灯火具なのだろう。
(おれに宿る灯火の王の魔力に反応しているのか……)
〈風読の加護〉が反応しないことからも、それが魔力的な性質を持つ何かであるのは確実である。
灯火具は通路を挟んで左右にも設置されており、それが十五歩程度の間隔で通路の奥へと配置されている。入口側に設置された灯火具が男の魔力を感知して火を灯すのをきっかけに、奥の方に配置されている灯火具にも次々に火が灯っていく。
通路の先が照らされるにつれて、広大な地下空間の全貌が見えてきた。
現在男のいる階段の右側は岩肌の壁、左側には大きな縦穴が広がっており、この縦穴を中心にして緩やかな円を描くように通路が続いている。
通路全体は、長い階段と平らな道とを交互に繰り返した巨大な螺旋階段のような構造になっている。おそらくは一周するだけでも半刻はかかるような大きさがあるのだろう。それが底の見えない縦穴の先へと続いているのだ。
気が遠くなるような道のりではあるが、見た限りは通り道での危険はなさそうであることに安堵しつつ、男は気長に歩いて進むことに決めるのだった。
歩き始めて一刻ほど経ったころだろうか。
それまでは何事もなく順調に進んでいたのだが、立ち止まった男の目の前にある通路は大きく崩落していた。向こう側に渡ろうにも、足場のない二十歩くらいの距離をどうにかしなくてはならない状況である。
とはいえ、別に飛び移ることができないわけではないのだ。
王の権能を駆使すれば、この程度の距離を越えることなど容易くはある。しかし、権能を行使することによる魔力の損失と肉体にかかる負荷は相当なものだ。何か一つ問題があるからといって、おいそれと力を使うわけにはいかないのである。
(ちょうどいい、試してみるか)
男は腰に吊るした小袋から、砂粒ほどの大きさの植物の種を取り出した。
小さな種を一粒だけ手のひらに乗せてじっくりと魔力を注ぎ込むと、そのまま足元の床に落とした。
「種子よ」
男が呼びかけるも、足元の種に動きはない。しばらく待ってみても何かが起きそうな気配はなかった。
(魔力が足りないのか? いや、やり方が違うのか?)
先程よりも強く魔力を込めながら、種に向けて手のひらをかざす。
「種子よ、芽吹け!」
しかし、同様に変化はない。
男は一つ息を吐いて、落とした種を静かに見据えた。
今回試したのは樹灯の王の権能を使った実験の一つだ。実のところ、砂漠の移動中に使っていた弓矢の木矢や焚火の薪なども、樹灯の王の権能により再生させた植物の欠片である。同じように種も権能によって成長を促進させられるのではと考えていたのだが、どうにも勝手が違うのだ。
(種子には権能の影響が及ばないのか? いや、だが手に持った感覚からするとできないことはないはずだ。それにしてもなんだ、まるで魔力がすり抜けていくような……)
植物を欠片から再生させたときには、ある一定の魔力を与えて呼びかければ意図した通りに動き始めたのだ。しかし、種の場合にはそもそも魔力を受けつけていないようにすら感じる。
(いや待て。いったん情報を整理するべきか)
そこで男が思い浮かべたのは、自らが所有する権能や恩寵についてであった。
蘇生を司る権能は除外するとして、まずは力を司る権能からだ。男が最初に権能を手にしたとき、真っ先に行ったのは、そのとき単純にどれだけの力が出せるようになったかの確認と、奪った王の魔力が自分の中へどのように取り込まれているのかの確認である。そこで見つけたのがおのれの心底に溶け込んだ王の思念だった。
灯火の魔力とともに取り込まれた彼の王が男に求めたのは、望む力に見合うだけの強い意志を示すことと多大な魔力の代償だ。それらを代価にして強大な権能を男に与えてくれるのだ。
〈火神の剣〉や〈清冷の矢筒〉の恩寵を使う際は、権能を行使するときとは異なり、そこになんらかの意思が介在するようなことはない。どうしたいのかを思い描けば、それに合わせた形で必要となる手順や魔力が心に浮かぶので、それに沿って恩寵を発動させるのである。
権能と恩寵、どちらの力を使うときにも共通するのは魔力の存在であり、異なるのは力を使う際の条件や何かしらの要素といった部分なのだろう。特に権能の場合は意志や想いといった心理的な部分の影響が大きいと推測できる。
(実際に聞いてみるのが手っ取り早いな)
樹灯の王の権能を使うときの感覚で、足元の種の存在を頭の片隅に置きながら、男はゆっくりと目を閉じた。
意識をおのれの内へと向けて沈ませる。
決して焦ることなく、けれど着実に進んでいく。やがて辿り着いた先はおのが心底の奥深く、深層の更なる果てだ。
おのれという個の範疇を越えて、真理に近きその場所に座するはいくつかの灯りだ。その中でも一際大きな輝きを放つ新緑の光に男は意識を近づけていく。
光の内側はぼんやりとしか見えないが、その中にいる何者かが男を見据えてきているのはわかった。その人物は大柄で豪奢な衣服を身に纏い、見覚えのある王冠をかぶっている。かつて生気を失っていた瞳には、今は力強さと知性の光が宿っていた。
男が見つめ返すと、光の中に佇む人物は見定めるように鋭い視線を向けながらおもむろに口を開いた。
――王たるに相応しき威厳を示せ。
それだけ言い放つと、光の中の人物はスーッとその存在を消した。
それとともに男の意識もまた、表層へと引き戻されていく。
(なるほど。王に相応しい威厳、か)
樹灯の王から得られた情報はそのたった一言だけであったが、男にはそれで十分であった。
男は足元の種に向けて、再び手のひらをかざして魔力を送り始めると、カッと目を見開いた。
「種子よ!!」
男の言葉に反応して足元の種がいびつに歪むと、殻を破って何本もの茎が突き出てきた。それらは瞬く間に伸びて石の床を突き破ると、そこに地下茎を張り巡らせながら更に生長していく。
大きく成長を遂げた植物は男の魔力を吸いながらなおも茎を伸ばし、伸びた茎が崩落した通路の先へと溢れてスルスルと垂れ下がっていく。すでに壊れかけていた通路の端を完全に破壊し、十歩分以上の距離を覆いつくしても一向に止まる気配のない植物の茎は、階下の床付近まで伸び続けてようやくその生長をやめた。
(恐ろしいほどの成長力だな。そして、何よりも驚くべきはその成長速度か)
おそらくは男が最初に注いでいた魔力も含めて、周囲に漂っていた魔力をすべて取り込んだ結果なのだろう。しかし、魔力を与え過ぎたとはいえ、元はそこらに生えているただのツル植物の種なのだ。その成長具合には目を見張るものがある。
(魔力の消費はそれなりになってしまったが、おかげでいろいろとわかったことも多い。今試したのは正解だったな)
今回のことで魔力消費が余分に増えたとはいっても、権能を使って力任せに飛び越すことよりは消耗を抑えられたのは間違いないだろう。それに帰り道のことを考えても、結果としてこちらの方が都合がよかったといえる。
(それにしても、ただ命ずるだけでよかったのは意外だったな……)
樹灯の王の権能を行使するとき、これまで男が参考にしていたのは、〈火神の剣〉をはじめとした恩寵武器を使うときの感覚だった。つまりは植物と対等の立場に立ち、願いを伝えていたわけである。
しかし、今回樹灯の王が男に助言したのは、王として威厳を示すこと。すなわち、植物に対して『頼む』のではなく、『命じる』ということだ。
言われてみれば納得のいく答えではある。
とはいえ、それが男にとって意表を突くものであったことには違いなかった。
男が権能の発動条件を読み誤ったのには、いくつかの要因がある。
まず、今まで得てきた権能が力の方向をおのれの内側に向けていたのに対して、樹灯の王の権能は逆にその対象をおのれの外側へと向けていることである。この時点で以前まで用いてきた権能の対応方法が通じないわけだ。そこで比較の対象としたのが、同じく力を使う対象を外側に置く恩寵武器であった。
そもそも恩寵武器とは、神の力の一部である恩寵を宿した道具であり、神々に最も近き代物だ。つまり最大の礼儀を持って接すべき存在であり、樹灯の王の権能とは対照的な能力だといえるだろう。
初めに樹灯の王の権能の能力を確かめるために実験をしたとき、男は落ちていた木片を使って試したのだが、ある意味これが一番の過ちだったといえる。
その段階で失敗であるなら、それはそれでよかったのだ。ところがこれが成功してしまったのである。当然、男はこれが正規の方法だと思ってしまった。
植物とは本来、ほかの生物と意思疎通を図ったり、言葉を介したりする生き物ではない。ましてそれが植物として未熟な段階の種ともなれば、いわば人にとっての胎児や赤ん坊のようなものなのだ。その種に対して言葉や回りくどい表現など伝わるべくもない。ならば言葉ではなく、感情や意志などといったところで指し示すほかないのは道理といえるだろう。
木片に対して権能が効いていたのは、長らく生きてきた樹木自体に備わる知恵によるものである。ただし、行使していた当人が能力の本質を理解していなかったために、権能本来の力には遠く及ばないものではあった。
(さて、そろそろ行くか)
男は階下へ垂れ下がるツルを掴むと、それを伝って眼下の闇の先に薄らと見える通路へとひたすらに下っていった。
それから更に一刻の時間が過ぎた。
途中にも三箇所ほど崩れた通路があり、同じように樹灯の王の権能を行使して階下へと移動した。
ツル植物を使った移動は、時間的には歩くよりも格段に早いものの、体力や魔力効率面を考えればあまりいい選択とは言えないため、通常は普通に歩いて通路を進んでいる。
そうするうちに、縦穴の底に明るく照らされた広い空間があるのが見えてきた。
ようやく最後の階段を降りきり縦穴の底へと辿り着いた男は、その場で立ち止まると真っ直ぐ前方の空間を見上げた。
開けた空間の奥に見えるのは、小さな山くらいの大きさはあるいびつな形をした巨大な岩だ。
その両脇には、岩を守るようにして二体の剣を持った石像が並び立っている。
やがて、地鳴りのような大きな音を立てて、正面の巨大な岩が動き始めた。