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まだ夜も明けきらぬ早朝。
大型の鳥類が二羽、薄暗い大空を悠々と駆けていた。
つがいだろうか。寄り添うように飛翔しながら、時折じゃれあって美しい鳴き声を高らかに響かせている。
やがて、水平線の彼方から昇る日差しを受け、心地よさそうに目を細めたつがいは眼下を一望する。
そこにはいつもと変わらぬ景色が広がっており、そよ風だけが優しく草木を揺らしていた。
ほどなくして、一羽が大きく鳴き声を上げると、つがいは吹き上がる風に身を任せて、雲の切れ間から澄み渡る青空へと高く高く舞い上がっていった。
なだらかな傾斜の続く草原が見渡す限りに広がっている。
朝霧の晴れた大地はしっとりと濡れており、その所々を暖かな陽光の柱が照らしていた。
静かで穏やかな時間がゆったりと流れる中、小気味よく地を蹴る音が小高い丘の上から広い草原へと響き渡ってきた。
草を踏み鳴らし、大地を揺らす四足の獣は一頭の駿馬だ。
その見事な体躯を活かし、鬣と尾を風になびかせながら驚くべき速度をもって疾走していく。
その背に跨る主人は、持ち馬に似つかわしくない小柄な男だった。
しかし、十二分に鍛え上げられた肉体には、小柄な体型からは考えられないほどの秘めたる力が隠されている。
伝統的な衣服に身を包んでおり、背には弓と腰に剣を提げた風貌からは部族の戦士であることが窺えるだろう。
しばらくして、嘶きを上げて鹿毛馬は立ち止まった。
男は馬から飛ぶようにして降り立つと、遥か遠方を見据えながら弓を取り出し、矢をつがえ始めた。
それは常人にしてみれば砂漠に落ちた小石を探すに等しい行為なのだが、男は視界に入った点ともいえぬ小さな標的を確実に捉えていた。
(……大鬼種か)
弓弦を引いていた男は、更に力を込めて弦を引き絞る。
ギリギリと音を立てるようにして曲がっていく弓は、いつしかそれ自体が矢であるかのように弓全体が大きく湾曲していく。
それを引く男が恐るべき怪力であるならば、応える弓も尋常ならざるものである。
そうして、十分過ぎるほどに溜めに溜められた暴威は、これまた常軌を逸するまでに高められた圧倒的な集中力をもって解き放たれた。
風を切る、そんな生易しいものではない。
馬でさえ一刻は要する距離を、たった数瞬の間に抜き去ったのだ。
標的が倒れるようにして見えなくなるのを確認すると、男は馬の首筋を撫でつつ労いの言葉をかけた。
「メーニ、良い子だ。またひとっ走り頼むぞ」
気持ちよさげに顔をすり寄せていたメーニは、主の声かけに応じて鳴き声を上げる。
男は頷いてメーニに飛び乗ると、手綱を握って横腹を足で軽く蹴った。
「よし、行くぞ。ヤー!」
普通の馬で一刻はかかるだろう距離を、メーニは半刻と少しの時間で駆け抜けた。
男はメーニから降りると、地に伏す巨大な死体に目を向けた。
男が大鬼種と判断した二足の怪物は、大の大人よりふた回り以上もするほどの巨躯を誇る魔獣と呼ばれる生き物である。質素ではあるものの皮の衣服を身に着けていることから、一応の知性は有しているらしい。
今は男の矢によって脳天を穿たれており、怪物の背後には頭の中身がぶちまけられていた。
しかし、男がここに来た目的は怪物の生死の確認ではなく、その奥に見える森の方にあった。
「メーニ、すまんがここで待っていてくれ」
男はメーニの腹をさすると、森に向けて歩き出した。
外界からの侵入を拒むかのように背の高い樹木の生い茂る一帯は、まさに大森林と呼ぶに相応しい場所である。
男が森の入口に近づくと、突然風が起こり、周辺の枝葉が宙に舞い上がった。
それらは男の目の前の空間に集まると、やがて人の形を成していく。
――人間が、この地に何用ですか?
直接脳内に響く声に、男はピクリと身を震わせた。
しかし、わずかな動揺はしても男に一切の隙はない。自然体のまま敵意がないように振る舞いつつも警戒は解いておらず、鋭い眼光はしっかりと相手の動向を探っている。
「……森の精だな?」
――いかにも、私は『神樹』を守護せし者。今一度問いましょう。いかな理由でこの神聖なる地に踏み入らんとするかを。
ふう、と男は小さく息を吐いた。
いきなり襲われなかったことからも害意がないだろうことはわかっていたが、いかんせん確証がなかったのだ。それに、話が通じる相手ならばどうとでもなるだろう。
「灯火の王……」
と、そこで一度言葉を切り、反応を窺う。
精霊は明らかに動揺していた。そもそも表情や顔というもの自体が存在しないが、人型に形成しているはずの風が乱れ、わずかに姿が歪む。
しかし、それ以上の反応はなく、次の言葉を待っているようだった。
「歴代の灯王の内、樹灯の王がこの土地に眠っていることはわかっている。ここを通してもらおうか、森の精よ」
――なるほど、資格はあるようですね。……いいでしょう、古き盟約に従いあなたを歓迎します。小さき弑逆者よ。
小鳥がさえずり、かすかな虫の音が聞こえてくる。
鬱蒼と茂る草木は、まるで男に道を譲るかのように枝葉を避けており、普段なら進むもためらうような難路も比較的楽に進むことができた。
途中、小川で水を汲んだりして更に進むこと一刻半。
突然開けた視界に男は足を止めた。
そこには先程まで周囲を取り囲んでいた木々はなく、森林の真ん中に巨大な穴をあけるようにして、大きく開かれた空間があった。
その空間の中心に聳え立つは一本の巨樹だ。
頭上を仰ぎ見て、ようやく枝の分かれ目を視認できるほどに、高く大きく枝葉を広げて他を圧倒している様は、まさしく偉観といえるだろう。
その巨樹の根本。地面より少しばかり高い位置に、人ひとり分はあるだろう出っ張りが見える。
それがゆっくりと動き出した。