12.恥ずべきは、心の弱さ
天使の両翼は敏速な羽ばたきで、フェイヴァを天空に押し上げていく。隠し続けてきたのが嘘のような身体に馴染んだ動きだった。
みんなに正体を晒すと決意して飛び立ったというのに、内心は強い憂心に支配されている。フェイヴァの胸に心臓が存在していたとしたら、激しく鼓動し呼吸さえ困難になるほどの辛さを味わわせていたことだろう。
人でない証である、金属の翼を広げ舞い上がった自分を見て、みんなは一体どう思っただろう。
考えれば考えるだけ苦しくなる。だから地上に顔を向けることができない。みんなの表情を目にしたら、自分はきっと力が抜けてしまう。戦うことができなくなってしまう。
天然の照明に照らされた妖魔は、悠々と浮かんでフェイヴァを待ち構えている。冷気を含んだ風が流れ、怪物の触手じみた灰色の髪をそよがせる。一対の瞳は深紅の宝玉のごとく鮮烈な眼光を湛えており、闇夜の中に不気味に浮かび上がっていた。
レイゲンに斬り落とされた獣の頭部が、再生し始めていた。赤黒い血で塗れた傷口から、肉を引き千切るおぞましい音を立てて頭部が放り出される。ぬめり気を帯びた水音を響かせながら元通りになった頭部は、牙を剥き出しにした。唾液が鋭い牙を伝う。
おどろおどろしい再生のさまを見せつけた化物よりも、地上にいる仲間たちの表情の方がよっぽど恐ろしかった。臆病さが影のようにフェイヴァにまとわりついている。
いけない。柄を握り込んだ手に、気持ちを紛らわせるために強く力を込める。今はただ、倒すべき敵に集中する。
妖魔の胸の前に薄紫色の剣が生成される。月光を受けた凶器は、切っ先を鈍く輝かせた。フェイヴァに向けられた五本の剣が、次々と放散される。空気が爆ぜる音を鳴らし突き進む速度は、銃口から撃ち出される散弾に勝る。
フェイヴァは翼を繰り、斜めに飛翔する。身の丈を越える大きさの両翼は、力強く風を捉え、脚力を上回るほどの速度を生み出す。ワグテイルの炎によって焼け縮れていた髪は、今やすっかり元の長さにまで再生しており、顔の横で荒々しくはためいていた。
妖魔の頭上を飛び越えたフェイヴァは、刀身を振り抜いた。人間に酷似した上半身。その青白い首を刎ねるために。
澄んだ金属音が鳴り渡り、わずかな残響が溶けていく。フェイヴァの大剣は、首の真後ろに構築された障壁によって防がれた。枝分かれした尾がしなり、フェイヴァに叩きつけられる。峻険な山の頂きめいた巨大な突起が、片足の皮膚を裂く。フェイヴァは大きく翼を動かし、妖魔と距離を取った。
瞬く間に展開され、身を守る障壁が厄介だ。全身を覆うように構築することはできないようだが、フェイヴァ一人では手数が限られてしまう。
(――でも、それでも戦うしかない!)
勝ち目のない戦いだとしても、今さら放り出すことはできない。逃げないと決めた。
再び薄紫色の剣が作り出される。光の当たり具合によって半透明に見えるそれは、ユニの記憶の中で見た、独りでに動く菱形の刃を思わせた。けれどもそれよりは追尾性能が劣り、一度避ければ進行方向に突き進んでいく。目標に突き当たるまで飛ぶのなら、ぎりぎりまで敵に近づき直前で躱して直撃させるという戦法が使えるのだが。
拡散し迫る剣を、フェイヴァは降下して躱す。今度は足下を狙うようにして、三本の剣が放たれる。フェイヴァは翼を使い、高度を上げて回避する。血で濡れていた外套はすっかり乾いて、フェイヴァの動作に合わせて舞うかのようにはためく。
胴を狙い放たれた剣を、急上昇して躱した瞬間だった。完全に回避したと思っていたが、外套の端に剣の切っ先が突き刺さり引き裂いていった。突き抜けた刃の勢いがあまりに激しく、身体が下方に引っ張られる。
長時間に渡る暴行を受け、死天使の身体は体力を消耗していた。体調が万全になる前に身体に鞭打ち飛翔したために、動作に疲労がにじみ始めている。懸命に羽ばたいている翼も例外ではなかった。
引っ張られた身体を制動し高度を上げると、まるで行く手を阻むかのように頭上と足下を狙い剣が飛来する。
眼前に飛び込んできたのは、二頭の口腔にきらめく光だった。不味いと、思考するだけの時間しか与えられなかった。煌々とした光を湛える月に負けぬほどの光線が、牙の間から迸る――。
獣の咆哮が、耳を聾する音量で響き渡った。苦痛を帯び驚愕さえにじませたその声は、フェイヴァを今まさに光束で焼き切ろうとした妖魔の口から放たれたものだった。
化物の胴を、長い刀身が貫通している。
見慣れた片手半剣の持ち主は、レイゲンだった。翼竜に騎乗している彼は、手綱をぐいと引き、妖魔の首を薙ぎにいく。硬質な音が散り、刀身と妖魔の首の間に立ち塞がった障壁の間で、光が鋭く瞬いた。レイゲンの存在に気づいた化物は、瞬時に薄紫色の盾を展開し、振り向きざま腕を振るった。小刀と化した爪は、風を鋭く切る。レイゲンは妖魔の足下を潜ると、フェイヴァの隣で翼竜を留める。
「レイゲンさん……」
何故彼が空にいるのだろう。地上のみんなは、ユニ以外傷を負っているのだ。その上、魔獣たちが今にも飛びかかろうと部屋を見下ろしていた。フェイヴァを助ける余裕などないはずだ。
みんなを見下ろすのが怖い。顔に浮かぶ感情を目に入れると思うと。薄情で意気地のない自分に、激しい嫌悪感を抱く。
みんなに危険が迫っているにもかかわらず、よくもこんな思考が浮かんでくるものだ。そうやって自己を叱る理性の声は弱い。
心に染みついた恐怖は、みんなを視野に収めるのを拒否する。
(この弱虫の自己中!)
フェイヴァは自身を罵倒して、一気に視線を眼下に走らせた。
地上では、部屋の中に踏み込んできた魔獣たちにみんなが応戦していた。熊型の魔獣――【絶壁】が床を蹴り接近し、ユニの散弾銃が顔面に弾を浴びせる。透かさず間隙を埋めたハイネとルカが、息の合った動作で大剣を振るい首を切断する。
地面から飛び降りた【三頭の黄昏】に、リヴェンの雷撃が直撃する。サフィは彼の後方に控え、能力を発現させていた。リヴェンの身体に刻まれていた傷が、柔らかな光を帯びて癒えていく。
なんて馬鹿なことを考えていたのだろう。魔獣が襲いかかってくるというのに、フェイヴァに視線を向けている暇などあろうはずがない。
真横から吹き飛ばされ、フェイヴァは深い自己嫌悪から脱却する。レイゲンがフェイヴァを突き飛ばしたのだ。二人の間を、妖魔が放った剣が通り過ぎていく。
「みんなのそばにいてあげてください!」
翼で空気を叩き身体を留まらせたフェイヴァは、レイゲンに叫ぶ。彼は地上に降りてみんなを助けるべきだ。それに、死天使である自分のそばにいれば、どんなふうに思われるか。フェイヴァの思いも知らず、レイゲンは大剣を妖魔に向けて構える。
「お前一人では心許ない。こいつを片付けるのが先決だ」
胴を蹴ると、翼竜は疾風のごとき速さで妖魔に迫る。
この状況でレイゲンを説得している暇はない。ならば、彼に従うしかない。フェイヴァは迷いを振り払い、彼に続く。
レイゲンの大剣によって傷ついた妖魔の胴体は、完全に修復していた。こびりついた赤墨色の血だけが、化物が負傷していた事実を示している。
レイゲンは肉薄しざま、分厚い刀身を走らせる。妖魔は胴の前に障壁を展開し、攻撃を防ごうとした。が、レイゲンは巧みな手綱捌きで化物の頭上に飛び上がった。攻撃すると見せかけて、直前で方向転換したのだ。首を狙い、斜めから大剣を振り下ろす。赤い瞳がレイゲンの動きを追った。腕が伸び、翼竜の尾を掴むと放り投げる。レイゲンは翼竜の胴に伏せ、落下を免れる。二股の獣が口内に光を集束させる。背後から迫ったフェイヴァが、光線の照射を阻もうと背中に突きを放つ。怪物の枝分かれした尾が振るわれ、フェイヴァを拘束した。身体が軋むほどに締めつけられ、口から呻きがもれる。尾に生えた無数の突起が肌を裂き、肉を抉っていく。
レイゲンがフェイヴァの名を叫ぶ。翼竜を追い立て、接近してくる。
フェイヴァは痛みに歯を噛み締めながら、身体を縛る尾を斬ろうとするが、障壁が立ち塞がり刀身が阻まれる。積み重なった疲労と痛みが、フェイヴァの意識を薄れさせる。力が緩み、今にも大剣を手放してしまいそうだ。
血色の瞳が濡れたような光沢を放っている。色の薄い唇がめくり上がり、笑みの形をつくる。――笑っている。人間のように表情を変化させるなんて。この化物にも意思というものが存在するのだろうか。溶暗していく視界の中で浮かぶ思い。
肉を蝕む痛みが取り去られ、フェイヴァは目を見開いた。尾から解放され、身体が虚空に投げ出されている。翼を大きく翻し、空中に留まった。
妖魔の赤い瞳が、自身の肩から吹き出した血に向けられていた。大剣が旋回しながら、妖魔の背を斬り払っていったのだ。
翼竜の飛行速度では間に合わないと判断したのだろう。レイゲンが大剣を投擲したのだ。他の追随を許さぬ膂力で投げられた大剣は、妖魔に裂傷を刻んだ後勢いを失い落下し始めた。翼竜を降下させ、レイゲンが柄を掴まえる。
低い唸りが、雲を照らす雷鳴のように轟く。二頭の獣ではなく、鋭利な耳とうねる頭髪を持つ人間体が発した声だった。レイゲンの大剣によって斬り裂かれた妖魔の背中の傷口が、癒えていくのをフェイヴァは目撃する。出血は瞬時に止まった。塞がるかと思われた傷は、一向に変化しない。度重なる再生の繰り返しで、妖魔も体力を消耗し始めているのだろう。
推測は外れてはいなかった。接近したレイゲンが渾身の力で刃を振るった瞬間、空中に浮かび上がった盾がそれを受け止めたが、レイゲンの腕力に競り負け砕け散った。
砕けた破片は障壁のように音もなく空気に溶けていくかと思われた。しかし、予想に反して細かな破片は独りでに動き出すと、鋭利な切っ先をレイゲンに向けて殺到したのだ。彼は咄嗟の判断で翼竜を上昇させるが、完全に躱すことはできなかった。翼竜の下半身とレイゲンの足に破片が突き刺さり、消失する。
「レイゲンさん!」
「来るな! これくらい掠り傷だ」
痛みに鳴く翼竜の手綱を、レイゲンは強く引いて静める。苦々しげな表情で彼は舌打ちをした。優れた手綱捌きで翼竜を御しているレイゲンだったが、死天使の飛行速度に劣る翼が、彼の比類なき身体能力の足を引っ張ってしまっていた。
妖魔に蓄積した疲労は、障壁の強度にまで悪影響を与えているようだ。加えて、障壁で全身を包むことができない。一斉に斬りかかれば、一方の剣が相手を捉えることができるかもしれない。フェイヴァたちも負傷している。戦いが長引くだけ、こちらが不利になるだろう。
フェイヴァの考えを、レイゲンはとっくに見透かしているようだった。妖魔を挟んだ向こう側で、頷くのが目にできる。
彼が翼竜を追い立て、妖魔に突っ込んだ。フェイヴァも同時に翼を羽ばたかせ、距離を詰める。
再度障壁を張っても、レイゲンに破られると理解したのだろう。妖魔は攻撃方法を切り替えた。レイゲンが振り下ろした大剣を、妖魔の手が受ける。あまりの速さと、刃が接触した瞬間に生じた閃光によって状況が判断できなかったが、視界が正常になると、化物の手に握られた得物が目に映った。宙に構築され放たれる剣と同様の色をした、槍だった。手の中に生成したそれを振り上げ、レイゲンの刃と噛み合わせたのだ。攻撃を防ぐための障壁と、散弾のごとく放出される剣を生成するのをやめて、一本の槍に凝縮させたのだろう。
大振りに振るわれた槍は旋風を生じさせ、レイゲンを薙ぎ払う。吹き飛ばされた翼竜を見て、フェイヴァは胸をざわめかせた。その背には、レイゲンが乗っていなかったのだ。まさか、槍に傷つけられ落下してしまったのか――。
フェイヴァは祈る思いで、彼の姿を探し視線を走らせた。地上に急降下していく姿はない。ならば、どこに。
答えは頭上にあった。レイゲンは翼竜の背を足場にすると、妖魔の頭上に飛び上がっていたのだ。振り抜かれた大剣は一筋の軌跡を描き、二股の獣の頭部を両断した。
「行けっ! フェイヴァ!」
レイゲンに背中を押され、フェイヴァは急上昇した。分厚く長い刀身を構え、妖魔の背後からその首を狙う。
「え!?」
身体が引っ張られる感覚があり、悪寒が走る。長く伸びた尾が、フェイヴァの身体ではなく、翼を捉えていたのだ。蛇のように巻ついた尾が力を込めると、翼の一部が砕けて眼下に落ちていく。
主を追った翼竜の背に、レイゲンが着地し上昇してくる。
振り向いた妖魔が、手の中の槍を振るう。――刹那、その身に黄緑色の光が瞬き、突き出された槍が動きを鈍らせる。
何事かと、地上に顔を向ける時間さえ惜しい。尾に込められた力も緩められたからだ。フェイヴァは身を捻ると、回転斬りで尾を斬り落とした。翼にありったけの力を込め飛び上がる。
疾風を生み出した大剣は、妖魔の首を的確に捉えた。
首から血を吹き出しながら、化物が落下していく。そびえ立った岩の一つに巨体は激突し、重量に耐えきれず、岩がほどなく砕けた。濃い土埃が立ち上り、埃っぽい臭いが鼻先に届く。
煙が晴れると、そこには腹部を岩の塊に貫かれた、首なし死体が倒れていた。乾燥した地面に吸い込まれていく血液が、失われていく命を思わせる。
(……終わった)
倦怠感と安堵感がフェイヴァの気を遠くさせた。力を込めて羽ばたかせていた翼が、身体を支えきれなくなる。桃色の髪をなびかせながら、落ちていく。
腕を引かれ、フェイヴァは驚いて目を瞬かせた。頭上で羽ばたきが聞こえる。身を乗り出したレイゲンがフェイヴァの二の腕をしっかりと掴んでいた。握られていた大剣は背の鞘に収められ、片方の腕はずり落ちないように翼竜の胴を掴んでいる。彼は瞼を閉じると、深く吐息を落とした。
「しっかりしろ」
「あ……ごめんなさい」
謝罪を口にした後、罪悪感が降って湧いた。気を抜いている場合ではない。地上のみんなは一体どうなったのか。フェイヴァはゆっくりと首を巡らせて、足下を眺めた。
近辺に新手の姿はないようだ。部屋を見下ろす魔獣もいない。
広大な部屋の中に、大型の魔獣が五頭ほど伏せていた。頭を失った獣は、壁に寄りかかっていたり、台をかち割って倒れつつ、血溜まりに身を浸している。赤黒い液体が床や壁に吹きつけており、多量のあまりぬらぬらと光っていた。天井の瓦礫が更に細かく砕かれているさまは、五人の激闘ぶりを雄弁に物語っている。
フェイヴァは喉を鳴らし緊張を呑み込んで、五人の安否を確認する。部屋の中央に素早く目を走らせ、そして誰一人床に伏している者がいないことを見て取った。それが精一杯だった。一人一人の顔を拡大し、その表情を確かめようとは思えない。
「きゃっ」
腕が強く引っ張られ、フェイヴァは肩をびくんと跳ねらせた。レイゲンが自身の後ろにフェイヴァを引き上げたのだ。
「しっかり両手で掴まれ」
「でもこれ、どうしましょう?」
片手に握った大剣を投げ捨てるわけにもいかない。レイゲンは翼竜の鞍に取りつけられたベルトを見やった。飛行中は重量のある片手半剣ではなく、剣を使用する。いつでも抜刀できるように、武器をベルトに収めているのだ。フェイヴァは示された通りに、空っぽのベルトに大剣を差し込んで、落ちないように柄を縛った。
刺すような眩さが目に飛び込んできて、フェイヴァは瞬いた。月や星が生み出す光芒ではない。光源は自身の右腕だ。腕の内側――肘の下の肌が縦に裂けており、肉の合間から仄青い色を帯びた骨格が覗いている。妖魔の尾がぶつかってきた際、刺に似た突起によって刻まれた傷だろう。損傷した皮膚は再生する気配がない。身体に蓄積した疲労。その上、自己修復機能は長時間稼働し続けたのだ。最早擦り傷を治す余力さえ残っていない。
いつ完治するかわからない傷だ。みんなの目に入って、不快にさせてはいけない。フェイヴァは自分の身体を見下ろして、他にも金属の骨格が見えるほどの傷がないか確かめる。腕の負傷のみだ。
「少し待ってください」
慌てて口走ると、スカートの裾を裂いて傷の上に巻き縛った。
「お待たせしました」
フェイヴァがレイゲンの腹の前に腕を回してしがみつくと、彼は翼竜の胴を蹴った。皮膜が張った翼を羽ばたかせ、ゆっくりと降下していく。
みんなの顔が、段々と近づいてくる。不安に押し潰されそうだ。前を見ていられなくて、フェイヴァは顔を伏せた。
「私……受け入れます」
小さな声で、レイゲンの背中に告げる。
誰に強制されたわけでもない。自分で決めて行動した。けれど脅威が去った今になって、逃げ出したい気持ちになっている。自分はみんなを信じていないのだろうか。みんなを大切に思っている。その思いは上辺だけのものなのか。自分自身に問いかけた。
信じていないわけではない。けれども、どうしても自分が化物だと罵られたときのことを思い出してしまう。光景が、言葉が、痛みが、色鮮やかに再現されてしまうのだ。ーーだから。
「……大丈夫だ」
力強さが満ちた口調だった。レイゲンは片手で手綱を操りつつ、腹の前で組まれたフェイヴァの手に、自身の掌を乗せた。フェイヴァの小さな手が包み込まれる。
彼の温かさが教えてくれる。フェイヴァは決して、独りではないことを。