11.もうやめよう
◇◇◇
吹き荒ぶ旋風は身体を殴りつけ、立っていることもままならない。フェイヴァは吹き飛ばされないように床に身を伏せていた。頭上から轟音が響き、重々しい音を立て何かが落下してくる。重量のある物にのしかかられ、鋭い角が肌を傷つけていくのがわかる。
(……一体何が……!?)
視覚と聴覚を襲っていた、明滅と轟音。それらがやっと収まって、フェイヴァは背中の重さと熱さを自覚した。白っぽい材質の瓦礫が被さっていて、腕に力を込めて上半身を起き上がらせる。床から身体を引き剥がすと、騒がしい音を立てて滑り落ちていく。せっかく治りかけていた手足に裂傷が刻まれており、背から血が流れているのを感じた。
頭上から降り注ぐのは、不可思議な装置が放つ眩い光ではなく、朧気な月光だった。
化物が射出した剣が、天井とその上の地面を吹き飛ばしていたのだ。床に散乱した瓦礫が、月明かりを受けて星屑のごとく煌めいていた。フェイヴァはみんなの身を案じ振り向く。
最初に目に入ったのはユニだ。座り込んでいる彼女を、漆黒の障壁が取り囲んでいる。天井の崩壊が収まったのを感知したのか、障壁は瞬時に消失した。出入口近くに倒れていたルカたちが身を起こす。彼は咄嗟にハイネを庇ったのか、彼女に覆い被さっていた。サフィは身体にのしかかっていた残骸を押し退けて、驚愕とした表情をする。二人とも崩れ落ちた天井の下敷きになったにしては、擦り傷しか負っていない。
リヴェンの姿を探して前方に首を巡らせる。彼は無傷で立っていた。敏捷性を高める風の能力ならば、崩れ落ちてきた天井を避けることも可能だろう。
乾いた土の匂いが、フェイヴァの嗅覚に強く感じられる。もうもうと立ち込める煙はさながら緞帳のように濃く、巨大なシルエットが黒々と映し出されている。
丸太のごとき太さの前肢が振るわれると、煙は霧散し化物の全貌が鮮明になった。青白い肌をした男の上半身が、獣の下半身に接合されている。見開かれた瞳は、人間の血色に染められていた。
(妖魔……)
忌々しさを感じさせるほどの醜悪な姿に、フェイヴァは身震いする。
二股の獣が咆哮する。空気が振動するほどの声量が、夜空に打ち上げられた。
茫然としたまま動けないフェイヴァたちを余所に、リヴェンが先駆ける。彼が駆け出すと黄緑色の瞬きが生まれ、妖魔に向かって雷撃が放たれる。雷鳴を轟かせ地を走ったそれは、妖魔の前方に広がった薄紫色の障壁によって防がれた。接触と同時に眩い光が発生し、暗闇を焼く。
驚愕に目を見開いたフェイヴァだったが、リヴェンは足を止めない。能力を連続で発動する。彼の身体を黄緑色の光が取り巻いた。自身の敏速さを向上させる。分厚い刀身が、妖魔の腹を斬り払った。リヴェンの敏捷性は、障壁の展開速度を上回った。濡れた光を浮かばせる鮮血の瞳が、リヴェンの動向を見極めるように注視する。リヴェンは跳躍すると、青白い首に刀身を振り下ろした。
フェイヴァの瞳が捉えた血の色は、深紅だった。
大剣が妖魔の首に接触する直後、リヴェンの腹部から血が吹き出した。妖魔は自身の首ぎりぎりに剣を生成し、彼を貫いたのだ。身を守るための盾と違い、小刀ほどの大きさならば、生成にさほど時間はかからないのだろう。
リヴェンの身体は騒々しい音を立て、瓦礫の上に落下する。
「クソッ」
痛みに顔を歪ませ、体勢を立て直した時には、妖魔がリヴェンに飛びかかっていた。能力を行使する暇もない。俯せになった彼に、妖魔の前肢が振り下ろされる。衝撃が床を伝わり、瓦礫の破砕音が響き渡る。
サフィの切羽詰まった声が、リヴェンの名を叫ぶ。フェイヴァは痛みを堪えて立ち上がると、切っ先を妖魔に向け駆け出した。
傍らを駆け抜けていく影。
フェイヴァを通り過ぎて妖魔に肉薄したのは、レイゲンだった。化物は彼の接近を察知したのか、背後を守るために障壁を展開する。が、レイゲンの目的は背中を斬りつけることではなかった。彼は残骸を撒き散らしながら滑り込むと、リヴェンを押さえつけている前脚を斬り払った。障壁を全方向に構築することはできないらしい。背後の守りのみを固めていた妖魔は、レイゲンの刃を受け前のめりになる。その隙にリヴェンを抱え上げたレイゲンは、彼をフェイヴァたちの方に放り投げた。
フェイヴァを飛び越えサフィたちの前に落下したリヴェンは、傷口を押さえ呻いた。前方のレイゲンを睨みつける。
「サフィ、そいつを頼む。ルカ、援護してくれ」
妖魔と相対したまま、レイゲンは冷静に指示を飛ばす。ほぼ同時に頷いた二人は、それぞれ行動に移る。サフィはリヴェンの傍らに膝をつくと、出血を続ける傷に掌をかざした。ルカは立ち上がると、瞼を閉じ精神集中を開始する。
ハイネはルカの足下で彼を見上げ、ユニは前方のレイゲンに顔を向けていた。身体が小刻みに震えている。
妖魔とレイゲンの間に白刃が走り、甲高い剣戟音が響く。妖魔が作り出した剣と、レイゲンの大剣が打ち合っているのだ。
サフィとルカの周囲を、冷光が舞った。黄金色の膜がレイゲンを包み込む。途端、剣筋は鋭さと力強さを増し、鱗に覆われた頭部の一方をバターのように斬り落とす。ルカの地の能力は防御と補助に優れ、攻撃の威力や衝撃を緩和したり、一時的な筋力の増強が可能だった。自身にしか効果を及ぼせない風の能力と違い、他者の肉体にも影響を及ぼせる地の能力は、正に最強の補助能力と言えた。
床を蹴りつける忙しい靴音が響いた。振り向くと、哄笑を撒き散らしながらワグテイルが通路を走って行く。
「野郎……!」
ワグテイルを追いかけようとしたリヴェンだったが、立ち上がれずに膝をつく。
「何で仕留めてねぇんだよこの木偶!」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ!?」
不快げに罵詈を吐くリヴェンを、サフィが叱りつけた。
やがて二つの異なる口笛が聞こえたかと思うと、二頭の翼竜が煌々とした月に飲み込まれて行った。
レイゲンが跳び上がり、人間体の首に刃を走らせる。リヴェンと違って動作速度が引き上げられていないため、振り抜かれた刀身は突如として発生した薄紫色の盾に受け止められる。レイゲンは地を蹴ると、後ろに下がり距離を取る。――と、妖魔は唐突にフェイヴァたちの方を向いた。四肢に連なる鱗を纏った頭部が、口腔に光を収束させる。レイゲンが妖魔に斬りかかるが、障壁に防がれ硬質な音が虚しく鳴る。獣が首を捻るさまを見て、フェイヴァは勘づいた。
光線を直線的に放つのではなく、首を巡らせながら真横に走らせるつもりだ。それではみんなの前に立ち塞がったとしても、光束を完全に防ぐことはできないだろう。ならば後ろに跳び、皆を伏せさせるしかない。フェイヴァは身を翻し走り出す。
背に走った鋭い痛みに、フェイヴァは目を見開いた。自らの膝が崩れる様を、失望の思いで見つめる。
獣の口から吐き出された光線束が、真横に薙ぎ払われた。フェイヴァの頭上を通り後方に突き抜けたそれは、壁を焼き溶かしていく。閃光が視界を白く染め、悲鳴が続いた。顔を上げたフェイヴァは、眼前に広がった光景に絶句する。
サフィが、焼け爛れたふくらはぎを押さえて呻いていた。きつく噛み締めた唇が激痛を物語る。リヴェンの背中は黒く燻り、見ているだけで寒気がするような痛々しい傷を負っていた。同じく背を負傷したルカは、倒れていたハイネに近寄って膝をついた。彼女は眉をきつく寄せ、傷を隠すかのように肩を掌で覆う。肩当ては吹き飛んでおり、掌の下から血が流れている。座り込んだままのユニは、妖魔の剣を防いだ時と同じく障壁を構築しており、唯一無傷だった。
痛みに気を取られ、助けることができなかった。自責の念に駆られ、大剣の柄を握る手にフェイヴァは強く力を込める。
レイゲンの大剣が唸りをあげて薙がれる。刀身は空中に展開した盾に受けられることはなく、標的を捉えきれない。巨体は四肢で跳躍すると、空に浮き上がったのだ。自由落下することなく、見る間に上昇していく。
空を、飛んでいる。風を捉える翼がないのに、妖魔は天上から吊り上げられているように浮遊した。
魔獣は空を飛べないはずだ。けれども、魔獣の王まで飛翔能力を持たないとは限らない。
満月を背に受けた妖魔は、肌を白く染めていた。人の上半身に、異形の獣の下半身が生えた醜怪な外見だというのに、光茫に照らされた姿にはある種の神々しさを感じた。天上から生命を見守る神々のように、魔獣の王の一族もかつては空から僕を見下ろしていたのだろうか。
紅に染まった瞳が視線をさまよわせ、やがて一点に定められる。瞬時に生成された薄紫の剣が、射出された。切っ先が間違いなく自己に向けられていると悟った時には、既に回避する時間は残されていなかった。鋭利な刃が視界に迫り、フェイヴァは思わず目を閉じる。
絹を裂いたようなユニの悲鳴が上がった。悲痛を帯びた声音に瞼を持ち上げると、フェイヴァの前にレイゲンが立ち塞がっていた。
「レイゲンさんっ!」
よろめいた彼の背中を、フェイヴァは支えた。闇夜を取り込み形作られたかのような剣の前には、軽鎧は役に立たない。彼の脇腹から血が流れているのが見て取れて、フェイヴァは衝撃に口許をわななかせた。
「どうして……」
「情けない顔をするな。これくらいの傷、すぐに治る」
驚愕の念が、恐怖に変質していく。フェイヴァの表情から感情を読み取ったのか、肩越しに振り向いたレイゲンは、平気そうに言葉を投げかける。ただの気休めではないだろう。死天使や魔人を凌駕するほどの力量を持つレイゲンだ。治癒能力が人間より優れていても不思議ではない。それでも初めて目にする彼の負傷は、フェイヴァを激しく動揺させる。
鈍い地響きが大きくなり、唸り声に似た重低音が近づいてくる。
地面と天井が吹き飛ばされ吹き抜けとなった部屋を、魔獣たちが見下ろしていた。三つ首を持つ巨大な犬――【三頭の黄昏】が高らかに吼え、山のような体躯をした熊【絶壁】が太い牙を剥き出しにする。死天使が行った魔獣の排除は完全ではない。凄まじい音と衝撃が遠く離れていた魔獣の聴覚を刺激し、新鮮な餌の下まで引き寄せたのだ。涎を滴らせ血色の眼球を爛々と光らす獣たちは、今にも地上から駆け降り、部屋の中に飛び込んできそうだった。
星が散らばる天空には、異形の獣が一体。悠々と浮遊している様は、あたかも魔獣たちを従えているように思えてくる。
フェイヴァは周辺を見回した。助けを求めたかったわけではない。自らの置かれた状況を、目に焼きつけるためだった。
負傷した肩口を布で縛ったハイネが、ルカを支えている。疲労感に顔を青く染めながら、自身の傷を治癒しているサフィ。リヴェンは彼の前に立ち、大剣の刃を床に突き立てている。レイゲンに切なげな眼差しを送りながら、身を縮こませているユニ。――そして、フェイヴァを庇って傷を負ったレイゲン。白い残骸に点々と血が滴る。
眠りに落ちたまま、二度と時を刻むことのないミルラの顔が思い浮かぶ。あまりに穏やかな、彼女の死に顔。指先で触れた頬にはまだ温かさが残っていて、一瞬にして隔てられてしまった生と死を、フェイヴァは認めざるを得なかった。
自分はまた、あんな思いをするのだろうか。誰かを失った後に、ああしていればよかったと嘆くつもりなのか。
(そんなのはもう――嫌だ!)
耐え難いほど熱い思いが、フェイヴァの胸に留まりきれずにあふれていく。
怖がられるのは嫌だ。嫌われるのは怖い。臆病な思いに駆られて生き続けてきた。そんな生き方は、今日でやめにしよう。
自分を偽るよりも大切なことを、フェイヴァはやっと見つけられたのだ。
(みんなが私を助けに来てくれた。……それだけで、いい)
フェイヴァは大剣の柄を握り締めると、おもむろに立ち上がった。
「レイゲンさん……私、行きます」
彼の顔を見ずに口にすると、フェイヴァの言わんとすることを察したのか、レイゲンが声を張る。
「何を考えているんだ! 馬鹿な真似はよせ!」
「大丈夫です。すべて私が勝手にやったことです。あなたには絶対にご迷惑をおかけしません」
「……違う! そうじゃない!」
踏み締められた瓦礫が音を立てる。肩に手がかけられて、フェイヴァはレイゲンと向き合った。
「心配なんだ、お前のことが!」
視野に映ったのは、激情を露わにしたレイゲンらしくない表情だった。彼が顔つきを大きく変化させるのは、とても珍しい。大抵は無愛想で、口数が少なく、低い声は気持ちを窺わせない。フェイヴァはこの瞬間、初めてレイゲンの本心を垣間見たような気がしていた。
偽らず格好つけずに、伝えてくれた心の欠片。
フェイヴァはそっと微笑みかけて、レイゲンの手に手を重ねた。
「……ありがとう」
彼の手を外すと、床を蹴り跳び上がった。
背の肩甲骨から金属の羽が立ち上がり、無数の羽根が展開される。身の丈を越えるほどの大きさになった翼は、大振りに羽ばたいてフェイヴァを飛翔させた。
高度を上げていくと、堂々たる月が山の間からフェイヴァを見下ろした。純白の翼が発光し、地上に光の道を下ろす。外套をまとった身体は透明な宝石のように煌めいて、星々の一つとなった。




