07.変心渇望
瞬間、フェイヴァと現実の間にあった隔たりが、砕け散った。
現状から目を反らすために立ち上げた中途半端な冬眠機能を、フェイヴァは自分の意志の力で解除したのだ。
熱く冷たい激情が押し寄せる。心が揺さぶられて、身体を蝕む痛みを圧倒する。
死を覚悟した獣が一矢報いるように。フェイヴァは立ち上がると、ワグテイルの顔面を殴りつけた。振り抜いた拳は彼の横っ面を捉え、壁に吹き飛ばす。メリアが腰に固定した斧を外していた。振り下ろされた分厚い刃を転がって躱す。
出入口に視線を送ったが、通路は死天使によって塞がれていた。ワグテイルはすぐにでも起き上がるだろう。メリアも背後から迫ってくる。死天使を倒し、出入口から脱出する余裕などない。瞬時に判断し、フェイヴァは身を翻し部屋から駆け出た。
逃げられるとは思えない。生きて帰るという希望も捨てた。けれども、だからこそ、最後の最後にフェイヴァは自分の気持ちと正直に向き合えたのだ。
最後くらい、自分自身のために戦いたい。勝てずとも、一撃だけでも叩き込んでやりたい。
三又の右側に足を運ぶ。訓練校生活で制御し続けていた身体機能を、フェイヴァは解放した。風のごとく走る。激しい痛みはフェイヴァに生の実感を与えていた。傷だらけの身体は踏み出すたびにギシギシと軋む。こんな身体で動けるのが自分でも不思議だった。人間でいう火事場の馬鹿力というものだろうか。心の底から沸き上がる衝動に、フェイヴァの足は突き動かされていた。
通路の左側には、扉が並んでいる。その中の一室に駆け込むと、二段ベッドとクローゼットという、限られた家具が設置された室内が広がる。フェイヴァはクローゼットの両開きの扉を開けると、中に入って戸を閉めた。
クローゼットの中には暗闇がわだかまっていたが、死天使の瞳を通すと鮮明になる。大きく空気を吸い込むと、かび臭い衣類の臭いが鼻にこびりついた。反射的に飛び込んだクローゼットには、白衣が数着垂れ下がっている。
姿を隠せば、少しだけでも時間稼ぎになるだろうか。二人が自分を探す短い間に、わずかでも傷を修復させておく必要がある。自己修復機能によって、ゆっくりとだが潰れていた肉は再生し、裂けて血で滑っていた肌には皮膚が被さっていく。
フェイヴァは震える手で、ワグテイルが突き刺した小刀の柄を握りしめる。歯を食い縛り、一気に刃を引き抜いた。
「――っ!!」
喉の奥から出かかった叫びを、奥歯を強く噛みしめ飲み込む。痛みに震える身体を丸めた。
傷口からあふれた血が止まるまで、しばらくそうしていた。
閉ざされた箱の中で、濡れたような光沢を浮かばせる刃。これが、フェイヴァに唯一残された武器だった。ウルスラグナ訓練校で使っていた、大剣の輝きを思い起こさせる。
ともに武器を取り戦った友人たち。見上げ続け、いつか肩を並べたいと思っていた、憧れの人。
みんなはあれからどうしただろう。いなくなった自分のことを少しでも心配してくれているだろうか。助けに行きたいと言ってくれる人はいるだろうか。もしもそんな人がいたとしても、フェイヴァが連れていかれた場所は見当がつかないに違いない。
誰が見つけられるというのだろう。歴史の闇に閉ざされた、この場所を。
助けを期待すべきではない。フェイヴァが拉致される時でさえ、怪我を負わせてしまったのだ。これ以上巻き込まずに済んで喜ぶべきだ。
「フェイヴァちゃ~ん、あっそびましょ~」
ワグテイルの小馬鹿にした口調に、喘鳴めいた笑い声が続く。小さな音量が、どれほど距離が離れているかをフェイヴァに知らせる。
近づいてくる、二人分の足音。
今は通路の中程だろうか。急いでいる様子はない。
相手は二人と一体だ。しかも覚醒者とは違って精神集中を行わずに能力を発現できる。いつでも破壊できると、高を括っているのだろう。
漲る緊張に、柄を握る手にしっとりと汗を帯びて。フェイヴァは近づいてくる敵を待った。
(大丈夫……私は、戦える)
靴底が床を踏み締め、擦り合う音が近づく。高いヒールの音と、平べったい靴底が奏でる音。彼らに連れられ行動していたフェイヴァは、それがメリアとワグテイルのものだと悟る。万が一を警戒し、死天使には出入口を見張らせているのだろう。
吐き出した吐息が震える。鼓動を激しくする心臓が存在しないことを、この時だけはありがたく思った。フェイヴァは段々と音量を増し間近になる靴音から、部屋の間取りと二人の位置を脳裏に描く。
今、部屋に入ってきた。
床を擦る一際大きな音。――立ち止まった。部屋に配置された家具から考えて、ベッドの下を覗きこんでいるのだろう。ヒールの固い物同士がぶつかる音が、歩速を速め距離を詰める。
「見つけたわよ」
透かさずフェイヴァは扉の片側に体当たりした。死天使の脚力から生み出される突進は、扉を易々と吹き飛ばす。戸を割ろうと振るわれた斧が、身体の横を掠っていく。
クローゼットの中から外に飛び出したフェイヴァは、メリアの腕めがけ小刀を突き出した。武器の重量の差は、人間以上の腕力を持っていても覆せるものではない。分厚い刃を持つ斧と取り回しに長けた小刀。どちらが有利か考えるまでもなかった。
しかしフェイヴァの小刀は、メリアの腕に縦筋一本刻むことはできなかった。視界の隅から飛んできた小刀が、絶妙なタイミングでフェイヴァの腕に突き刺さったのだ。おまけに火炎という、嬉しくないオマケをまとっている。皮膚が焼けつく苦しみに、フェイヴァは奥歯を噛み締める。メリアから距離を取り、腕に刺さった小刀を引き抜いた。靴底で踏みにじると、白煙が立ち上がる。
ワグテイルは小刀を投擲した手を下げ、口許に野卑な笑みを浮かべた。
両手を斧の柄にかけ、メリアはいつでも攻撃に移れる体勢を取っている。
女の魅力に溢れた肢体を包む、リボンつきのケープとレースで飾りつけられたスカートは、大振りな斧に滑稽なほど不似合いだった。軽く顎を上げると、二つに結わえた緩やかな髪が、頬をくすぐるのが見える。
「今更やる気を出すだなんて、どんな心境の変化かしら?」
「……あなたの言葉のおかげだよ。自分が壊されそうになって初めて、私は自分の人生を悔やんだんだ。自分の意見を言わず、ずっと流されて生きてきた……」
右手に握った小刀の感触を確かめながら、立ち向かうべき敵に身構える。
「最後のその時まで、誰かに都合のいい自分でいるのはもう嫌だっ! ここで壊れるとしても、最後の最後まで抵抗してやる!」
メリアから数歩離れた位置にいるワグテイルは、耳障りな高笑いで肩を揺らした。額にかかった前髪を手で掻き上げて、メリアは薄く微笑む。
「勇ましいこと」
「そうこなくっちゃなぁ。精々、最期まで楽しませてくれよ」
メリアが地を蹴ると、瞬く間に至近距離に迫る。頭上に持ち上げられた斧が、フェイヴァの頭をめがけ振り下ろされた。フェイヴァは伸びるような跳躍で、床すれすれを前に跳ぶ。メリアの懐に飛び込み、小刀を走らせた。刃は空を切る。
メリアは斧が床に接触した瞬間に、柄を支えにして前方に跳んだのだ。白いヒールが視界から過ぎた後、眼前にはワグテイルがいた。突き出した掌に火球が生じ、撃ち出される。
咄嗟に顔を反らしたが、身体まで射程内から外すことはできなかった。灼熱の炎がフェイヴァの衣服を火種にして、燃え上がる。悲鳴を上げそうになった口を、フェイヴァは懸命につぐんだ。
靴音が背後から迫る。頭上から振りかかる風圧。斧が自分をめがけ落ちてくるのを感じ、フェイヴァは前に跳んだ。
火を消そうと躍起になると予想していたのだろう。向かってくるフェイヴァを見て、ワグテイルは若苗色の光彩を目一杯に見開いた。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
叫び、駆け足から飛びかかる。ワグテイルに肩からぶつかり仰向けに倒すと、小刀を振り下ろした。
首を傾けられ、小刀は床を叩き涼やかな音を鳴らす。
「ぐっ!? ざっけんじゃねーぞコラァッ!」
フェイヴァの衣服にまとわりついていた火が、ワグテイルの素肌を炙っていく。口から吠え声を発しながら、ワグテイルはフェイヴァを殴りつけた。身体が浮き上がり腰を強く打つ。
両手で握り突き出した刃は、ワグテイルに届くことはなかった。
「調子のんじゃねーぞ、この鉄屑がぁッ!」
彼が立ち上がりざま放った踵が、フェイヴァを吹き飛ばしたのだ。渾身の力がフェイヴァの腹に炸裂する。視界が急速に回転し――やがて激突した。
金属の骨組みが聴覚に響くほどの音を鳴らす。あまりの衝撃に、自分自身ではなく部屋全体が振動したかのような錯覚を覚えた。フェイヴァの衣服が血で湿っていたのも幸いし、火は壁にぶち当たった際に吹き飛ばされた。散った火の粉が一瞬だけ色を強めて、消える。
「なんだこいつ、気でも狂ってんのかよ」
「あなたに言われたくないと思うわよ」
ワグテイルの肌は所々赤く焼けついていた。メリアの周囲に水色の冷光が瞬き、掌から発生した柔らかな光が彼の皮膚を健康的な色に戻していく。
魔人であるワグテイルが炎の能力を使うように、メリアもまた何かしらの力を持っているはずだ。彼女が今までそれを使おうとしなかったのは、戦いに不向きな治癒の力だったからだろう。
フェイヴァは背の壁に手をついて、立ち上がった。膝が笑っている。今まで自分の身体を支え、走らせていたのが嘘のように足が役に立たない。全身に激痛が走る。肌を焼かれた痛みなのか、腹を強か蹴りつけられた痛みなのか、自分でも判断することができなかった。
どんなに殴られても蹴られても、小刀は手放さない。これはフェイヴァの反攻の意志なのだ。
「ヒャッヒャッ。まだやるかぁ?」
ワグテイルが歩み寄ってきた。今にも死に絶えそうな小動物を甚振る愉楽が顔に現れている。最早虫の息。警戒する必要はないと、目が語っている。
フェイヴァは空気を吸い込むと、自身を奮い立たせるために叫んだ。薙いだ刃は手応えを返さない。軽く身を捻っただけで、躱されてしまった。
「弱ぇーなぁ、おい。それでも兵器かよ」
燃えて短くなった髪を掴まれて、部屋から通路に引き擦り出される。彼の腕をフェイヴァは小刀で斬りつけた。震えて力が入らない手では、皮膚に赤い線を刻むのが精一杯だった。しかも、その傷は血も流さずに瘡蓋となり、綺麗な皮膚に戻る。メリアの水の能力が、ワグテイルについた傷を瞬時に治癒してしまうのだ。
フェイヴァは歯痒さに顔を歪めて、ワグテイルの脇腹を小刀で突いた。首を掴まれた瞬間に、刃の軌道が外れる。気合いの声とともに投げ飛ばされて、床を転がった。
呻きを吐き出しながら、左手を床について上半身を起こそうとする。
傷口から滴った血で手が滑り、フェイヴァは顎から床に倒れこんだ。
立ち上がることができない。
もう、身体を支えることすらできそうにない。
自己修復機能は稼働し続けているが、内外ともに損傷が激しい。動けるようになるまでどれほどの時間を要するかわからない。その間に、勝負はついてしまうだろう。
(……ここで……終わり……)
見上げる通路の先に、ワグテイルとメリアが立っている。
「何か言い残したいことはあるかしら?」
顎を上げて殊更見下してくる鶏冠頭と、愛らしい容貌の仮面を被った少女を、フェイヴァはぼやける視野の中で睨みつけた。
涙を見せたくない。助けを哀願することもしたくなかった。言葉の代わりに震える右手を持ち上げて、小刀を投げつける。
血で染まった刃は二人を掠めることなく間を通り過ぎ、後方の壁に当たった。目が覚めるような音が一際大きく鳴り響き、落ちて転がる。
「最期に綺麗な火花になって飛び散りな」
フェイヴァは、自分に向けられた掌から顔を背けなかった。撃ち出された炎が視界を飲み込むまで、見つめ続けるつもりだった。
フェイヴァの後方――出入口付近から、けたたましい物音が聞こえた。
メリアとワグテイルの顔がほぼ同時に驚愕に染まる。掌に生み出されていた火球は放たれることなく、炎のカーテンのように彼らの前に広がった。
聞き覚えのある激発音。
フェイヴァの頭上を通り過ぎた散弾が、ワグテイルの炎の盾にひとつ残らず飲み込まれたのだ。
「フェイヴァッ!」
胸が熱くなる声音で名前を呼ばれ、フェイヴァはゆっくりと首を巡らせる。
無数の靴音が近づいてくる。その中から突出し、誰よりも速く駆けつけたのは。
「……レイゲン……さん……」
自分が目にした光景が信じられなかった。青藍色の髪。目鼻立ちが整った容貌。外套に身を包んだレイゲンが、そこにいた。
彼だけではない。リヴェンが、サフィが、ルカとハイネが。ユニまでもが。フェイヴァのそばで足を止め、ワグテイルたちに武器を構えている。
(ああ……!)
悲しいのに、泣くことができない。死の間際にこんなに残酷で、幸せな夢を見られるなんて。
「おかしいわね。なぜここがわかったのかしら」
余裕の中に、確かな困惑を込めたメリアの声。
レイゲンはフェイヴァの身体を抱え起こす。掌の力強さと温かさを感じて、フェイヴァは自分が確かに現実の中にいるのだと思い知った。衣服が血を含んでいるせいで、レイゲンの手をべったりと濡らしてしまう。
触らないでほしい。汚してしまうから。思っても、身を捩って彼の手から逃れることさえできない。
(私……酷い格好してる……)
赤く濡れて黒く燃えている衣服はもちろん。修復機能が働いているといっても、水の能力のように急速に治癒するわけではない。あちこち皮膚が破れ血で滑っているし、炙られた肌は不自然に赤くなっている。正常な肌色を探すことが難しいほどに。
フェイヴァの姿をしっかりと視界に入れたらしいレイゲンは、驚愕の表情から――今まで見たことがない、痛ましい顔つきになった。柳眉がきつく寄せられて、瞳が潤む。
フェイヴァの驚きを、息を忙しく吸い込む笑い声が後押しする。
「ヒャッヒャッ。何泣きそうな顔してんだ。そんなにショックだったか? ん~?」
レイゲンは外套を脱ぐと、フェイヴァの身体に被せた。軽鎧の金属の光沢が、白々とした明かりに照らされる。
「悪かったなぁ。……お気に入りの愛玩具を滅茶苦茶にしちまってよ」
ワグテイルが嘲笑を込めて言い終わるや否や、レイゲンの姿がフェイヴァの視界から消えた。彼の姿を目で追うことができない。
驚愕と怯えがない交ぜになったような醜い悲鳴が、広い通路に反響した。




