04.去りし平穏
男が手を前方にかざす。その周囲を、赤い冷光が舞い散った。
手品さながらに唐突に発生したのは、揺らめく焔。
何事かと思考を巡らす暇はなかった。直感に突き動かされ、フェイヴァはハイネとルカに後ろからぶつかる。二人を地面に伏せさせた。
リヴェンとサフィを。顔を巡らせれば、傍らではほぼ同時にリヴェンがサフィを蹴り倒していた。
膨れ上がった炎は球の形を取り、男の掌から撃ち出される。人間の赤子ほどの大きさのそれは――轟、と熱風を生じさせフェイヴァたちの頭上すれすれを通過する。後方の壁に激突すると、石材が破片となって飛び散った。無数の悲鳴が響く。
瓦礫から発生した埃と、火炎が生み出した煙が交ざり立ち込めていた。顔を上げたフェイヴァの瞳は、逸速く立ち上がったリヴェンを捉える。彼の身体に、黄緑色のきらめきがまとう。発生した雷撃が地を走り男に押し寄せた。
「おっとぉ!?」
鶏冠頭を振り乱しながら、男は跳び上がった。一度の跳躍で建物一階相当の高度まで上昇する。稲光が明滅しながら、彼の足許を駆け抜けた。男は身を捻ると小刀を三本投げつける。その投擲速度は、銃が散弾を撃ち出す速さに勝るとも劣らない。空中で発火した小刀は、紅蓮の矢となりリヴェンに迫る。
獣のようにしなやかな跳躍で、リヴェンは後ろに跳んだ。たった今まで立っていた場所に、小刀が三本、大きく間を開けて突き立つ。自由落下を始めていた男は、刺青がある顔を醜く歪ませた。立て続けに放たれる、火球。小刀はリヴェンの注意を引きつけ、男が意図した位置に追いやる役割があった。リヴェンが態勢を立て直した時には、火炎が眼前にあった。小躯は吹き飛び、ぶち当たった壁は脆くも崩れる。粉塵を巻き上げる瓦礫の中に、リヴェンは倒れこんだ。
「鈍ってんなぁ。生温い人間の環境にいるからよ」
男が着地し、余裕を窺わせる緩慢さで立ち上がる。嘲笑混じりの声が耳に届くと同時、フェイヴァは現実に立ち返った。
リヴェンと男の間で繰り広げられた攻防に、フェイヴァは我を忘れていたのだ。
それは後ろの三人も同様だったらしい。誰ひとり動くことができなかった。サフィが震える声で、リヴェンの名を呼ぶ。何が起こっているのか理解が追いつかない、恐怖と不安を内包した声。
男が再び手をかざし、火球を放とうとする。フェイヴァは地を蹴ると彼に跳びかかった。
「引っ込んでろッ!」
繰り出された拳がフェイヴァを殴りつける。死天使の身体は人間より頑健で、ある程度の痛みに耐えることができた。にも関わらず、強烈な痛みが胸を突き抜ける。人を潰せそうな重量のある金属の塊が、激突したような衝撃。フェイヴァは悲鳴を上げ、地を二転三転弾んだ。腹から地面に叩きつけられ、弱々しく呻く。立ち上がろうとついた掌が震える。鈍痛を生み出し続ける身体を無理矢理引き上げると、目を見開いた。
男に立ち向かおうとして一蹴されたのだろう。ルカとハイネが地に伏していた。男が片腕でサフィの首を掴み、身体を吊り上げている。ルカが悲痛な声でサフィの名を叫ぶ。男を見上げたハイネの瞳が、動揺に震えた。
「やめてっ!」
フェイヴァは立ち上がり駆け出すが、妨げられる。背後から伸びてきた手が首に回され、引き寄せられたのだ。
少女がフェイヴァの背中に身を寄せた。灰紫色の髪を左右で纏め、リボンとレースで飾りつけられた衣服に身を包んでいる。
新手か。危機を前にして、背後の警戒を怠ってしまった。少女の腕を掴み引き剥がそうともがくが、びくともしない。
「放してっ!」
「可哀想に。あなたが早く心を決めないから、みんな傷ついてしまうわね?」
薔薇色の唇が囁いた声に、フェイヴァは打ち震えた。
「あなたが言うことを聞いてくれれば、これ以上お友達を傷つけることはしないわ。わたしたちと一緒に来てくれるわね?」
白煙は収まり、周辺の様子が白日の下に晒された。男が初手に放った火球は、商店の壁を砕き内部にいた人々に着火させていた。皮膚を炙る炎に四肢をばたつかせ、狂気を来した悲鳴が上がる。肉が焼ける臭気が、フェイヴァの鼻孔を満たす。
男たちは無関係な人間を巻き込むのに躊躇がない。フェイヴァが逡巡し続ければ、被害は更に広がるだろう。
サフィが震える手で男の腕を掴んだ。苦悶に漏れる呻き。拘束から逃れるため、彼の足を懸命に蹴っている。
男はいやらしく口角を上げた。弱者を追い詰める愉悦を感じていることは、誰の目にも明らかだ。
「虫みたいにもがきやがって鬱陶しいな。殺っちまうか」
「いやぁっ! サフィ!」
フェイヴァは絶叫する。サフィの首を掴む手に、気道を押し潰すほどの力が込められる――。
黄緑色の光の筋が視界を横切っていく。リヴェンが跳躍し、男の腕を蹴りつけたのだ。フェイヴァが目で追うのがやっとな、疾風のごとき速さ。握力が緩んだ隙にサフィを抱え、リヴェンは男から距離を取った。
「面倒臭ぇ。最後まで寝てろよ」
苦々しげに吐き捨て、男は蹴りつけられた腕の痛みを払うように、振った。
サフィを背後に庇ったリヴェンは、痛々しい姿に変貌していた。上半身の衣服は焼け落ちており、露出した肌は黒く燻っている。激痛が走っているのか、歯が噛み締められ荒い息を吐き出していた。身を伏せたサフィは、喉を押さえて激しく咳き込む。
「久しぶりね、リヴェン」
フェイヴァの自由を奪っている少女が、柔らかな声をかけた。男に油断なく視線を向けていたリヴェンは、彼女に顔を向ける。彼らしくない硬い表情。
「メリア……何やってんだよ」
「同じ施設で育った仲間なのに、気の利いた言葉がかけられないの?」
メリアと呼ばれた少女は、寂しげな面差しをする。童顔でありながら妖艶な色香を漂わす彼女が初めて見せた、年相応の表情。
「あなたにじゃなく、この子に用があるのよ。大人しくしていて。お友達を殺したくないでしょう?」
子供らしい悲哀の籠った顔つきは、からかうような女の微笑に変じる。精悍な顔を苛立ちに染めて、リヴェンは舌打ちした。
「……そう言われて、はいそうですかって言うこと聞く奴がいるかよ」
「リヴェン、来ないでっ!」
フェイヴァは叫んだ。敏速に駆け出そうとしたその足が、ぴたりと止まる。
「私、この人たちと一緒に行く!
だからお願いします! もうみんなに酷いことをしないで!」
「何馬鹿なこと抜かしてんだこのザコがっ!」
がなり散らすリヴェンの声には、強い憤りが込められていた。首に回されていた腕に力が込められる。締めつけられ、フェイヴァは痛みに唇を噛み締めた。
「見苦しいわよリヴェン。……本当に助けたいなんて思っていない癖に」
冷たく醒めた笑いの中に、隠しきれない怒気がにじむ。メリアのただならぬ口調に胸を冷やしながら、フェイヴァはリヴェンに呼びかける。
「私は自分でどうにかする。だから早く助けを呼んであげて! お願い!」
「おいおい、泣かせるじゃねーか。よくできた人形だなぁ」
男が顔の前に腕を持ってきて、泣き真似をして見せる。
フェイヴァは順々にみんなに視線を移した。肌を黒く火傷しているリヴェン。苦しみに喘いでいるサフィ。起き上がることもできず、顔だけをフェイヴァに向けているルカとハイネ。
彼らだけではない。商店の壁は破壊され、瓦礫となって散乱している。炎が燃え移り、切迫した悲鳴を上げる人々。叫びと泣き声が充満している。
もっと早くに決断するべきだったのだ。そうすればみんなを巻き込まずに済んだのに。のしかかる後悔が、フェイヴァを責め苛む。
「私は抵抗しません。どこにでも連れて行ってください」
「いい子ね。ワグテイル、行くわよ」
メリアが地を蹴り、建物の屋根に跳び乗った。驚異的な跳躍力だ。思いはしたが、彼らの正体を考える余裕がフェイヴァにはない。
同じく屋根に跳び上がってきたワグテイルが、後ろを振り向きざま火炎弾を放った。フェイヴァが制止する暇もなく、火球が地面に着弾する。再び煙が吹き上がり、聞き覚えのある声が悲鳴に変わった。焼け焦げる臭いが、フェイヴァの心を滾らせる。
フェイヴァは腕を伸ばし、ワグテイルに掴みかかろうとした。が、メリアに強く引き寄せられる。
「おお怖い怖い。そう本気になるなよ。リヴェンって奴が追ってくると面倒だからな。あれくらいじゃ死にゃしねーよ」
二人が口笛を吹くと、彼方に二つの黒点が浮かび上がった。その正体は二頭の翼竜だった。皮膜が張った巨大な翼を広げ、屋根に降り立つ。――灰色の鱗。テレサとともにディーティルド帝国から逃げ出した際に、騎乗した翼竜と同じ種類だった。彼らは間違いなくディーティルド帝国から遣わされた追手だ。けれどその正体がわからない。死天使ならば翼竜を使用する必要はないのだ。
二頭の翼竜に、メリアとワグテイルがそれぞれ騎乗する。メリアはフェイヴァの腕を引くと、耳元で囁いた。
「逃げようなんて考えないことね。怪しい真似を少しでもしてみなさい。あなたのお友達でなくても、その辺りを歩いている人間を殺すなんて造作もないのよ」
全身が粟立つ。フェイヴァは無言で頷いた。メリアの後ろに跨がり、腕を彼女の腹の前に回す。
メリアの背にはベルトで戦斧が固定されていた。柄の長さは彼女の身長と同程度である。斧頭は特殊な加工を施してあるのか月のような白さを誇り、大きさと分厚さを兼ね備えていた。人間の頭蓋を割るくらい簡単なことだろう。
翼竜は飛び立つと、都市を横切っていく。飛行訓練ですっかり見慣れた建物の屋根が通り過ぎ、やがて手が届かなくなっていく。
ネルガルの街並み。それはフェイヴァにとって、日だまりのような暮らしの象徴だった。もう見ることはできないかもしれない。そう思うと、心細さに泣いてしまいそうになる。
都市ネルガルが小さくなり、やがて見えなくなった。それと違わず、左右から鳥が接近してくる。――否、それは翼が生えた人。二体の死天使だった。ベルトが巻かれた黒衣に身を包んだ、髪を刈った男と、銀髪を肩まで伸ばした男。
翼竜は死天使の翼の速度には敵わない。都市を過ぎれば逃げられる可能性もあると考えていたフェイヴァは、希望を打ち砕かれた思いだった。一方で、安堵してもいた。都市に死天使が入ってこなくてよかった。人の言葉が通じない彼らが相手だったなら、みんなは殺されていただろうから。
「あなたたちは一体何者なんですか……?」
答えてくれるとは思わなかったが、メリアは肩越しにフェイヴァを一瞥した。
「わたしたちは魔人よ」
『ディーティルド帝国が造り出しているもう一つの兵器――彼らは魔人と呼ばれてる』
ダエーワ支部の鉄格子の中で、ピアースに聞かされた話が甦る。
「私を、壊しに来たんですね?」
フェイヴァがウルスラグナ訓練校に入り、気づけば六ヶ月が過ぎていた。平穏な日々を突き破り、唐突に出現した脅威。――自分が本来あるべき位置に引き戻された今、激しい戸惑いが渦巻いている。
メリアは厚みのある唇を、半月の形にする。
「それなら都市の中でやっているわよ。してもらいたいことがあるの。その後は――あなたの言う通りの展開になるわね」
彼らの目的を考える前に、極刑宣告が頭にぶつかって視界を冷たくぼやけさせた。
じわりと滲出した焦りが、おびただしいものになり、終には恐慌に変化する。
今すぐここから逃げるべきだ。メリアの背中から離れて、翼を展開して空中に飛び上がる。逃走のプロセスを想像するが、実行する勇気は持てなかった。
翼竜に乗ったワグテイルとメリアを、二体の死天使が追尾している。フェイヴァには武器がない。取り押さえられ無駄な抵抗に終わることがわかりきっていた。




