09.その苦難に満ちた人生◆
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古めかしい木製の寝台に横になったフェイヴァは、両手を顔の横において眠った。
落ち着いた寝息をたて始めたフェイヴァを、椅子に座ってテレサは見下ろしていた。フェイヴァの様子が疲れて眠る幼子と酷似していて、自然と微笑む。足下を覆っていた薄手の毛布をかけてやった。
(フェイヴァは今、私の目の前にいる……)
これは狂おしいほどの執念が見せた幻覚ではない。フェイヴァは間違いなくテレサの隣に存在している。桃色の髪に触れれば、滑らかさが指先に伝わった。
ディーティルド帝国から離れ、無知な兵士たちの不愉快な眼差しに晒されることもない。もちろん、監視はつけられているだろう。だが、夜の静寂に包まれた家の中までは干渉してこない。テレサとフェイヴァはふたりきりだった。
自分はやり遂げた。フェイヴァを守りきれたのだ。安堵するのと同時に、強い倦怠感に襲われた。
極度の疲労は、テレサの脳裏に色褪せかかった過去を蘇らせた。背もたれに寄りかかり、流れていく記憶の中に浸る。
十年前。よりどころを失ったテレサは、グラード王国のグレイヘン家に養子として迎え入れられた。安穏と成長していくことができなかったテレサは、己の知識を更に高めるため勉強に明け暮れた。武器や兵器の製造技術を学ぶ高位校への入学資格を得、優秀な成績で卒業した。そのあとディーティルド帝国に渡り、一技術者から兵器開発責任者にまで上り詰めたのだ。
成長した天使の揺籃を見た時の畏怖や感動は、今でも忘れられない。これでやっとフェイヴァに会える。テレサは興奮を悟られないように、助手や部下たちをあしらいながら、フェイヴァの創造に着手した。天使の揺籃がなんたるかを知らない彼らが、別の製造方法があることなど考えられるはずがなかった。
天使の揺籃の腹の中。きらめく培養液の中から、完成したフェイヴァの身体を引き上げた。人の体温を宿し始める肌に触れたとき、喜びに胸が高鳴った。
人間ならばちょうど、共通校を卒業したばかりの十代半ばの容姿。澄んだ紫の瞳を隠す瞼は、長い睫毛に縁取られている。桃色の髪は艷やかで、真っ直ぐに伸びていた。テレサはフェイヴァの髪色が好きだった。それは野原に咲く、フェイヴァという一年草の色と同じなのだ。五枚の小さな花弁が、星を形作っている。
花言葉は──あなたの幸福を願う。
寝台の上に横たえたフェイヴァの身体に、テレサは心を授けた。そしてフェイヴァは、この世界に生を受けたのだ。
(長かったわ。ここまで……)
深い吐息を落とした自分に気づいて、テレサは自嘲した。フェイヴァの目覚めは始まりでしかない。これからテレサは彼女が人らしく生きられるように、道を整えてやらなければならない。
(君ももう、休んだ方がいい)
脳内に響く音声に似た思念。男とも女ともつかない、老人でも子供でもない。ときおり掠れ、不明瞭になる。自分の心から浮かんできた言葉のように錯覚するのは、気が遠くなるほどの歳月をともに過ごしてきたからなのか。
声の主は、テレサの力の根源であった。
(ラスイル、ありがとう。フェイを守れたのはあなたのおかげよ)
(礼を言うことはない。君も頑張ったな。少しばかり肝を冷やしたよ)
ラスイルは、笑みを含んだ声で返答をする。
(本当に彼女は、何も知らないのか?)
フェイヴァの寝顔を見下ろしたテレサの頭に、ラスイルの声が湧き上がってくる。
(何も、ということはないわ。生活に必要な最低限の知識はある。それに私のことは信用してくれている。あなたたちのことは顔も知らないわ。月日の経過で力に目覚めるかもしれないけれど、それだけよ)
テレサとフェイヴァは精神の深い部分で繋がっている。その影響でフェイヴァは後に、テレサと同じような他者の記憶を読むという力を開花させるかもしれない。だが、それが原因でフェイヴァがテレサに不信感を抱くことはない。テレサの記憶は入り乱れており、意味のある映像として認識することは困難だ。
フェイヴァが生活に困らない程度の知識を有しているのも、その結びつきによるものだったが、テレサはあえてそれを語らなかった。
(そうか……。本当に、普通の少女のようだ)
十五歳になったばかりの外見をしているフェイヴァは、経験不足のせいで中身と外身が釣り合っていない。子供のごとく甘えを見せるかと思えば、自己の存在について悩み、未来に怯える。彼女の内面は、石を投げこまれた湖のように不安定であり、鏡のように脆い。天使の揺籃から生まれたという事実がその心に暗い影を落とし、自己を肯定することができない。
こんなはずではなかったのに。
自分が大丈夫だと言えば、フェイヴァは疑いもせずに信じるだろうと思っていた。テレサが傍らにいて励まし続ければ、自分に自信を持って生きてくれるはずだと。
それは所詮、妄想でしかなかったのだ。現実と無理矢理向き合い、自分の力で歩いていかなければならないフェイヴァが、テレサの想像した通りに思考してくれるわけがなかった。
広大な世界で生きる人々。フェイヴァから見れば彼らは、荒涼としているように思えるかもしれない。彼女を理解し愛しているテレサと違い、そこで暮らす人々にとって天使はあまりに遠くいむべき存在であった。忌避されることもあるだろう。虐げられることもあるだろう。心ない言葉に、生まれてこなければよかったと何度も思うかもしれない。
それでもテレサは、フェイヴァに生きていてほしかった。
(フェイヴァを本当に、反帝国組織に委ねるつもりか?)
(ええ)
ディーティルド帝国から離れても、追っ手の襲撃が止むことはない。彼らはどこまでも追ってくる。心を読む力と優れた身体能力のおかげで、テレサの身体は人に傷つけられることはない。しかし、死天使は別だ。テレサにとって彼らの機動性は脅威だ。その上思考から行動を読むことができない。一体ならばどうにかなるかもしれないが、複数で襲撃された場合、敗北は免れない。ひとりではフェイヴァを守り続けていくことができないのだ。
そこでテレサは、自らが持つ技術と引き換えに反帝国組織に取引きを持ちかけた。ディーティルド帝国を脱出した際のフェイヴァたちの保護、一年間のフェイヴァとの暮らしを経たあと、テレサは反帝国組織に渡らなければならない。
人を超えた身体能力を持つフェイヴァを、反帝国組織が放っておくわけがない。テレサはフェイヴァについても条件を出した。組織の指導者であるベイルは、それを承諾したのだ。ディーティルド帝国が生み出す兵器によって、反帝国組織は劣勢を強いられている。死天使に精通した技術者は、喉から手が出るほど欲しいだろう。
(フェイと暮らせる、限られた時間……)
フェイヴァを必ず幸せにしてあげよう。自分自身に対して嫌悪感は拭えずとも、生きていくための最低限の自信を持たせてあげたい。たくさんの思い出を作ろう。不安に歪んだ彼女の顔に、花のような笑顔を咲かせてあげたい。そのためには、どんな犠牲も厭わない。
これから、フェイヴァたちをディーティルド帝国の追っ手から守るために、反帝国組織の兵士たちは犠牲になるだろう。死天使は疲労を知らず、空を縦横無尽に翔る。人間が少数で死天使と相対した場合、勝利を手にすることはできない。この時代の武器の精度と強度で考えれば、二十人──いや、三十人前後。彼らが力を振り絞り立ち向かって、数多の犠牲の上にやっと倒すことができる。途方もない戦力差。
彼らは生の終焉を前に何を思うだろう。反帝国組織の勝利の礎となる者たちのために命を使うのだと、潔く死を迎えるのか。それとも、得体の知れない化物のために命を散らしたくはないと、後悔の念に苛まれながら逝くのか。自分たちの一時の幸福のために殺されなければならない兵士たちに同情はしたが、それ以上心は動かない。
(彼らには悪いけれど、必要な犠牲だわ。フェイは保護されるべき存在なのよ)
フェイヴァの身体は天使の揺籃の中で構成された。人間と変わらなく見える身体はしかし、人間を超えた能力を宿している。それがどうだというのだろう。彼女の心は間違いなく人なのだ。フェイヴァは誰も傷つけていない。傷つけたいとも思わない。純粋無垢な精神だ。罪を犯していない彼女には、人と同じように守られる権利がある。
テレサはフェイヴァを娘のように愛していたが、同時に、信徒が敬愛する神を思う気持ちと同じものも抱いていた。冷たい身体を温め、立ち上がらせることのできる心。テレサにとって彼女は神聖な存在だった。
(いつか、フェイヴァにすべてを話すのか?)
(いいえ。あの子には、自分の心は自分だけのものだと思ってほしい。私が胸に秘めたものは、冥界に持って逝くわ)
テレサは部屋の奥にある、家庭祭壇に歩み寄った。銀製の台には、太陽と月の装飾が施されている。中に収められた、豊かな髭を蓄えた老人の像。それこそが、テレサたちが信奉する創世の神──聖王神オリジンであった。
テレサは祭壇の下にひざまずいた。両手を合わせ指を折る。テレサにとって祈りとは、自意識を確立したときから染みついていた所作だった。瞳を閉じれば、使命を与えられたばかりの幼い頃の自分が浮かんでくる。
(主よ。何も知らずに不安に震える娘に、どうかわずかばかりの慈悲をお与えください。娘が迷わぬよう、その道を絶えざる光で照らしてください。……その生の、終わりまで)
聖王神オリジンは、茜に色づいた光の中で、乳白色の姿を幻想的に輝かせていた。




