02.魔人の苗床
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兵器たちの母である遺物は、無数に建てられた兵器開発施設の内の二ヶ所に安置されていた。王都ラハブを中心として、北に位置していた兵器開発施設。そこに据えられていた天使の揺籃は、テレサ・グレイヘンによって破壊されてしまった。以後製造は不可能となり、ディーティルド帝国には四百体の死天使が残された。
そうしてここ――ラハブから遥か南にある兵器開発施設。強靭な四肢を持つ魔獣を警戒して、都市を従えた城は同様の高度の防壁に守られている。上空から見下ろせば、打ち寄せる波のごとき山に囲まれた都市が一望できた。
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石材が組み合わさった壁は、細かな凹凸しか読み取らせないくらい遠くにある。室内には等間隔に蝋燭が配されているが、人間の背が届く位置に固定されているため、遥か彼方にある天井を目にすることはできない。
異常なほどの高さと奥行きを持つこの部屋は、檻の役割を果たしていた。
鋼鉄の扉と対面して、部屋の最奥に安置されている異形。腐りかけの死体を彷彿とさせる、紫がかった肌。目鼻がないのっぺりとした顔には、巨大な口だけがある。頭部には角とも触手ともつかない突起が無数にあり、うねっていた。巨人に見紛いそうな胴体には手足がなく、無数の乳房が葡萄のように生えている。腹部は張り裂けそうなほど膨れており、血管に似た管が繋がっていた。脈動し、赤い液体を循環させている。腹部の正面はガラスに似て透明で、血液よりも透き通った液体に満たされていた。
魔人の苗床と呼ばれる、生体兵器の製造機である。
室内には、太い管が液体を往来させる水音が鈍く響いていた。その中に、板の軋みが生まれる。
大人の男を受け入れてもなおゆとりがある、巨大な腹部の前。ひとりの少女が椅子を置いて座っていた。彼女が背もたれに体重をかけると、木製の椅子が鳴く。
歳は十代半ばを過ぎたくらいだろうか。あどけなさを残した目鼻立ちをしていた。薔薇色の唇と長い睫毛に縁取られた瞳が相俟って、蠱惑的な容貌を作り出している。鳩羽色の髪を左右でまとめ、リボンとレースで飾り付けられた衣装を身に纏っていた。白いケープの下から、ふっくらとした胸が覗く。艶やかな羽根色の蝶が人間に姿を変えたとしたら、きっと少女のような外見を手に入れることだろう。
少女の傍らには机が置かれており、果物や骨つき肉が皿に盛られていた。左後方には、空っぽのベッドが一台設置されている。
「今帰ったぜ」
鋼鉄の扉が押し開けられて、廊下の蝋燭の明かりが室内に射し込んだ。若い男の声がし、少女は振り返る。
「お帰りなさい、ワグテイル」
ワグテイルと呼ばれたその男は、奇抜な出で立ちをしていた。膝までを覆うブーツを穿き、身につけたズボンの腰には左右にベルトがかけられている。そこには掌ほどの大きさの刃を持つ小刀が、数えきれないほど吊られていた。上半身は裸で、細身ながら鍛え上げられた筋肉に覆われている。顔の左側には、額から顎にかけて赤い刺青が刻まれており、剣呑な雰囲気を生じさせた。頭部の左右を丸刈りにし、中央部分の髪だけを残している。長く伸ばした髪はその赤さも手伝って、鶏の鶏冠を連想させた。
ワグテイルは大股で少女に近づいてくると、歯を剥き出して笑った。
「俺のために用意したのか? 気が利くじゃねーか」
肉を掴もうとする武骨な手を、少女は強く払った。
「痛って! 何すんだよメリア」
「あなたのためじゃないわ。見なさい、腹の中を」
メリアが二つに結んだ髪を揺らしながら、顎でしゃくって見せた。ワグテイルは彼女が示した方向に顔を向ける。
魔人の苗床。その胎内には、ひとりの少女が浮いていた。茶色がかった金色の髪が、赤い液体の中で漂っている。血管に似た無数の管が、口と腹に繋がっていた。管を伝って少女の身体に液体が流れ込む。瞳を閉じている彼女は、身体を小刻みに震わせていた。
「もうすぐ儀式が終わるのよ。変化した直後は激しい空腹に苛まれるでしょう? あなたみたいに暴れ回られては困るわ」
ワグテイルは断続的に息を吸い込むような、独特な笑い方をする。
「ヒャッヒャッ。いいだろうが、人間の四人や五人ぶっ殺しちまってもよ。……つーか、こいつあれか? お前が前言ってたガキだろ?」
「衰弱が激しくて薬も効かなくなっていたのよ。あのまま朽ち果てるより、一か八かでも生き残るチャンスを与えてあげるのが優しさというものじゃないのかしら」
血色の胎内で眠っている少女は、果たして主が望む存在に変化することができるのだろうか。
儀式を経た者全てが変質できるとは限らない。そのほとんどは胎内で、もしくは排出された後に死亡する。メリアたちのような成功例は少なく、主が求める存在となると、変化する確率は更に低い。
「お前腐ってんなぁ」
「あなたに言われたくないわね。……で、どうだったの?」
魔人の苗床の腹から顔を反らしたメリアは、青藤色の瞳をワグテイルに向ける。
主の命令を受けて、ワグテイルと仲間たちは各国を巡っていたのだ。
「場所はわかった。でも、扉が見当たらねぇ」
「そう。アルバス様に指示を仰ぐしかないわね」
メリアが言い終わらない内に、重々しく擦れ合う音を立てて鋼鉄の扉が開かれた。頑丈さだけでなく動き易さまでも追求した鎧に身を包んだ兵士が、敬礼をする。
「メリア様、ワグテイル様。アルバス様がご帰還されました」
「行きましょう」
メリアは椅子から立ち上がり、ワグテイルを促した。
敬礼を解いた兵士の後ろから、小柄の老人が現れた。瑞々しさを失い深い皺を刻んだ肌。頭頂には鳥の羽毛のように白髪が生えている。赤墨色に汚れた白衣が、老人が跳ねると激しくはためいた。
魔人の苗床の管理者であり、この施設の責任者であった。
「早く持ってきてー。苗床ちゃんがお腹空いちゃってるよー」
老人に似つかわしくない子供染みた口調で言いながら、背後を手招く。彼に続いて、魔獣が入った檻を持った三人の兵士たちが歩いてくる。二匹の鼠型の魔獣――【地を弾む】は、激しく鳴きながら檻にぶつかっていた。殺せばその場で腐ってしまう。生きたまま運んでくるしかないのだ。メリアたちに用件を伝えた兵士が、檻を抱えるのを手伝った。
「およ? メリちゃんどこ行くのー?」
「ちょっとね。この子をよろしく、博士」
メリアが魔人の温床の腹を指差すと、老人は嬉々とした表情で頷いた。
「どけジジイ! またこの間みてぇに腕の骨折られてぇのか!?」
「やだー! ワグちゃん怖ーい!」
ワグテイルが怒鳴ると、博士は老人とは思えぬ声量で絶叫した。彼は魔人の温床に駆け寄り、子が母にしがみつくように苗床の腹に抱きついた。さめざめと泣き始める。鳥肌が立つほど気持ち悪い。
いつからこうなってしまったのだろうか。以前は厳格な人間だったのに。
きっと自分が強く可愛がり過ぎて精神に変調を来したのだろうと、メリアは考えた。
メリアはワグテイルを連れ、来客室を訪ねた。繊細な彫刻が施された扉をノックする。
「入れ」
返答があり、メリアは扉を開けた。二人して部屋の中に入り、後ろ手に閉める。
滑らかな赤い絨毯が、石床に敷かれている。中央に設置された重厚な机は、磨きあげられ光沢を放っていた。その奥にあるソファーを目にし、メリアとワグテイルは跪く。
「お帰りなさいませ、アルバス様」
壮年の男だった。漆黒のコートに包まれた大柄な肉体は、ソファーに腰かけているというのに隙を窺わせない。暗黒に色づいた長髪は、図鑑の中で生きる獅子の鬣のごとく荒々しく逆立っている。鮮血の虹彩には瑠璃色がわずかににじみ、二人を見下ろした。
アルバス・クレージュ。ディーティルド帝国の兵器開発責任者を統括するハールートの実兄であり、彼亡き後その役職を引き継いだ。
「顔を上げろ」
短く唸れば、猛獣の咆哮に似た威圧感を放つ。
メリアは言われた通りにし、ゆっくりと立ち上がった。不機嫌を露わにした主の表情。
魔人の苗床と天使の揺籃を国にもたらしたアルバスは、魂を宿した死天使が完成するのと同時期に、責任者の立場から退いていた。
十七年前に起こった都市ペレンデールでの住民虐殺。それ以後行方知れずとなっていた存在が、ウルスラグナ訓練校で確認されたのだ。少女の経歴が調べられ、アルバスに伝えられたのは一年前である。
「ワグテイル、報告しろ」
「は、はいっ!」
ワグテイルは机に地図を広げると、ペンで印をつけていった。終わるとメリアの横に戻ってくる。
「研究施設と思わしき場所は、ブレイグに一ヶ所、グラードに三ヶ所、ロートレクに一ヶ所ありました。ほぼ荒らされ、放棄されています」
「隠れ里はどうした」
「はい! 一月前に発見したんで、全員ぶっ殺しました!」
満足げな表情で笑うワグテイル。アルバスは頷く。
「一ヶ所だけ、変哲のない部屋があるだけの場所がありましたが、扉は継ぎ目も見当たりません」
「一見して扉とわかるものがあるはずがない。施設の深部は、テロメアとの精神同調がなければ明らかにならん」
「ならば、反帝国組織に死天使を差し向けますか?」
メリアが申し出る。
魂を持つ死天使と違い、量産型の死天使は学習することがない。生み出されたその時に戦闘能力は完成する。反帝国組織側は着々と死天使の書き換えを行っているだろう。テロメアを拉致するにしても、こちらも多大な損害を覚悟しなければならない。
「テロメアではなく、奴の半身を使え」
「テロメアが手がけた死天使……ですか?」
メリアは眉をひそめた。
テロメアの手によって兵器開発施設から連れ出された死天使。証言から作成されたのは、整った顔立ちに桃色の髪を持つ少女の似顔絵だった。
必然という運命に操作されたのか。心を持つ死天使と、アルバスが探していた少女。そして彼の実子が、同じ訓練校で生活をともにしていた。
アルバスが少女の存在を認識した時、メリアは彼女を拉致する命を彼に下されるだろうと予測した。
けれどもそれは実現しなかった。
血族に縁のある者たちが少女の周囲にあるおかげで、目覚めが促進されるとアルバスは語ったのだ。覚醒する前に拉致し“入れ換え”を行ったとしても、彼の望む結果は得られない。アルバスは護衛と監視を目的として、人をやっている。
「奴とテロメアは元はひとつだったのだ。テロメアが代々有する精神干渉能力に似た力も宿している。テロメアの精神として認識されるはずだ」
「……かしこまりました」
頭を下げながら、メリアは物思いに耽った。
ウルスラグナ訓練校。彼が人間に混じってそこで生活をしていると知った時、とうに忘れ去ったはずの切なさを感じた。訓練校とは一体どんなところだろう。メリアは共通校に通えなかった。
薄れかけた幼少の頃の記憶。かすかに浮かぶのは、涙を流す両親と弟の顔。
「……御子息はどうなさいますか?」
「捨て置け。頑迷な息子とは、いずれ話をつける」
血が繋がっているのだ。いかな冷酷なアルバスと言えど、直に話してみたいのだろう。彼に人間としての情を思い出させるほど、特別な存在なのだ。
アルバスの子息が羨ましかった。自分がもしも主に反旗を翻した場合、ゴミのように処分されることがわかっていたから。
ワグテイルは口の端を歪ませており、不服そうだった。彼にとっては――否、ほとんどの仲間たちにとってはアルバスは畏怖の象徴だった。その実子の力量がどれほどのものか、眼前で確かめてみたかったのだろう。
「必ず細胞を手に入れろ。早く器を創ってやらねばな……」
アルバスの瞳はメリアたちではなく、自らの望む未来に向けられているようだった。
魔人の苗床。今、腹の中で儀式を受けている人間が目的のものに変化した暁には、胎内は別の役割を果たすのだ。
魔人と細胞を食わせ、腹部で形作られる肉体。魂を得て再臨する魔獣の王。




