09.血まみれの道、ひとり
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昼食後の自由時間。レイゲンは、ルカとハイネとサフィを連れ、訓練室に訪れていた。フェイヴァとの一件以降、鬱々とした感情が胸中に留まり続けている。身体を動かして気を紛らわせる生活が続いていた。
「おー、今日も盛況だな」
訓練室の出入口で、ルカは額に掌を当て広々とした室内を眺めた。窓から差し込む光が、石の床に刻まれた裂傷を照らし出す。周囲には木剣を打ち合わせる音が忙しなく響き、訓練生たちの足運びによって、床の埃が舞い上がりきらめいていた。
目測だけでも、二十人以上の訓練生がいる。彼らは真剣な顔つきで練習相手と向き合っていた。身につけた軽鎧が軋み、金属音が鳴る。気合いが籠ったかけ声とともに、剣が振り下ろされる。
多数の犠牲者を出した遠征を経て、生徒たちの意識も変わったのだろう。不測の事態に対処できるよう、以前にも増してひたむきに鍛練に打ち込んでいる。
レイゲンは出入口の隅に備えられた棚に近づくと、木剣を引き抜きルカに投げ渡した。彼は難なくそれを掴む。白い陽光が、彼の幹の色を映し取った髪色を明るく染めていた。
「んじゃ、いっちょやるか」
ハイネが棚に歩み寄ってくると、二本の木剣を手に取り、内の一本をサフィに投げた。彼は慌てて手を伸ばすが、掴みきれずに足にぶつかる。
「わっ、いてっ!」
サフィは痛みに跳び上がった。ハイネの口許が嘲りに歪む。
「だらしない、そんなんでどうするの。相手してあげるから、頑張ってついてきてね」
「えっ、ハイネが相手なの……?」
「ルカは気を使うだろうし、レイゲンだってあんたじゃ鍛練にならないよ。ぼこぼこにしてやるからそのつもりでね」
「……顔が本気だ……」
怪しい笑みが形になった顔に、サフィは後退った。魔獣に追い詰められる家畜のような怯えぶりだ。
「……ん? あれ、フェイヴァじゃねーか?」
部屋の中央に足を運ぼうとしたルカは、立ち止まって右奥の方に顔を向けた。後ろに続いていたレイゲンは、その言葉に彼の視線を追った。ハイネとサフィが後から追いかけてくる。
「珍しい組み合わせだね」
サフィが言う通り、フェイヴァが木剣を向けているのはリヴェンだった。フェイヴァが真横に払った剣を、持ち前の身軽さで飛んで躱す。回避とほぼ同時に繰り出された刀身は、フェイヴァの肩に叩き込まれた。フェイヴァの顔が痛みに歪むのが見えて、レイゲンは柄を握る手に力を込める。
レイゲンと手合わせしていた頃と比べ、明らかに動作が鈍っている。授業でも似たような体捌きをしており、教官に叱責されているところを度々目撃していた。疲弊した精神に身体が引き擦られているのだろう。
リヴェンは着地すると、自分の半身より長い木剣を肩に担いだ。肩を撫でているフェイヴァを振り向く。
「ったく、歯応えねぇな。ぼさっとすんな」
「うん。ごめん」
フェイヴァは叩かれた方の肩を回すと、木剣を握り直した。その表情を見て驚く。何の変哲もない苦笑いだったのだ。この数日間浮かべていた湿っぽい顔つきと違い、晴れやかな色が見える。
「そういや最近フェイヴァの様子おかしいよな。お前のこと避けてるみたいだし」
「フェイヴァと喧嘩でもしたの?」
ルカとサフィの声は、レイゲンにはほとんど聞こえていなかった。自分が食い入るように、フェイヴァとリヴェンを見つめているのを感じる。
「おいおい、どうしたよ?」
無視したレイゲンを不審に思ったのか、ルカが顔の前で手を振ってくる。
鬱陶しい。レイゲンはその腕を払い除けた。横からハイネが蹴ってくる。まあまあと、ルカが宥めた。
「こりゃ重症だな。ハイネ、フェイヴァとたまに話してるんだろ? 何か聞いてるか?」
「……ごめん。女同士の秘密だから、ルカにも話せないの」
「そか。おい、レイゲン。余計な世話だと思うけど、一度ちゃんと話し合った方がいいぞ。俺たちも協力するからさ」
「そうだよ。このままじゃよくないよ」
何も知らない奴らが、背後で好き勝手言っている。
フェイヴァとの間にわだかまりがなかったなら、もしかすると自分はルカたちの提案を受け入れたかもしれない。
「男を見せなよ、レイゲン」
普段なら聞き捨てならなかっただろうハイネの言葉は、引っかかることもなく流れていく。
椅子に座って本を読んでいるフェイヴァの姿を想起した。少女趣味を体現した絵が載った装丁の本。紛れもない恋愛小説。
視線の先には、いくぶんか解れた表情をしたフェイヴァ。リヴェンと木剣を打ち合わせて、跳ねるように床を跳ぶ。揺れる長髪。その髪をまとめていたのは、黒いリボンだった。自分が贈った物ではない。
最初は、自分の気のせいだと考えた。しかし彼女の様子を観察している内に、それは単なる思い過ごしではなく、認めるのをためらう事実であることを自覚した。ある日突然、フェイヴァはレイゲンを避けられるようになったのだ。彼女が妙な態度を取り始めてから、桃色の髪をまとめているのは、レイゲンが贈った水色のリボンではなく、黒いリボンだった。それを目の当たりにし、レイゲンの思いは動揺と落胆の間で揺れた。
『私、これから訓練の時とかは必ずこのリボンをつけますね。これで髪をまとめていると、レイゲンさんに見守ってもらえてるみたいで気合いが入るから』
リボンをプレゼントした時の、きらめくようなフェイヴァの微笑み。彼女の言葉を、自分でも意外なほどに嬉しく感じていたのだと知った。
責めようとしたわけでも、怒りを覚えた訳でもない。純粋な疑問だった。尋ねようとしたところ、彼女の態度が明らかによそよそしくなっていることに驚いた。一分一秒でも側にいたくないと、言動が示している。戸惑い、苛立ち――自分でも答えが見つからない感情が生まれて。以前、フェイヴァと屋上で語り合った話の内容を思い返した。
レイゲンは自分の愛想のなさを自覚している。幼い頃から力を追い求め修行に明け暮れていたせいで、まともな友人関係を築いてこなかった。
ベイルに引き取られてからレイゲンとピアースが通っていたのは、高度な学問を示教する共通校だった。裕福な家庭で育った少年少女ばかりが集められていた。親の愛に包まれてぬくぬくと育った子供。彼らはレイゲンにとっては、別の世界の人間だった。壁を作り、ほとんど言葉を交わすことはなかった。
今思えば、嫉妬の念を抱いていたのかもしれない。休日は親とどんなところに遊びに行ったと自慢たらしく口にされるたび、不快な気持ちになった。何かにつけて絡んでくる奴は殴り飛ばした。ピアースも同じ気持ちを抱いていたかはわからないが、レイゲンの比ではなく暴力行為を繰り返していた。
だから十七歳になった今でも、他人との適切な距離の取り方がわからない。話し方も高圧的で、優しい言葉をかけられない。レイゲンの物言いに傷ついた人間は、おそらく自身が考えているより多いだろう。フェイヴァがその内のひとりになっていたとしても、不思議ではない。
一度話し合うべきだ。面と向かって不満を指摘された方が、距離を取られ遠回しに傷心を示されるよりもずっと気が楽だ。そう思い立ち、図書室に続く階段でフェイヴァを待っていたのだが。
『あなたと話したくないんです! もう私に、構わないでくださいっ!』
フェイヴァが拒絶の言葉を口にした理由を、この瞬間レイゲンは理解した。
(……嘘だろ……)
頭を鈍器で殴りつけられたような、強い衝撃に打ち拉がれる。握っていた木剣が手から離れ足先に当たった。
フェイヴァが意識している相手は、リヴェンなのだ。雲は流れて、微かに青空が覗く。彼女の表情の変化が、心情を物語っている。
レイゲンは踵を返した。三人に背を向け、訓練室の外に向かう。
「おい、レイゲン?」
「あいつが誰と親しくなろうと、俺には関係ない。知ったことか」
ハイネがレイゲンに聞こえるように、大きな溜息を落とした。ルカとサフィの呆れた顔が想像できる。
訓練室を後にし、一人になりたくて足を早めた。通路を進み、校舎の出入口に着き、外に出る。ベンチに座り雑談する訓練生たちを尻目に、校庭を北に歩く。やってきたのは、校舎裏だった。雑草の成長速度は早い。膝下まで伸びた草に覆われたこの場所には、誰ひとりとしていない。
周囲の気配を探り、近づいてくる者がないと知ると、レイゲンは深呼吸をした。――そうして。
衝動に命じられるまま、腕を振り下ろした。空気を叩くというより、押し潰すような激を伴って突き当たる拳。それを中心として、レイゲンの周囲の地面が陥没した。凄まじい圧を受けて引き千切られた草は、土塊と一緒に空に巻き上げられる。旋風が吹いた。振動が鈍く足下を揺らす。
うっすらと汚れた手を叩いて、レイゲンは背後の塀に背中を預けた。額に手をやり、草の上に腰を下ろす。
(……何をやってるんだ、俺は)
目下の地面は大きく凹んでいる。第三者が目撃すれば、巨大な物体が空から降ってきたのだと考えるだろう。けれども、衝突したその物の姿はない。目を疑うような異常な光景だ。
こんなに取り乱すなんてどうかしている。荒れ狂っている精神を静め、原因を探る。
リヴェンと木剣をぶつけ合う、フェイヴァの姿。
(よりによって……なんでリヴェンなんだよ!?)
面倒見がいいルカや、温和な性格をしたサフィなら、レイゲンも納得した。頑張れと声をかけて背中を押すことだってできたかもしれない。しかし、リヴェンは別だ。口汚い言葉遣いで他者を罵倒する。あんな奴のどこに惹かれたのだろう。男を見る目がなさすぎる。可能性は万一だと思うが、つきあうことになったとしても傷つけられるに決まっている。
(もっとましな奴はいくらだっているだろう! 例えば)
例えば――。その先に続く言葉が頭に浮かんで、レイゲンは硬直した。背後から突如として驚かされたように、顔を上げる。口許が凍りつく。
自分は今、何を思った。
(……馬鹿な)
気でも違ったか。それともフェイヴァは、自分にとってそれほど大きな存在になっていたのか。瞼を強く閉じて、奥歯を噛み締める。
フェイヴァが好意を持っている相手に激しい不満を抱いて、子供のように取り乱す。自分はいつから、こんなにも律することができない人間になってしまったのだろう。フェイヴァと出会った時からだろうか。それともウルスラグナ訓練校に入学し、歳の近い者と過ごすようになってからだろうか。
フェイヴァと出会い、彼女と深く関わっていくに連れて、自分は変わった。最初は馬鹿馬鹿しいと感じていた訓練校での生活も、同期と知り合ってみると不思議と苦ではなかった。彼らも程度は違えどレイゲンと同じく苦難を経験している。立ち居振舞いやふとした瞬間に見せる眼差しが、それを感じさせた。だから共通校の同級よりは、いくらかつきあい易かった。
家族との幸福な暮らしは、夢幻のごとく消え。血のにじむような鍛練を続け、辿り着いた場所。光に似た温かな少女や仲間たちとの安らかな語らいは、レイゲンから戦士としての資質を奪っていった。
(……弱くなったな、俺は……)
生まれ育った屋敷を出て、守衛士に捕らえられ牢屋の中で過ごして。引き取られた孤児院でベイルに養子として迎え入れられて。その時からずっと抱いていた強すぎる復讐の念は、炎がその勢いを弱めるように、沈静していきつつあった。
(こんなに腑抜けになって……。普通の人間と同じように生きていけると錯覚していたのか、俺は)
そんなことができるわけがない。なのに、無意識が平穏を恋しがり、志を捨て、周囲の人間と同化しようとしていた。ぬるま湯に似た環境が、いつしか心地よくなっていた。
(……母さん……)
突き立てた刃の感触を、吹きかかってきた血の生温かさを、今も覚えている。それらを忘れることは、家畜に身をやつす行為だ。全てを奪ったあの男にひざまずき、矜持を捨て去る行為に他ならない。
(だから、これでいい……)
フェイヴァが誰に恋い焦がれようが知ったことではない。レイゲンには関わりのない、対岸の話だ。
眼前に伸びるのは、暗闇に包まれた血まみれの道だった。レイゲンは家族を失ったその日から、果てのない道を独りで歩き続けている。小さな足が大きくなりしっかりしてきた頃、フェイヴァと出会った。その特殊な成り立ちから最初は忌避さえした。だが、フェイヴァを知るに連れて、彼女の中に自分が抱いていた感情を見た。フェイヴァはレイゲンの友となり、後ろからついてくるようになった。振り向けばいつもそこにいた。
友がひとりできると、途端に視界が開けた気がした。養父母。気に食わない姉。遠く離れて見えていた家族が近くにいた。ウルスラグナ訓練校に入り、たくさんの人間と知り合った。その中の数人は、頼んでもいないのに横や後ろに並んでずらずらとついてくる。――それを当たり前に感じかけていた自分が、腹立たしい。
フェイヴァは置いていく。数少ない友人たちのそばに。
(……最初は、独りだったんだ)
元に戻っただけだ。




