07.開いていく距離(1)※
療養室を出て、フェイヴァは部屋に戻ろうと歩を進めた。膝に力が入らない。真っ直ぐに立つことができない。壁を支えにして、頼りない足を歩かせる。石の冷え冷えとした肌触りが、心奥にまで染み入りそうだ。
『アタシ、ずっとフェイヴァに傷つけられてきたのよ。あなたのこと、アタシに信じさせて。あなたがひどい人間じゃないってこと、アタシに証明して』
脳裏に谺するのは、哀願のような響きを伴ったユニの声。自分は一体彼女に、どれほどの心痛を与え続けてきたのだろう。
(……そうだ……ユニはずっと、レイゲンさんのことが好きだったんだ……)
入学試験を受けようと集まった練習場で。レイゲンを初めて目にした時から──ユニはずっと、彼のことを特別に想っていたのだ。
(私……知ってたはずなのに。なのに、レイゲンさんとふたりきりになったり、お菓子を作って持って行ってた……)
フェイヴァはついこの間まで、ユニがレイゲンに向ける感情がどんなものなのか理解できていなかった。そんなことは、言い訳にはならない。
フェイヴァはずっと、友人であるユニの気持ちを踏みにじり続けてきたのだ。
(……ユニの言いつけを守らなきゃ……)
真っ直ぐに伸びた通路を歩いていると、顔見知りの人物に出くわした。ハイネとルカとサフィだ。三人は通路に広がりながら、こちらに歩いてくる。
今は誰とも話したくなかった。引き返そうにもすでに遅く、三人はフェイヴァに気づいた。ルカが軽く片手を挙げる。人懐っこい笑みに白い歯が覗いた。
「よう、ユニはどうだった?」
フェイヴァは答えられない。無言で歩き、隣を通り過ぎようとした。
「あんた、どうしたの?」
ハイネの顔に訝りがよぎる。彼女に腕を掴まれて、フェイヴァはぎょっとした。
「な、なんでもないよ。なんでも……」
「体調が悪そうだよ。何かあったの?」
気遣わしげなサフィの声に、フェイヴァは重い頭を横に振った。目眩がする。どうしたのだろう。身体の調子が悪い。
「だ、大丈夫だから……平……」
足下がぐらつく。フェイヴァは床に受け身も取れず倒れ込んだ。強く半身をぶつけたが痛みは感じなかった。衝撃だけが身に鈍く響く。
三人の慌てる声が、遠くに聞こえる。
暗くなっていく視界。鉛のごとく重くなっていく身体。この感覚には覚えがあった。
ユニの感情を露わにした言葉をきっかけにして、忌まわしい記憶が甦ってしまっていた。それは過去の中にとどまらず、生々しいまでの痛みと悲しみを宿してフェイヴァの精神に覆い被さったのだ。その上に更に、自分がずっとユニを傷つけていた事実を知った。
フェイヴァの精神は疲弊し、惑乱を来たしかけていた。死天使の身体が心を守るために、現実を手放そうとしているのだ。──強制的な機能停止。
フェイヴァは何もかもが面倒になり、意識を放棄した。
***
毛羽立った毛布に触れる。自分の身体の下に、柔らかな布の感触があった。フェイヴァは瞼をゆっくりと持ち上げる。窓から差し込んだ陽光が目の前を横切って、眩さに瞬いた。
ここはどこだろう。目覚めきれない頭のままに、視線をさまよわせる。ぼやけていた石造りの天井がはっきりと映し出される。それを背景にして、レイゲンの顔が視界に飛び込んできた。フェイヴァは慌てて上体を起こす。
「……気がついたか──ぐっ!?」
「あいたっ!」
ごつんと、額と額がぶつかった。
フェイヴァは再び寝台の上に上半身を戻し、額を押さえた。レイゲンはそんなフェイヴァを覗き込みながら、自身の額を撫でる。
「……さっきまで気を失っていた癖に、慌てて立ち上がるんじゃない。安静にしてろ」
若干赤くなった額から手を離して、レイゲンが言う。ぶっきらぼうな口調でありながら、見下ろす瞳は穏やかだった。
フェイヴァは首を巡らせて、室内を確認した。左側に顔を向けると一台の空の寝台がある。視線を上に向けると木製の扉があり、その脇には机が設置されていた。書類や本が整理整頓され、机の隅に置かれている。セレン水医が使用している机だ。
この部屋は治療室だ。以前、転んで膝から出血したユニを診てもらおうと、ミルラとともに足を運んだことがある。ふと甦った思い出が、辛い。
「……先生はどこに……」
「今、ルカたちが呼びに行ってる。俺はあいつらに呼ばれてな。ここでお前を見てろだと。し……まったく、いい迷惑だ」
フェイヴァは今度こそ身体を起こして、レイゲンを見た。
彼は腕を組んで椅子に座っている。その表情は、言葉通り不満げにフェイヴァには見えた。
(……迷惑だったんだ。なら、見ていてくれなくてもいいのに)
早くこの部屋から出ていかなければ。セレン水医に身体を調べられるわけにはいかない。フェイヴァは死天使だ。人間の身体について熟知している彼女に検査されれば、違和感を与えかねない。だから可能な限り、フェイヴァはこの部屋に足を踏み入れないようにしていた。
そもそも、死天使であるフェイヴァが訓練校に紛れ込めているのは、身体検査を免除されているからだ。
三ヶ月に一回予定されている身体検査は、設備や人員の問題で、学校内ではなく都市の治療院で行われる。その検査方法は多岐に渡り費用も高額なため、検査を受けるのは一月前に病気や怪我をした者に限定されていた。
「わざわざ来てくださって、ありがとうございました。ご迷惑をおかけしました。それでは失礼します」
フェイヴァは床に降りると、レイゲンに頭を下げた。流石に無視はできない。彼は迷惑に思いながらも、自分の時間を割いてここにいてくれたのだから。
レイゲンの反応も確認せずに、部屋を後にしようとする。
後ろ手が引っ張られて、振り返った。レイゲンがフェイヴァの手首を掴んでいた。
慣れた感触だった。フレイ国のルネに迎えに来てくれた時も、こうやって握られたような気がする。
仕舞い込んでいた記憶の蓋を開ける。あの日々が──遠い。
「……何かあったのか?」
「何も」
自分でも作り笑いをしている自覚があった。無理矢理に口角を持ち上げる。
「ミルラのことで気持ちが落ちていただけです。少し眠ったら良くなりました」
「それだけか?」
「それだけです。もう行かなければ。申し訳ありませんが、皆によろしくお伝えください」
レイゲンの手に触れる。自分のものではない温かさを感じて、胸が詰まった。彼は驚いたように、触れ合った手を見ていた。力が弱まった隙に引き剥がす。
フェイヴァは振り返らず歩き、部屋を出て行った。
呼び止められなかったことにほっとしながらも、心のどこかが苦しかった。休息し力が込められるようになった足を、しっかりと踏み締める。
頬を伝って、何かが鎖骨に落ちた。
触れてみると、制服の生地が濡れている。──涙、だ。
自覚すると同時にあふれ出して、視界が歪んだ。フェイヴァは目の下を拭う。拭っても拭っても、涙は止めどなく流れていく。
***
フェイヴァはその日から、レイゲンに近づかなくなった。彼に貰った帯状の織物は使わなくなった。けれども棚に仕舞っておくことができなくて、衣服や制服の衣嚢に入れて持ち運んでいた。
授業や訓練中は教官の目があり、私語はできない。注意しなければならないのは休憩中だ。場所を移動した時にレイゲンがいるとわかると、悟られないように姿を消した。彼が歩み寄ってきても、気づいていないふりをして場所を移す。話しかけられても、適当な理由をつけて逃げ出した。
そうして、五日が過ぎた。
フェイヴァは無気力に日々を過ごしていた。レイゲンを故意に避けるのは心苦しい。いつも苦い気持ちを抱いていなければならず、本心から笑うことができなくなった。誰かに話しかけられても気のない声で返す。口数が少なくなる。とうとう人づきあいが苦痛になって、ひとりで過ごすことが多くなった。
教官の点呼が終わり、朝食と掃除を経ての一時間休憩。
フェイヴァは図書室に行き、時間を潰すようにしていた。机に顔を伏せ、ときおり時計を見て時間が過ぎるのをひたすらに待つ。朝に行っていたユニの見舞いも夜に行くことにした。彼女はいつも、フェイヴァが言いつけを守っているか聞いてくる。それが気を重くさせて、先伸ばしにしてしまうのだ。
一本道の通路を東に進んで階段を上がろうとした。人の気配があり目線を上げると、そこに出会ってはいけない人を見つける。
「……あ……忘れ物しちゃった……」
思わず口走ったのは、我ながら下らない嘘だった。もっと適当な理由を考えられなかったのだろうか。
足を止めたフェイヴァは、身を翻すと来た道を引き返す。階段を駆け下りる音がし、腕が掴まれた。
「待て」
レイゲンだった。腕を握る手に力が込められる。
フェイヴァは振り向いて彼を見た。視線がぶつかり合う。赤い色がにじんだ瞳が細められている。噛み締めた唇が何を意味するのか、フェイヴァにはわからない。
「……すみません。私、急いで取りに戻らなくては」
反射的に、習熟した愛想笑いを浮かべる。彼の手から腕を引き抜こうとするが、ぐいと引かれた。
「何かあったのか? ……お前、最近変だぞ」
「離してください」
レイゲンの顔から目線を反らして言うと、彼は力を抜いた。その拍子に手を外そうとしたが、逆に掴まれてしまう。指が絡み掌が重なり合う。彼はフェイヴァの手を引いて、身体を正面に向けさせた。
レイゲンの、悲痛の色さえ浮かべた瞳が辛かった。そんな目で見ないでほしい。フェイヴァは顔を伏せる。
「……何もありません。私まだ、立ち直れていないんです。だから、誰とも話したくないんです」
悲しみに沈んでいても、ミルラは戻ってこない。そう言っていたのは誰なのか。彼女の死を言い訳にしている自分が汚く、情けなく思えた。
「お前が、俺を避けているのは知ってる」
フェイヴァは瞼を閉じた。触れ合った手が熱い。
「……前にお前、屋上で俺に聞いたよな。自分が何か気に障ることをしたのかと」
レイゲンの言葉を受けて、フェイヴァは彼を見上げた。いけない。咄嗟に顔を俯ける。
レイゲンと距離を取ることがこんなにも苦しいのは、彼に以前の自分と同じ思いをさせてしまうからだ。彼を傷つけてしまうことが、わかっていた。彼に避けられていた時、あんなに悩んだのに。同じことを──いや、それ以上に冷たく、彼に仕返してしまうなんて。
「今度は俺が聞く。俺に気に食わないところがあるなら、はっきり言え」
言ってしまいたい。何もかもを告白して、レイゲンに謝りたい。今なら、それができる。彼は今、自分の気持ちを聞くためだけにここにいるのだ。フェイヴァの話に真剣に耳を傾けてくれるはず。
「──レイゲン、さん」
震える声で名前を呼ぶ。重ねた掌に、きゅっと力を込める。
『あんた、人間じゃないわ!』
背筋が冷える。衝動のままに、フェイヴァはレイゲンを押し退けた。彼は壁に手をついて、転倒を免れる。
レイゲンと重ねていた手を、胸の前で握り締めて。フェイヴァは彼から一歩身を引く。
言えない。言えるわけがない。レイゲンに言えば、ユニに伝わる。そうすれば彼女は自分を嫌い、また罵るのだ。怒られる。逆らうのは怖い。傷つけられたくない。
「あなたと話したくないんです! もう私に、構わないでくださいっ!」
青藍色をした髪から覗く双眸が、しっかりと見張られる。彼がありありと動揺を示すさまを、フェイヴァは初めて見た。
口にしてしまった瞬間、すべてが終わったと感じた。
この言葉をぶつける前ならば、元に戻れる可能性もあった。フェイヴァがレイゲンに素直に話し、深く頭を下げる。彼は許してくれないかもしれない。けれども、完全に相手を拒絶してしまった今の状況より遥かにましだろう。
目頭が熱くなる。フェイヴァは彼に背中を向けると階段を駆け上がった。
後ろは、見なかった。




