06.奴隷の精神
◇◇◇
フェイヴァは、遠くなっていくレイゲンの後ろ姿を見つめていた。
呼び止めて、きちんと何があったのか尋ねるべきだ。思ったが、足早に去る広い背中には、拒絶の念が透けて見える。フェイヴァはとうとう、無言でレイゲンを見送った。
彼の姿が消えると、自分の選択は間違っていなかったのだという、慰めにも似た気持ちが生じた。
(……だって、ふたりだけの問題だから)
ユニと喧嘩でもしてしまったのだろう。こんな時は、何も言わずに見守ってあげなければいけないのに。
フェイヴァは、レイゲンの不器用さや、無愛想な表情の裏に隠れた優しさを知っている。きっと、ささいな擦れ違いだろう。きっかけがあれば、すぐに仲直りできるくらいの。
レイゲンもユニも、こんな自分を人らしく扱ってくれる真っ直ぐな心根の持ち主だ。きっとまた、すぐに元に戻れる。
レイゲンの部屋を訪ね療養室に来るまで、彼は自分がどれだけユニと親密な関係であるか教えてくれた。
『だから、絶対に、行かなきゃ駄目です!』
『そうだな』
『……ユニに……優しくしてあげてください……』
『わかった』
『私、ここで待っていますね』
『……そうだな。あいつに誤解されたら堪らないからな』
レイゲンの瞳から記憶を見るまでもない。ペレンデールの農地区でふたりを見た時にはすでに、彼らは特別な関係になっていたのだ。
(……馬鹿だなぁ、私って。ずっとわからなかった)
雨粒が屋根を叩く音を聞きながら。厩舎の下で、ユニはレイゲンに告白したのだろう。彼は彼女の気持ちを受け入れた。
フェイヴァが訓練校に入学してできた数少ない友達が、恩人と想いを通わせた。これほど喜ばしい出来事はないだろう。──なのに。それなのに。
(……どうして)
フェイヴァは、自身の胸に手をおいた。
(どうしてこんなに……苦しいんだろう)
フェイヴァは顔を伏せた。震えるくらい悲しくて、声を上げたいほどに辛い。なぜなのだろう。なぜ、こんな気持ちを抱くのだろう。混乱している。自分の心がわからない。
(……駄目だ、こんなの)
深呼吸を繰り返し、落ち着かせる。しばらくそうして、時が過ぎるのを待った。頭の中をからっぽにしてじっと耐えていると、少しずつ平常心に近づいていく。胸の痛みも息苦しさも和らいでいった。フェイヴァは深く長く、安堵の吐息を落とす。
膝の上には、ユニに渡そうと選んだ恋愛小説がある。
昨晩ハイネが帰った後、悩みに悩んだすえに、休憩時間ぎりぎりに決めた三冊だった。表紙の可愛らしさで選んで失敗した。最初の数ページだけ読んでみたが、文章が難しくて頭の中に入ってこないのだ。
(でも、ユニは私より本が読めるから、気に入ってくれるかもしれない)
この本だけでも持って行ってみようか。話したくないと言われたらすぐに帰ればいいし、落ち込んでいるなら力になりたかった。
椅子から離れ、扉の前に立つ。本を脇に抱え、手を伸ばして。
取っ手を握るのを、ためらってしまっている自分に気づいた。
『アタシ、喋りたくないの。……見て分からない?』
ユニに、あんなふうに強い言葉を浴びせられたのは初めてだった。彼女が辛いのはわかる。けれどもフェイヴァは、胸の疼きを感じてしまったのだ。
(今日も同じようなことを言われたらどうしよう……)
意気地なしな心地を、首を振って払う。少しくらいきついことを言われたから、どうだというのだ。
一番苦しいのはユニなのだ。深い哀傷に、彼女は自分の気持ちすら制御できないに違いない。
そう言い聞かせて。フェイヴァは扉の取っ手を掴み、開けた。
療養室に足を踏み入れた時。寝台で横になっていたユニの表情に、鋭さが満ちた。睥睨される。見紛うことなき、怒りと憎しみが込められた眼差しだった。
彼女の顔が信じられなくて、フェイヴァは固まった。自分の面には、怯えが浮かんでしまっていたかもしれない。
フェイヴァの動揺を感じ取ったかのように、ユニは瞬時に表情を崩した。微笑んだのだ。それまで彼女の顔にちらついていた不穏な色は、鳴りを潜める。
「フェイヴァ、どうしたの? そんなところにいないで、こっちに来たら?」
「……う、うん」
フェイヴァはゆっくりとユニに歩み寄った。床石を叩く音が小さく鳴り響く。
ユニは上半身を起き上がらせる。長い睫毛が描く微笑みは、彼女の秀麗な容貌と合わさり、男女関係なく見惚れそうなほど魅力的だ。しかし、今のユニの笑顔は、心を隠す仮面を見ている感じがした。
「ユニ。これ、昨日言ってた小説。私が選んだから、面白くないかもしれないけど」
「……わざわざ選んでくれたの? ありがとう」
ユニは本を受け取ると、枕元においた。
「今は、体調は大丈夫なの?」
「ええ。昨日よりいいわ」
口許から笑みが消える。真っ青で大きな瞳を見開き、ユニは真顔になった。
「……あなたが、レイゲンを連れてきてくれたおかげよ」
「ち、違うよ!」
フェイヴァは咄嗟に否定するが、続く言葉が出てこない。
知らないのだ。レイゲンが今日までユニを見舞いに行かなかった理由も。どうして今日、見舞いに行こうと思ったのか。その理由さえ。
下手なことは言えない。フェイヴァは口をつぐむ。
「アタシがわからないと思った? もっと頭を使いなさいよ。こんなに早く入ってくるなんて、外で待ってましたって言ってるようなものよ」
輝いて見えていた黄金色の髪は、すっかり褪せている。元々色白の肌は、療養室での生活を経て、病弱さを示す色に変わってしまっていた。
海を投影した瞳。その奥に見えるのは、底知れない暗黒。
「……アタシに見せびらかしてるつもり? アタシのことずっと、影で見下して笑ってたんでしょ?」
「……ど、どうしたの、ユニ? おかしいよ……」
変だ。ユニはどうかしている。フェイヴァは弱々しい声をかけることしかできない。自分の顔が引き攣ってしまっているのを感じる。予感に、その先に待つ恐怖に。
「あんたのその、被害者ぶった顔が気に食わないのよ! どうしてアタシの過去をレイゲンが知ってるのよ! どうして人に知られたくない過去を、よりにもよって彼に話すのよ! アタシがあんたのこと、どれだけ我慢してやったと思ってるの!?」
「……ち、違うよ……ユニ、それは」
ユニは誤解している。フェイヴァはレイゲンに、ユニが幼いの頃に一度力を使ったことがある、ということしか話していない。けれどもユニは彼の口振りから、フェイヴァが自分の過去をすべて彼に話してしまったのだと思ったのだろう。
封じ込めて鍵をかけていたほどの、凄惨な過去。両親が殺され、自分の力が暴漢たちを殺害した。絶対に知られたくないはずだ。想いを寄せているレイゲンには、特に。
「今だってそうよ! ミルラが亡くなったのに、そんな平気そうな顔して! アタシたち、友達だったのよ! 入学してから、ずっと一緒に過ごしてきた! それなのに、こんなにすぐに立ち直るなんてっ……」
怒気を孕んだ声が、フェイヴァの心を激しく揺さぶった。
駄目だ。これ以上聞いてはいけない。
「あんた、人間じゃないわ!」
険しい形相が、怨言を吐き出した。
ユニの言葉を呼び水に、封じ込めて忘れ去ろうとしていた記憶の欠片が、眼前に飛び散った。
『貴様が人間だと!? 機械の分際で、人間と同等だと主張するのか!』
『人間になったつもりでべらべら喋りやがって。気色悪い』
「あんたなんて大っ嫌いっ!」
「や──やめてぇっ!」
フェイヴァはうずくまって、耳を塞いだ。
鈍色の記憶の欠片が集まり組み上がり、ありありと甦る。
鉄格子の部屋の冷たさ。枷の重さ。石の扉を開けて、入ってきた兵士たちの──残忍な表情。
刃が振り下ろされる。腕が斬られた。血があふれ出す。逃げようとしたところで、髪を掴まれて床に叩きつけられる。両手で身体を庇う。涙が溢れて助けを乞う口の中に流れる。冷たい刃先の感触。肉が斬られる。頭の中が白く染められるほどの激痛。苦しい。怖い。誰か、誰か助けて。
「……すみません……」
フェイヴァは唇から声を絞り出す。
「すみません……。私また、気に障ることを……」
レイゲンにユニの過去をわずかでも話してしまった。それが引き金になってしまったのだ。彼女の心を深く傷つけてしまった。
謝らなければ。謝って、許しを乞わなければいけない。
思いの丈をぶつけたユニは、フェイヴァを寝台の上から見下ろしていた。床に足をつけると、フェイヴァの肩に手をおく。
「ごめん、言い過ぎたわ。……ねえ、フェイヴァ。アタシたち、友達よね? あなたはアタシのこと、好き?」
「あ……当たり前だよ……」
ユニとミルラは、知らない人たちに囲まれて不安になっていたフェイヴァに、親しげに声をかけてくれたのだ。劇に誘ってくれた。フェイヴァが狩人を殴りつけた時も、追いかけてきて慰めてくれた。
大切な、友達なのだ。
「じゃあ、アタシの頼みを聞いてくれるわよね。これから、レイゲンと話さないようにして。話しかけられても無視して。……できるわよね?」
フェイヴァはユニの顔を見つめた。突き刺すように冷たい双眸がそこにはある。
「アタシ、ずっとフェイヴァに傷つけられてきたのよ。あなたのこと、アタシに信じさせて。あなたがひどい人間じゃないってこと、アタシに証明して。そうしてくれたら、アタシはずっとフェイヴァの友達よ。
……もし、できないって言うなら」
今まで大切に培ってきたものが、足下から崩れ落ちていくような気がした。目に映るものが歪む。空気を吸い込めないほどの緊張が、全身を硬直させる。
「わかったっ! 私、ユニの言うこと聞くからっ!」
悲鳴に近い声で言い、顔を覆った。心の深い場所が抉られて、穴が空いていた。風が通ると削られて、虚ろな音が鳴る。
「だから、私のこと、嫌いにならないで……!」
嫌われるのは怖い。憎まれるのは怖い。嫌悪や憎しみが積み重なれば、やがてフェイヴァは虐げられる。ならば従うしかないのだ。言うことを聞けば、嫌われることも憎まれることもないのだから。従順に振る舞うのだ。自分の意見を持ってはいけない。主張する資格はない。
なぜなら自分は──機械だから。化物だから。人間の下に位置する、使われるべき道具なのだ。
どんなに感情を知っても。どんなに人間を知っても。フェイヴァは決して、人間にはなれない。自分には心臓がない。身体を動かすための血も流れていない。偽物の身体。自分という存在は、まがい物なのだ。
(もう……あんな思いは、二度と……)
ユニはフェイヴァの頭を撫でた。以前なら快く受け入れられたその手つきが、今は怖い。
「……いい子ね。それでいいのよ。これから毎日ここに来てね。フェイヴァの顔が見られないと寂しいから」
フェイヴァは立ち上がった。床を踏み締めているのに、感触が希薄だった。今にも飲み込まれて、落ちてしまいそうだ。
「……じゃあ、また来るね」
よろめくフェイヴァに、ユニはしっかりと頷いた。
「約束よ」




