05.誤解と過去の傷(2)【レイゲン視点】
「私、ここで待っていますね」
治療室と療養室の間に椅子が数脚置かれている。フェイヴァはそこに腰を落ち着けると、本を膝の上に載せた。
「……そうだな。あいつに誤解されたら堪らないからな」
フェイヴァと一緒に部屋に入ろうものなら、ユニの精神を更に追い詰めてしまうだけだろう。
フェイヴァは本の上にのせた手を、握り締めていた。口許が強張っているのが目にできる。
「……どうかしたか?」
「い、いいえ! なんでもありませんっ!」
フェイヴァは胸に手をおいて、深呼吸を繰り返した。レイゲンに顔を見せて、にっこりと笑う。
「ちょっと考え事してたんです。
あ、そうだ。……ユニに伝えるべきですよね」
「そうだな」
フェイヴァが言わんとしていることは理解できた。
ペレンデールからの帰路、襲いかかってきた仮面の兵士たち。彼らはユニの殺害を目的としていた。彼女は騒動の真っ只中にいる人物だ。知る必要はないと言えばそれまでだが、何もわからない状況が却って恐怖を増大させることもある。必要最低限の情報は伝えるべきだろう。
「俺が話そう。あいつには個人的に聞きたい話もあるからな」
「……そ、そうですか。よろしくお願いします」
フェイヴァは深々と頭を下げた。その膝上に載った本に、目が止まる。
赤い装丁に、筒型の衣服を身につけた女と鎧を身にまとった男が描かれている。女が差し伸ばした腕を、ひざまずいた男が取り、手の甲に口づけていた。如何にも女が好みそうな絵だ。これは恋愛小説だろう。残りの二冊の装丁にも、似たり寄ったりな絵が描かれていた。
(なんでこんなものを持ってきたんだ。……時間を潰すためか?)
レイゲンとユニが話している間、ただ椅子に座っているのも辛い。気を紛らわすために図書室から借りてきたのか。
(……フェイヴァは、こんな本を読むのか……)
今となってはほとんど意識することがないが、フェイヴァは死天使なのだ。そんな彼女が恋愛小説を読んでいる。これは一体どんな意味を持つのか。
深く考えずとも理解できた。その瞬間、表現し難い感情が迫ってきて、レイゲンは息苦しさを覚えた。
(……誰か……気になる奴でもできたのか……)
あり得ない話ではない。フェイヴァの心は間違いなく人間だ。ウルスラグナ訓練校で過ごす内に成長し、誰かに好意を抱いたのだろう。けれどどこか抜けたところがある彼女は、その感情をまだはっきりと掴むことができず、小説を読んで学んでいるのかもしれない。
フェイヴァが誰と親しくなり、誰に好意を持とうがレイゲンには関係ない。にも関わらず、その事実に吐きそうなほど気分が悪くなる。
フェイヴァは本を開いた。難しい顔をして読み始める。寄せられた眉は眉間にしわを刻んでいて、真剣さが窺えた。
(……なんだ、どうしてこんな気持ちになる?)
レイゲンは自分自身を、理性で感情を律することができる人間だと思っていた。しかし、それは思い違いだったようだ。フェイヴァと出会ってからは特に、把握できない感情が湧いてくるようになってしまった。これは弱さだろうか。それとも──。
その場にい続けることが嫌だった。フェイヴァから顔を背けると、療養室の前に行き、扉を開いた。
ただっ広い部屋には、八台の寝台が並べられている。その傍らには食事や物書きを行うための、小さな机と椅子が並べられていた。窓から入ってくる光が、石材の持つ重々しさと、病室特有の辛気臭さを追い散らしている。
端に位置する寝台で横になっていたユニは、がばりと身を起こした。彼女の精神状態を映したかのように色褪せた髪を、細い指が掻き上げる。肌が青白くやつれてしまっているため、瞳の大きさが際立っていた。
「レイゲン……どうして……」
ユニは、レイゲンが見舞いに来るとは思ってもみなかったのだろう。彼女の顔を見つめて、レイゲンは苦い感情を思い出した。
ペレンデールでの遠征中。レイゲンはユニとふたりで農地区に食料を探しに出かけたのだ。途中で雨が降り出し、ユニの頼みで雨宿りをすることにした。
『あなたのことが、好きだから』
レイゲンを見上げ、ユニは哀切を帯びた表情でそう口にした。背中に手を回し、抱きついてくる。
『初めて見た時から、あなたのことが好きだったの。今は好きになってくれなくてもいい。お願い、あなたの側にいさせて』
レイゲンはユニの肩を掴んだ。乱暴にならないように、けれどきっぱりと押し離す。
『それはできない』
ユニは青い瞳に大粒の涙を浮かばせた。白い肌を流れ、軽鎧に落ちる。
『……そんな』
『俺は、お前が思っているより普通じゃない。そんな感情は捨てろ』
今まで告白してきた少女よりも、わかり易い言葉で伝える。
結局のところ、そうなのだ。自分は普通ではない。レイゲンのような特殊な存在は、人に理解されることはない。特に、ユニのような普通の人間には。
『そんなの関係ない!』
ユニは感情のままに叫んだ。哀愁が含まれた涙声。
『お前になくても俺にはある。もっと周りに目を向けろ』
住む世界が違い過ぎる。ユニたちの世界では、レイゲンは落ち着いて生きていくことができない。たったひとりだ。
自分は強くあるという自信にしがみつきながらも。後ろ指を指されることを無意識に恐れる。
『……そんなにフェイの方がいいの?』
予想だにしなかった名前がユニの口から出て。レイゲンは目を見張る。
微笑みを浮かべたフェイヴァの顔が、脳裏に浮かぶ。
『……違う!』
『……ひどいわ、レイゲン。本当になんとも思っていないなら、そんなにむきになって否定しないのよ』
雨の中。壊れてしまいそうな面持ちをしていたユニと、目の前の弱りきった彼女がぴたりと重なった。
「……大丈夫か?」
レイゲンは寝台の近くにあった机から椅子を持ってきて、ユニの横に座った。寝台と椅子の上。ふたりの間には微妙な距離ができる。
「うん。……アタシ、あなたは来てくれないって思ってた……」
「そんなことはしない。……俺たちは、一緒に学ぶ仲間だろう」
なんと言っていいかわからず、ルカが口にしそうな言葉をかけた。
重いものにのしかかられてでもいるように、ユニはうなだれていた。緩やかに波打っていた黄金色の髪は、絡まり艶を失っている。フェイヴァの言う通り、平静にはほど遠い。
「……皆心配してる」
「ふふっ。あなたは心配してくれないの?」
「皆と言っただろう。俺もだ」
レイゲンは奥歯を噛み締め、頭を掻いた。適切な言葉を選ぶことができない。
「……気を遣ってくれるのね。ありがとう。本当に、初めて会った時と比べて優しくなった」
ユニは口許を手で隠して笑っていた。睫毛に芸術的に縁取られた瞳が、レイゲンを見返す。
「話したいことがあってきたんでしょう? フェイヴァとつきあうから俺のことは諦めてくれとか」
「勘違いするな。あいつは関係ない」
レイゲンはユニに向き合うと、姿勢を正した。
「……仮面を被った兵士たちの件だ」
ユニは緊張した面持ちになる。白い寝間着から伸びる両手を、握った。
「お前には伝えなければならないことと、聞かなければならないことがある。無理なら言え」
「……大丈夫よ。聞かせて」
噛み締めていた唇が動いた。承諾したユニに、レイゲンは話し始める。
「まず、奴らの目的は知っているな」
「アタシを殺すこと……でしょう?」
「そうだ。だが、なぜ自分が狙われるのか、理由はわからないだろう」
レイゲンはユニが頷くだろうと思っていた。しかし予想に反して、彼女はなんの反応も示さなかったのだ。まるで理解していると言わんばかりに。
「……ユニ?」
「……ご、ごめんなさい。思い出したら、怖くなったの。……アタシは何もわからないわ」
そうだ。ユニは本調子ではない。レイゲンが語って聞かせたことにより、ミルラが殺された時の状況をまざまざと思い出してもおかしくない。
「……フェイヴァから聞いた」
ぴくりと、ユニの眉が跳ねる。
「本来ならば、お前とフェイヴァの間でとどめておくべき話だろうが、状況が状況だ。お前が幼少の頃に使った力。奴らはその力を持った者を殺そうとしている」
ユニの顔は強張っている。表情が平静さを取り戻すまで、しばらくかかった。
「……そうなの。で?」
「何もわからないのは不安だろう。伝えておこうと思ったんだ。……俺たちにもまだ、わからないことが多すぎる」
レイゲンはそれ以上の情報を明らかにはしなかった。ペレンデールの住民を虐殺したのがユニと同じ力を持つ女だということも。今の状態で語って聞かせたところで、昏迷させてしまうだけだ。
「……俺たち、ねえ」
ユニの瞳は妙にぎらついていた。やつれた頬と、色が薄くなった髪がそう思わせるのだろうか。
「言いたいことはそれだけ?」
「ここからが本題だ」
レイゲンはユニの瞳を、真正面から見据えた。
「……ミルラとふたりで逃げた後、何があったんだ?」
レイゲンにはずっと疑問だった。ウルスラグナ訓練校に帰還し、ユニは教官たちに事情を説明したらしい。教官は集会で、ミルラが殺害された顛末を話した。だが、その説明では納得できない点がある。
「……何って。教官が話したでしょう? ふたりで逃げたあの後……仮面の兵士が襲ってきたのよ」
「ひとりでか?」
「そうよ。アタシを守ってミルラが殺されて……だからアタシも相手を殺してやった」
ユニの説明では辻褄が合わない。
逃げた先に仮面の兵士がたったひとりで現れたのだという。待ち伏せを行うにしても、なぜひとりだけなのか。いくら翼竜を巧みに御せても、集団で取り囲まなければ逃げられてしまう可能性があるのに。その上、ユニはミルラを殺害した兵士を、自分が殺したと言った。彼女はミルラの死体を抱えていたのだ。そんな状態で応戦して勝てるわけがない。
嘘を吐いているのだ。情報を深く知るレイゲンだからこそ、気づくことができた。
襲ってきたのは死天使か、仮面の兵士の集団のはずだ。テレサと繋がりがある組織。その上に単独行動をしていたというなら、死天使である可能性が高いだろう。
「……力を使ったんだな?」
ユニは肯定を示すかのように、目を見開いた。
「お前がなぜ嘘を吐いているのか。言いたくなければ構わない。……だが、これだけは正直に答えてくれ。
……その力は、一体誰に与えられたんだ?」
色褪せた過去が、痛みを伴って脳裏に広がる。
瑠璃に強く赤が滲む虹彩。自分と似通った容貌。その男こそが、レイゲンに人間を超越した能力を与えたのだ。
レイゲンはその男が、ユニに自分と同じことをしたのだと考えた。けれどもユニの身体能力は特別優れているわけではない。人間の域を出ないのだ。
(それに……瞳の色が違う)
レイゲンと同種の能力を持つ男は、自分と同じく赤みがかった色をしている。ユニの瞳は、深い海を映し取っているのだ。
「……ごめんなさい。言っている意味がわからないんだけど。アタシの力は、気づいた時にはあったのよ。生まれつきなの」
「そんな馬鹿な!」
ありえない。人間の身で、あの力を使えるわけがないのだ。感情のままに叫んだレイゲンに、ユニは驚いたように身を引いた。そうして──なぜか、顔を動かさずに瞳だけを左側に向ける。
(……なんだ?)
自らに問いかけて、口にするべきことを選んでいる。ユニの様子にはそんな感じがあった。
「……じゃあ、逆に聞くけど。あなたは誰にその力を与えられたの?」
背筋に悪寒が走る。口を滑らせてしまっていたと、今気づく。
「アタシ、ちゃんと聞いたわ。あなたは、与えられたって言った。アタシのこの力は生まれつきもの。じゃああなたは、一体誰に与えられたの?
……もしかして、お父さん?」
レイゲンは立ち上がった。あまりの勢いに椅子が大きく揺れる。
「……気に障ることを言ってしまったみたいね。話したくないなら構わないわ。アタシも今日は、疲れたから……」
ユニは毛布を抱き締めた。彼女の顔を見られず、部屋を後にする。
疑問もかけるべき言葉も消え失せた。記憶は刃の形を取り、レイゲンの身内に深々と突き立っている。口にするのも、触れられるのも耐えられなかった。
椅子に座っていたフェイヴァは、本を取り落としそうになっていた。紫色の目を白黒させている。
「ど、どうかされたんですか……?」
「なんでもない」
俯き気味のフェイヴァの顔と、その手に握られた恋愛を描いた本を見て。レイゲンはフェイヴァの隣を通り過ぎて行った。
後には、ぽかんと口を開けたフェイヴァだけが残された。




